“友”と呼ぶのは烏滸がましい学兄、山本卓さんから著書が届いた。
『舌耕・書本・出版と近世小説』。
80年代に実録研究を始めた仲間(私は若干遅いのだけれど)の、高橋圭一さんは『実録研究―筋を通す文学』を2002年に刊行しているし、コニ研出身の菊池庸介君もとっくに『近世実録の研究ー成長と展開ー』を出版した。
文学史事典の項目執筆や雑誌の実録特集の編集(延広先生と共編)もしたくせに、コニタはどうなってんだ? と言われそう(というか、そもそも忘れられてるよな~、と)。
まぁ、菊池が代わりに表に出てくれているから良いかな(やっと就職もしたしね)、と思わないでもないのだけれど、それでもやっぱり、“研究者”としてどうなのよ、と言う気持ちが無いわけではない。
山本さんの本をざっと眺めて(受け取ったばかりでまだちゃんと読んでません)、実録に軸足を置きながらも出版史や浮世草子・読本と言う近世読み物の流れをしっかり押さえて研究してきた人は強いな~、と改めて感じる。
こういう形で実録が発信されることで、やっと、江戸の文芸がみえてくるのだという、この、恐ろしく研究が手薄な分野の重要性を認識してもらえるのではないかと思う。
ありがたい。
素晴らしい師匠に恵まれたことを羨んでもしかたない。
私は専門と合致した師匠がいたわけではない、と言いながら、当時の東京で考え得る最高の人たちとの交流の中で学問をしていたのは確かだし、近世ではない兵藤さんや、静岡に来てから参加させて頂いた馬琴の会の面々との縁もあって、今の私があるのだと思う。
まともな師匠に恵まれなかった菊池も一人前に成長したんだから、やっぱり自分の問題なのだよね。
少しだけ時期をずらしながら実録研究を始めた山本さん、高橋さん、私は、それぞれに、はじめから興味の方向が違っていた。
それは多分、実録研究にとって良いことだったんだと思う。
しかし、私は、実録そのものを材料に研究を深めることから遠ざかってしまったし、いまは地域のお宝発掘隊みたいなことでお茶を濁して、そもそも、もう何年も“研究”と言えることをしていない。
それはそれで、意味がないとは言えないし、学生や地域の人たちの中にも喜んでくれる人が少しは存在する。
こういう事は簡単なようで、案外他の人には難しいのかも知れない、と思うこともあって、そこに私の存在意義みたいな物を見出そうと思えば、まぁ、それも一つ“アリ”なんだけれど。
それにしても、こんなのは“研究者”のやることではない。
題材のことではなくて、取組の深みのレベルで。
それならもっと深く突っ込めばいいじゃないか、と言うことなんだけれど、そのための基礎体力がないのだよね(実録にしても自分に十分な力があるとは思えないんだが)。
大学院生の頃は、専門のことはものすごく詳しいくせに隣接領域については何も識らない先輩たちを見て、自分が教養学部出身であったことを本当に嬉しく思ったのだけれど、今はやっぱり、もっと専門を深く学んでおくべきだったと言う思いもある。
何処に行っても素人だ。
もうすぐ50という歳になって、ありがたいことに、著書を出さないか、という熱心なお話も戴いた。研究書ではないのだけれど私の研究がちゃんと活かされる物になりそうなので、動き出してもいる。
色々回り道して、それはそれで、得る物は大きかったけれど、やっぱり、初心というか、本当に自分が追求したいことにもう一度ちゃんと向き合わないとな、と。
『舌耕・書本・出版と近世小説』。
80年代に実録研究を始めた仲間(私は若干遅いのだけれど)の、高橋圭一さんは『実録研究―筋を通す文学』を2002年に刊行しているし、コニ研出身の菊池庸介君もとっくに『近世実録の研究ー成長と展開ー』を出版した。
文学史事典の項目執筆や雑誌の実録特集の編集(延広先生と共編)もしたくせに、コニタはどうなってんだ? と言われそう(というか、そもそも忘れられてるよな~、と)。
まぁ、菊池が代わりに表に出てくれているから良いかな(やっと就職もしたしね)、と思わないでもないのだけれど、それでもやっぱり、“研究者”としてどうなのよ、と言う気持ちが無いわけではない。
山本さんの本をざっと眺めて(受け取ったばかりでまだちゃんと読んでません)、実録に軸足を置きながらも出版史や浮世草子・読本と言う近世読み物の流れをしっかり押さえて研究してきた人は強いな~、と改めて感じる。
こういう形で実録が発信されることで、やっと、江戸の文芸がみえてくるのだという、この、恐ろしく研究が手薄な分野の重要性を認識してもらえるのではないかと思う。
ありがたい。
素晴らしい師匠に恵まれたことを羨んでもしかたない。
私は専門と合致した師匠がいたわけではない、と言いながら、当時の東京で考え得る最高の人たちとの交流の中で学問をしていたのは確かだし、近世ではない兵藤さんや、静岡に来てから参加させて頂いた馬琴の会の面々との縁もあって、今の私があるのだと思う。
まともな師匠に恵まれなかった菊池も一人前に成長したんだから、やっぱり自分の問題なのだよね。
少しだけ時期をずらしながら実録研究を始めた山本さん、高橋さん、私は、それぞれに、はじめから興味の方向が違っていた。
それは多分、実録研究にとって良いことだったんだと思う。
しかし、私は、実録そのものを材料に研究を深めることから遠ざかってしまったし、いまは地域のお宝発掘隊みたいなことでお茶を濁して、そもそも、もう何年も“研究”と言えることをしていない。
それはそれで、意味がないとは言えないし、学生や地域の人たちの中にも喜んでくれる人が少しは存在する。
こういう事は簡単なようで、案外他の人には難しいのかも知れない、と思うこともあって、そこに私の存在意義みたいな物を見出そうと思えば、まぁ、それも一つ“アリ”なんだけれど。
それにしても、こんなのは“研究者”のやることではない。
題材のことではなくて、取組の深みのレベルで。
それならもっと深く突っ込めばいいじゃないか、と言うことなんだけれど、そのための基礎体力がないのだよね(実録にしても自分に十分な力があるとは思えないんだが)。
大学院生の頃は、専門のことはものすごく詳しいくせに隣接領域については何も識らない先輩たちを見て、自分が教養学部出身であったことを本当に嬉しく思ったのだけれど、今はやっぱり、もっと専門を深く学んでおくべきだったと言う思いもある。
何処に行っても素人だ。
もうすぐ50という歳になって、ありがたいことに、著書を出さないか、という熱心なお話も戴いた。研究書ではないのだけれど私の研究がちゃんと活かされる物になりそうなので、動き出してもいる。
色々回り道して、それはそれで、得る物は大きかったけれど、やっぱり、初心というか、本当に自分が追求したいことにもう一度ちゃんと向き合わないとな、と。
僕なんか、I柳さんに会うたびに皮肉いわれたりするわけで、こりゃいかんです。
宗教学は、仏教学に比べれば知識が薄く、歴史学に比べれば調べが甘く、哲学に比べると思索が浅い。厳格なディシプリンが欠如していて素人くさいものです。でも一般の人々にとっての宗教の意味を知ろうとするなら、玄人(聖職者や教祖)視線ではなくて素人の視線でないといけない。素人結構。目指せ、「プロの素人」。
分野もどんどん拡がっていくし。
私も、歴史学からは調べが甘く、文学からは読みが浅いと言われ……。
それ以前に扱っているテクストが、歴史学からは嘘ばっかりと言われ、文学からは読むに値しないと罵られ……。
だから面白いんですが。
ん~、同感。でも、アドバンテージも必ずあるはずだから……(←テンテンテンに説得力の弱さが……)
私も単著はまだです。というか、論文を書くのは楽しい(?)けれど、それをまとめて一書にする行為が、面倒というか、意義がどうなのか。
事情・環境がそれぞれだから、一概に言えないけど、まぁがんばりましょう。お邪魔しました。
同感です。
立ち止まることも必要だとは思うんですが。
そういえばGも含め、みんな著書出してないですね。
K先生がそういう人だから??