佐保川の「石橋」 (奈良市今在家町)
昔、京と奈良を結ぶ奈良阪を下ってきた旅人が、佐保川を越えるときに渡る橋。1650年頃造られた。
江戸時代には石造りの橋が滅多になかったということを、「石橋」という橋の名前に感じる。
写真は、石橋から奈良阪方向を望む。 この奈良阪は平城山を越えて京とつながっていた。
古い橋はそのまま残し、幅を拡張したりアスファルト舗装にしたりしています。
おかげで「い志ば」までが残り「し」は埋もれてしまいました。
向こうに見えている道(国道369号)を進むと左側に東大寺があります。
橋の下の橋脚は、中側が江戸時代のもの、両サイドは増設されたものでしょう。
(2019年3月撮影)
公慶上人(本ブログ 2018年 No.1 参照)が東大寺大仏殿を再建した際、九州から運ばれた大虹梁2本は、
木津の港に陸揚げされた後、市坂を通り平城山を越えて、大仏殿に向かう途中で、この橋を通ったと思われます。
江戸時代の奈良の町の様子を記した「奈良坊目拙解」(奈良県立図書情報館所蔵)には、
この石橋についての以下のような記述があります。
右から8行目以降、○宝永元年の項について、字面を拾ってざっくり推察すると
「宝永元年(1704年)8月20日 大仏殿大虹梁材木(長さ13間)は 木津から南都(奈良)に入った。
件の石橋では橋の上に土砂を厚く盛り敷き 数多くの材木などで橋の欄干や脚を補強して地車を通した。
それで石橋は破損することはなかった」
「橋の上に土砂を厚く盛り敷き」とあるが、現在、石橋から奈良阪方向を望むとはっきり坂道であることが分かる。
この坂を勢いよく下ってきた虹梁が、石橋を破損することの無いように土盛りの工夫をしたのではないでしょうか。
「地車が通っても橋は破損しなかった」旨の記述があります。
大虹梁が無事に橋を通り終えたときに、今在家の人々の間で湧き上がったであろう歓声を、
橋のたもとの自販機の横に立って想像してみる。 今から315年ほど前のことですね。
石橋の近くの今在家町会所には、橋の様子が描かれた不思議な絵図が伝わっているそうです。
この絵図は何を意味しているのでしょうか。
ホームページ 「奈良きたまち」>「歴史の雫」>「手貝町辺りから西側へ」>「石橋」
で検索すると、この絵図を見ることができます。
年に一回、桜祭りのときには一般公開もされているそうです。
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「それも応 是もおうなり 老いの春」
岩田涼菟(1659ー1717)
なかなかこの境地には到達できません・・・
「風吹けば コロコロコロコロ アスファルトを 縦に転がる桜の花びら」 多賀葉子
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主な参考資料
・奈良県立図書情報館 まほろばライブラリー ふるさとコレクション 古文書検索
「奈良坊目拙解」全15巻のうちの第11巻 資料ID 151260788(石橋の記述は37コマ目)
・「奈良きたまち」ブログ
・小学館「近世俳文・俳句集」
・ウィキペディア
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