古今東西 珠玉の言の葉めぐり

これまで心に響いた珠玉の言葉を写真とともに掲載します

2020年 No.1(3/17)

2020-03-17 | 言の葉


  この写真は昭和59年2月に東京都杉並区の和田堀公園で撮影したもの。
  このニワトリたちは同じ方向を向いていますが、どうしたのでしょうか。
時告鳥 古事記


     実は、




  おじさんがエサを持ってきてくれるのを待っているのでした。
  今から36年前のできごとです。  のどかな時代でしたね。



   ところで、鶏が登場する有名な和歌といえば





  「夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」
     清少納言(966年頃-1025年頃)

 逢坂の関は、京と近江の国境となっていた関所。
 現在、大津市大谷町の国道1号線沿いに「逢坂山関址」公園が整備され、関にちなんだ和歌の石碑などがあります。
 京阪京津線大谷駅から東に徒歩3分。 2020年2月撮影 





*主な参考資料
  角川ソフィア文庫「古事記」
  京都書房 「小倉百人一首」
  ウィキペディア   


    著作・制作 KY企画



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2019年 No.2(6/1)

2019-06-01 | 言の葉
  

  
 
  「ひとりひっそり竹の子竹になる」 種田山頭火(1882ー1940)






  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 





    
        
        「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」 高浜虚子(1874ー1959)

         写真は木津川市梅谷産のさくらんぼ

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  

 *参考資料 
  筑摩書房 現代日本文学大系「現代句集」
  角川選書 山本健吉「定本 現代俳句」

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2019年 No.1(4/22)

2019-04-22 | 言の葉

佐保川の「石橋」 (奈良市今在家町)



 昔、京と奈良を結ぶ奈良阪を下ってきた旅人が、佐保川を越えるときに渡る橋。1650年頃造られた。
 江戸時代には石造りの橋が滅多になかったということを、「石橋」という橋の名前に感じる。
 写真は、石橋から奈良阪方向を望む。 この奈良阪は平城山を越えて京とつながっていた。




 古い橋はそのまま残し、幅を拡張したりアスファルト舗装にしたりしています。
 おかげで「い志ば」までが残り「し」は埋もれてしまいました。
 向こうに見えている道(国道369号)を進むと左側に東大寺があります。
 橋の下の橋脚は、中側が江戸時代のもの、両サイドは増設されたものでしょう。
 (2019年3月撮影)

 公慶上人(本ブログ 2018年 No.1 参照)が東大寺大仏殿を再建した際、九州から運ばれた大虹梁2本は、
 木津の港に陸揚げされた後、市坂を通り平城山を越えて、大仏殿に向かう途中で、この橋を通ったと思われます。

 江戸時代の奈良の町の様子を記した「奈良坊目拙解」(奈良県立図書情報館所蔵)には、
 この石橋についての以下のような記述があります。


 
 右から8行目以降、○宝永元年の項について、字面を拾ってざっくり推察すると
   「宝永元年(1704年)8月20日 大仏殿大虹梁材木(長さ13間)は 木津から南都(奈良)に入った。
   件の石橋では橋の上に土砂を厚く盛り敷き 数多くの材木などで橋の欄干や脚を補強して地車を通した。
   それで石橋は破損することはなかった」

 「橋の上に土砂を厚く盛り敷き」とあるが、現在、石橋から奈良阪方向を望むとはっきり坂道であることが分かる。
 この坂を勢いよく下ってきた虹梁が、石橋を破損することの無いように土盛りの工夫をしたのではないでしょうか。
 
 「地車が通っても橋は破損しなかった」旨の記述があります。
 大虹梁が無事に橋を通り終えたときに、今在家の人々の間で湧き上がったであろう歓声を、
 橋のたもとの自販機の横に立って想像してみる。 今から315年ほど前のことですね。


 石橋の近くの今在家町会所には、橋の様子が描かれた不思議な絵図が伝わっているそうです。
 この絵図は何を意味しているのでしょうか。
 ホームページ 「奈良きたまち」>「歴史の雫」>「手貝町辺りから西側へ」>「石橋」
 で検索すると、この絵図を見ることができます。
 年に一回、桜祭りのときには一般公開もされているそうです。

 

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  




 「それも応 是もおうなり 老いの春」
  岩田涼菟(1659ー1717)

 なかなかこの境地には到達できません・・・

 「風吹けば コロコロコロコロ アスファルトを 縦に転がる桜の花びら」  多賀葉子

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 主な参考資料
  ・奈良県立図書情報館 まほろばライブラリー ふるさとコレクション 古文書検索
   「奈良坊目拙解」全15巻のうちの第11巻 資料ID 151260788(石橋の記述は37コマ目)
  ・「奈良きたまち」ブログ
  ・小学館「近世俳文・俳句集」
  ・ウィキペディア



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2018年 No.1(4/27)

2018-04-27 | 言の葉
 



「一紙半銭」は、江戸時代に東大寺の大仏修復と大仏殿再建のための勧進を行った公慶上人(1648-1705)が掲げた言葉。
奈良時代の聖武天皇の大仏造営の詔にある「一枝草、一把土」という言葉にも通じるものです。
昨今のクラウドファンディングとやらにも通じるのだろうか。
東大寺勧進所の中にある公慶堂には公慶上人の像が安置されており、4月12日と12月5日のみ拝観できます。
写真は2018年4月12日の公慶堂。






公慶堂から見て東の方向には、大仏殿があります。
公慶上人が、13歳のときに心を痛めたという、風雨にさらされる露座の大仏様のお姿をここから想像してみる。
その向こうには若草山が見えています。








写真左 指図堂
公慶堂と大仏殿の間に指図堂があります。
名前の由来は、大仏殿再建の時の設計図が展示されていたからだそうです。

写真右 長池
大仏殿の東横に長池があります。
大仏殿再建の木材をここに浮かべていた。
宮崎から運ばれてきた大虹梁もここに入ったのだろうか。
長池周辺の檜や杉は、木材の調達に苦労された公慶上人が、後世のために植樹されたもの。




  
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






芭蕉(1644-1694) 「さまざまのこと思ひだす桜かな」
45歳頃、伊賀に帰郷したおりに詠んだ句。 
写真は、伊賀上野城で2018年3月撮影




上野城天守閣の東側には、この句の句碑もあります。 が、なかなか読めません。





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*主な参考資料
 東京美術「もっと知りたい東大寺の歴史」
 小学館「誰も知らない東大寺」筒井寛秀著
 新潮日本古典集成「芭蕉句集」
 芭蕉句碑散歩 芭蕉翁生誕370年記念事業実行委員会


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2016年 No.1(2/17)

2016-02-17 | 言の葉



芭蕉(1644-1694)  「初雪や いつ大仏の柱立」
奈良の大仏殿は、奈良時代に完成後、平重衡の南都焼討で焼失、鎌倉時代に再建されたが、
戦国時代の戦さで再び焼失した。
江戸時代半ばに再建されるまで、100年以上もの間、大仏様は風雨にさらされていたそうです。 
芭蕉が奈良を訪れ、この俳句を詠んだのは元禄2年(1689年)、殿舎が完成し落慶法要が行われたのは宝永6年(1709年)。  
この時完成した殿舎が現在も残っています。
写真は、大仏池から望んだ大仏殿(2011年2月撮影)。 現在、大仏様はこの中に おわします。 







「勅なれば いともかしこし うぐひすの 宿はと問はば いかが答へむ」

「鶯宿梅」の故事は、古来、様々に伝えられているが、「大鏡」では、平安中期の村上天皇(在位946-967)の
時代のこととしている。 村上天皇は、摂関を置かずに親政をしき、「天暦の治」と称された。
この「鶯宿梅」の故事は、村上天皇の「親しみやすく優雅で寛容であった(大鏡)」とされるお人柄を伺い知る逸話。 
大鏡での記述は以下のとおり。


和歌の大意は、 勅命であるので、この梅の木はさしあげますが、いつも来る鶯が自分の宿はどこへ? と聞いたときには、なんと答えたら良いかしら・・・、 という感じでしょうか。
「あまえおはしましける」 の 「あまえ」は、「はにかむ」 「きまりわるがる」の意味。








黄梅は梅ではなく、モクセイ科のジャスミンの仲間。 英名はウインタージャスミン。
春に先駆けて咲くので、中国での正式名は「迎春花」です。
写真は、奈良 月ヶ瀬で撮影




*主な参考資料
 新潮日本古典集成 「芭蕉句集」
 小学館 日本古典文学全集 「大鏡」
 ウィキペディア

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2015年 No.3 (12/7)

2015-12-07 | 言の葉


「夕星は、かがやく朝が(八方に)散らしたものを みな(もとへ)連れかへす。 羊をかへし、山羊をかへし、幼な子をまた 母の手に 連れかへす。」
  サッポォ(紀元前612年頃)古代ギリシャの女流詩人 

この写真は昭和56年(1981年)に、京都府南部を流れる木津川にかかる上津屋橋(通称・流れ橋)で撮影したもの。

この橋は木橋(橋脚の一部はコンクリート製)で、橋桁は橋脚にロープで繋がれており、洪水時に流出しても、
回収して再建できるようになっている。 昭和28年に建造されて以来、2014年(平成26年)までに21回流出。
ことに2011年以降は、毎年、流出・再建を繰り返し、これでは「京都府の税金流れ橋」だとの意見もあるらしい。

2014年10月に撮影した写真を載せます。




下の写真は、クリックすると拡大します。戻る時は、左上の←ボタンを使ってください。



  近くにある「流れ橋交流プラザ四季彩館」には、橋を見に来た人のためにこんな貼り紙も。
なんか、今まさにゴウゴウと流出中のようにもとれるが・・・。
では、どう書けば良いのか・・・分からない・・。

2015年11月17日付け朝日新聞によれば、この橋の復旧工事が開始されたそうです。
いろいろ検討の結果、以前より「流れにくい橋」になるとか。


古い写真をもう一枚
 「流れ橋」をわたる元気な子供達
 (昭和56年3月28日撮影) 
♪Stand by me♪ が聞こえてきそうですね。



参考: 岩波文庫「ギリシア・ローマ 抒情詩選」花冠 呉茂一訳
     ウィキペディア

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2015年 No.2 (11/18)

2015-11-18 | 言の葉



「朝夕を楽しく暮す金魚の世は、尾を振り立てて藻に潜るとも、起つ波に身を攫わるる憂いはない」
  夏目漱石(1867-1916) 『虞美人草』より




写真をクリックすると拡大します。 戻るときは、左上の ←ボタン を使ってください。

水槽の底に、炭を砕いたものと黒土を敷き、その上にレンガを置きました。
ベランダに置いてあるので、水草に日光があたり炭酸同化作用で水草から酸素の泡が出ます。
ブクブク装置を使わなくても大丈夫です。 水替え不要。 蒸発した分を補充します。
餌はやりすぎると水が濁るので、3、4日に一度やっています。
お腹のすいた金魚は水草を食べています。
金魚も殖えました。
一匹だけいる赤ヒレは、5年ほど前から飼っています。




参考: 青空文庫テキスト


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2015年 No.1 (2/28)

2015-02-28 | 言の葉



「こぬ春にあらぬ物から待ほとを梅は心にまかせてそ咲」 藤蓑冊子  
上田秋成(1734-1809)
写真は、奈良公園にて2011年2月撮影








「難波津に咲くやこの花冬ごもりいまは春べと咲くやこの花」
この歌の作者は、王仁(生没年未詳)といわれている。  
王仁は、応神天皇の時代に百済から渡来して、「論語」と「千字文」を伝えた。
大阪市の「浪速区」「此花区」は、この歌にちなんで名付けられたそうです。
この歌について紀貫之は、古今和歌集の仮名序の中で下記のように記しています。




紀貫之(866?-945?)
「おほささぎのみかど」とは、仁徳天皇のこと。
日本書紀によれば応神天皇の崩御後、兄の「おほささぎのみこと」と弟の「うじのわきいらつこ」が、互いに皇位継承をゆずりあって三年間空位であった。
写真は、2枚とも京都城南宮の枝垂れ梅(2012年3月撮影)

本ブログ 2009年6月号 で、古今和歌集仮名序の冒頭部分を掲載しています。


* 主な参考資料
  中央公論社「上田秋成全集」第10巻
  角川ソフィア文庫「古今和歌集」
  講談社学術文庫「日本書紀」



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2014年 11月12月号

2014-12-29 | 言の葉

「秋霧は けさはな立ちそ 佐保山の ははその もみぢ よそにてもみむ」  よみ人しらず 古今和歌集266







「奥山に もみぢふみわけ なく鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」   猿丸大夫    小倉百人一首5









写真はすべて奈良公園で撮影(2014年11月)


* 主な参考資料
  角川ソフィア文庫「古今和歌集」
  京都書房「小倉百人一首」


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2014年 9月10月号

2014-10-22 | 言の葉


「秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月のかげのさやけさ」  小倉百人一首 79
左京大夫顕輔(藤原顕輔 1090-1155)

写真は、唐招提寺の中秋の名月「観月讃仏会」のときに撮影(2011年秋)
この日は、夜間特別拝観ができます。








「高円の野辺の秋萩いたづらに 咲きか散るらむ見る人なしに」  万葉集 2-231
笠金村 生没年未詳 
「高円の野辺の秋萩な散りそね 君が形見に見つつ偲はむ」    万葉集 2-233
作者不詳
二首とも志貴皇子への挽歌

写真は、奈良市内高円山山麓にある白毫寺参道の秋萩(2008年9月撮影) 
白毫寺は、志貴皇子の山荘を没後に寺としたもの。







「吾亦紅すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ」
若山牧水(1885-1928)








「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
2014年秋木津川市内で撮影

実るほどに稲穂が頭を下げるのは、地球の引力のせいだが、もし宇宙で稲を栽培すると、どうなるのだろうか。
実っても シャキーンと威張って いるのかな





*主な参考資料
  京都書房「小倉百人一首」
  新潮日本古典集成「万葉集」
  JTBパブリッシング「奈良大和路の古寺」
  沼津市若山牧水記念館ホームページ
  日本文学電子図書館(J-TEXTS)


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