近頃、本音と言うか、かなり生活観がにじみ出てきて、申し訳ありません。
私としては、これからの自分を、しっかりと見定めて学業とその他の準備に励みたいと思っています。
日々の学習生活で言えば、難しいことばかりではなく、なるべく、良い議論をもたらしたいので、離婚経験者が、極端な議論で、頭ごしに、結婚に結びつけたりするのではなく、「命あるもの」として、お互いに、気遣いたいためです。
それが、世代間協力にもつながると信じます。
しかし、本当に、苦しい皆様、お許しください。私にも、無理なのかもしれませんが、私は、心がけてはいます。
とはいえ、今よりかなり若い自分自身にできたことが、今は出来ません。
しかし、心が狭くなったと言うのではなく、自分の力の限界に多少気づいたのだと思います。
それでも、毎日の生活が、良い問題提起になることを願っています。
しかし、苦しみの原因を安易に考えるより、これこそが「心の広さ」をもたらすものであると思います。
しかし、ある意味心が狭く良いことを選んでゆきたいと思います。
話は、大いに飛んでしまいますが、実際に「仏陀」と神々との会話と悪魔との会話の本をめくった限り、仏陀に両者の区別がついていたとは、とても思えません。
そして私は、仏陀の時代らしいと思いました。
しかし、今は、仏陀の時代ではありません。当時より膨大な書物と人類の厚い歴史があります。
私達を「けぎらいする」か「お互いに温かい言葉をかけるか」の両極端になりやすいことは、そのまま私達の教育に反映しています。
そして、私達は今まで、それを、どう受け止めて、自分の生活を作ったり、生きてきたかが全く様々です。
本から学ぶことも大切ですが、言葉を交わして少しづつ理解を深めない限り、お互いを知りえません。
「知る」とは大げさな話ではなく「命あるものとしての心遣い」です。
私が学生として勝手をしているように見えると思いますが、せっかくの2年もの目的を持った教育を無駄にしたくないのです。
そして、今の私は、今よりももっと十分な知識と対応方法を自分に確立するために、毎日を、机に向かう時間を多くしています。
時々、インターネットで「アニメ」を流しながらの「ながら勉強になっています」が、それも、過去50年とこれからの人々がTV、映画世代であることを思えば無駄とも思えません。
沢山のすばらしい方々から、多くのありがたい働きかけを頂、幸せな時間を過ごしておりますが、それを無視しているのではなく、私の心のエネルギーにさせていただいております。
そして、おかげさまで、裁くべきことは十分に深く裁いていると思います。モーセの十戒は、あまりに厳しいと思いますか?しかし、やっぱり人間の基本であり、自分自身気をつけるようにしております。
だからこそ「善意に生きる」必要があるのです。しかし、何か失敗して、赦されたい時には神に赦しを願って良いのです。
そんなことが無いように、「善意に生きる」必要があるのです。
昔のように声に出してまで裁かず、神の御心にゆだねています。勝手な解釈をして勝手な友人気取りや親友気取りには、黙って裁きます。
心より、お付き合いの悪さを、お詫び申し上げつつ皆様の御健康をお祈りいたします。
どうか私もしっかりとした結婚をして、皆様と共に次代の光となれますように心からお祈りいたします。
Pietro Francisco Xavier Hiroyuki Sawaguti.