言葉の操りで、もめたり、平安な感じになったりしますね。
ここで、仏教の皆様にも紹介したいのが「ヨブ記」です。旧約聖書にありますから簡単に読むことが出来ます。
私はたぶん「仏陀」の時代には、神も天使も悪魔も、区別がつかなかったと書きました。
ヨブ記は、同時期の書物と思います。限りなく「不毛」な内容です。
きっと、まじめすぎて自殺を考える人に、落ち着いて読んでもらったら、みんなそれを思いとどまるでしょう。
今の私には、明らかに仏陀の影響も感じられます。それほどまでに私も「仏陀」の生まれも育ちも良くて、教育も行き届いていたことが感じられます。
それを基本に難行苦行の末に、統合的に考えをまとめてあるのだから、言語の整いもすばらしいことと思います。そしてそのとおりとも思います。
しかし、それは聖書の読み方には、多少違いが出てきます。あくまで私は、神学者ではなく実際の生活者としての考察ですが。
つまり、語群と言葉の意味は、そのまま役立ちます。しかし、「神」を学ぶには、信じて生きなければなりません。
ある行動と結果には、かなり確実な因果関係があります。
しかし、人間は、100人100様であり、ある場合には、大きく異なります。
特に神を信じることは、結果が伴うことも信じる必要があります。
もっともこの場合に私のように「入学試験など」に関しては、複雑かもしれませんが・・・?努力が必要です。
つまり、社会と言うのは、さまざまな立場の人々の集合体です。
どんなに繕っても問題は生じます。その上それを矯正する必要が出た場合には、大きな変化が必要です。一神教の場合には、神は人間をはるかに超えて偉大ですから、その結果は、そのときの社会の状態にも大きく左右されます。
つまり絶えられない苦悩を与えないと考えられています。だから信仰者内の親密な関係においては、お互い寛容でもあります。
しかしながら、努力の重大さも良く知られており、甘やかす事無く頑張るように指導します。
しかし、「ヨブ記」に見られる人間関係は、今もって、形は違っても普通に見られます。
そこで、私が重要と思っていることは、裁判用語的な「裁き」の意味ではありません。
人間生活をかなり「聖書のなるべく健康な知識による達観」のことを「裁き」と私は呼んでいます。
実際に裁判やら、高位の官僚やら、必要性はありますが、今のところ私は、その立場に無いのですから、達観が必要ですし、カトリックのように内容が「無償の愛を信じる心」となれば、まして、そこには高度な基準は、意識します。しかし、そのような実際に裁く立場に無いし、それでも正しい環境は維持したいので、最低限の問題について認識し、最終判断や決定については、今は、様々な場合、背景を想定して、結果がどうなるかを見守っているか、状況に任せていると言えます。私が日常生活では、厳しい言葉を用いなくなった理由です。しかし、人間的に、そして、社会正義的には、かなり損失なので、考えるようにしますが。
いずれにしても、これが生活中心の生活にある人々(学生達などや主婦・主夫)の強みであり、今後の社会貢献の仕方を決める為に、たくさん入ってくる社会情報と言えます。
そのように冷静に考えていただけたらと思います。
死刑になった?あのビン・ラディン死刑囚の義理の息子とか、銃口をまっすぐにこちらに向けたツイッターも何度か、きましたが、残念ながら、私には読めない文字です。
だからこそ、その内容は、自分ひとりで何か裁くことは出来ないし、かといって殺される理由も見当たらないので、最善な結果であるよう祈るだけになります。
つまり、カトリック神学研究・・・特に生活者レベルでの高い信頼心と人類愛とを必要とした生活には、高度な「裁き?」・・・適切な言語がありません・・・が、そのような努力と学習が必要なのです。
結果的に、最大限の忍耐の末に、他者を保護したり、他集団を保護したり、助けたりは、コミュニティ運営上必然的に重要になります。
だから、簡単に「国の利益」ばかり論じたところで、実績も信用も無い集団ならば、まずそれが大事です。それに、簡単にテロや、戦闘や交渉を外れるのではなく、努力してお互いの内外の真実を見極め、自分のコミュニティに不測があれば、まずその問題を正しく検討しつくす必要があります。
それほどの大きく違いが有るのも各国家です。カトリックに基本を置いた場合に、基本は世界中同じと言うことがあって大変分かりやすいですが、しかし、100人100様の実態による歴史の積み重ねですから、異常もあって当然です。
one methodではない訳です。
それから、「山本梓」さんのもしかすると大変光栄なメールに「それでも節度を持ってあきらめない事が正しい」と書いたのは、彼女が十分に時が熟している独身の人気ある女性だからです。人間簡単には変わりませんし、変わる努力を見つけるまでに時間もかかるので。
不節操を勧めているのではありません。まして、離婚者の場合には、そこの感情がかなり麻痺した状態に追い込まれているようなので、御自分で精神の修復を試みて、心の健康に戻る必要があります。
「スーちゃんのお母さん」からのメールにしばしば、不可解を感じるのはこの問題と思います。応援しておりますから、人生を切り開いて頑張っていただきたいと思います。
戦争を避けるにはそれなりのお互いの配慮が必要です。そのためには健全な努力が社会で受け入れられる状態に戻す必要があります。
私が一生懸命に考え努力しましたが、カトリック内の教職の遂行には、結構問題が多いですから、それはそれとして正しい社会運営を創る必要があります。
それは、簡単に出来るわけではありません。私と、USAのオバマ大統領さまが、協力して取り組みつつある問題です。
残念ながら、私には、様々な学習研究の中で、結構良い仕事についていても、お金はたまらなかったので、USAに訪問するお金が無いために、私が、結婚して御挨拶できるまで待ってほしいと書いています。
これだけオープンなので、結婚して新婚旅行なることが出来たならば、その行き先を「USAのワシントンD.Cとホワイトハウスとオバマ大統領の御家族」としたいものです。
今のところ、自分のこのような意思が、相手の方にどれだけ通じるか?これから一年の学習研究中に判断して、結婚をお願いしなければなりません。
もし何とか筑波大学医学類への編入試験にも合格すると、オバマ大統領に御挨拶後、日本に戻って、それを深めて実行できると思います。
もし不合格ならば、もっとも良いと思った就職をしなければなりません。
幸いにたくさんの「スカウト」頂いております。その折には皆様宜しくお願い致します。
長くなりました、これで「裁き」にこめられた意味についての御説明終わります。
Pietro Francisco Xavier Hiroyuki Sawaguti.