秋葉原にときどき行く僕としては、今回の凄惨な事件は他人ごとではなかった。
先週まで頻繁に報道されていた「江東区のマンションでの女性バラバラ殺人事件」のニュースもまったく影をひそめてしまった。
マスコミは連日、容疑者の生い立ちや経歴、彼の知り合いからの評判などを取材し、この言語道断な犯罪の理由探しにやっきになっている。原因をはっきりさせて「ああ、やっぱりこういうわけだったのか。」と自分自身が安心したいという心理もあるし、理由や背景がはっきりしないと、何より今後の対応策を講じることができないからだ。
ニュース映像を見て思ったのだが秋葉原での事件にせよ、江東区での事件にせよ容疑者の風貌はとくに凶悪犯には見えないし、まして彼らがこのような事件を起こすようになった要因(条件)を持っている人は、世の中にはたくさんいるような気がしている。いつ誰が凶悪犯になるかわからないということが不安を掻き立てる。
僕が子供だった頃の凶悪犯罪の犯人たちは、みんな悪人そうな顔つきをしていたし、彼らが犯罪をするに至った背景がわかると納得できたものだ。(もちろん、絶対にそれを認めてはならないが。)そして「ああ、犯罪を犯す人はこういうタイプなんだな。」と安心できていた。
けれども、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)、女子高生母親毒殺未遂事件(タリウム事件、グルムグンシュ事件)あたりから悪人に見えない普通のタイプに見える人による理解不能で身勝手な凶悪事件がおこるようになってきた。まるでそのときだけ悪魔が乗り移ったようにしか説明のつかない犯罪。そして池田小児童殺傷事件や名古屋市千種区でのOL拉致殺人事件など身勝手な凶悪犯罪がその後に続く。
大人は凶悪犯罪の背景を安直に暴力的なテレビゲームや闇携帯サイトなどのせいにしたがるが、それらは犯罪を助長したものの、原因や背景はもっと深い心の闇の中にあるのだと僕は思う。
子供だけでなく大人も含めて、いま日本社会は閉塞感や自分が他者から必要とされていないのではという自己喪失感、先の見えない不安感や不満が支配しつつあるように思う。もちろん、生きがいを持って元気に生きている人が大半なのであろうが、そういうポジティブな精神を失った人たちの割合が確実に増えていると僕は感じる。
こう書くと無職の人やネットカフェ難民の人たちを思い浮かべるだろうが、そうではなく学校や会社に勤めている人、主婦、子供から老人にいたるまで、あらゆる人に共通して言えると思うのだ。
自分のことを大切に思えない人は、他人の命の大切さがわかるはずもない。そのような人がたまたま自暴自棄になったのが今回のケースであり、それが内に向かうタイプの人は自殺を選ぶのだろう。
今回の事件が影響してさまざまな対策がとられることだろう。秋葉原の歩行者天国は廃止されるだろうし銃刀法も規制強化されるだろう。携帯サイトの書き込みへの監視や通報もより強化されるだろう。けれども、それらは防止策であって根源からの問題解決には何ひとつ結びついていないことを忘れてはならない。
政府や政治家、役人にはもっと人に優しい政治や行政をして、みんなが生きがいや働きがいを感じながら生活できる社会にしてほしいものだ。また、私たちは政治や行政だけに責任を押し付けるだけでなく、ひとりひとりが自ら自分の生きている価値を確かなものとして感じられるよう、そして家族や他人の人生も尊重できるように態度を切り替えることが特に大切だと思う。
自分の存在価値は他者との係わり合いのなかで見つけられることが多い。それは家族であってもいいし、恋人や友人であってもいい。
社会不安や不信が支配する状況が今後も進んでしまうと、今回の秋葉原の事件のような無差別殺人が毎週のように日本のあちこちで起こるような社会になる日もそう遠くはないと思う。
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先週まで頻繁に報道されていた「江東区のマンションでの女性バラバラ殺人事件」のニュースもまったく影をひそめてしまった。
マスコミは連日、容疑者の生い立ちや経歴、彼の知り合いからの評判などを取材し、この言語道断な犯罪の理由探しにやっきになっている。原因をはっきりさせて「ああ、やっぱりこういうわけだったのか。」と自分自身が安心したいという心理もあるし、理由や背景がはっきりしないと、何より今後の対応策を講じることができないからだ。
ニュース映像を見て思ったのだが秋葉原での事件にせよ、江東区での事件にせよ容疑者の風貌はとくに凶悪犯には見えないし、まして彼らがこのような事件を起こすようになった要因(条件)を持っている人は、世の中にはたくさんいるような気がしている。いつ誰が凶悪犯になるかわからないということが不安を掻き立てる。
僕が子供だった頃の凶悪犯罪の犯人たちは、みんな悪人そうな顔つきをしていたし、彼らが犯罪をするに至った背景がわかると納得できたものだ。(もちろん、絶対にそれを認めてはならないが。)そして「ああ、犯罪を犯す人はこういうタイプなんだな。」と安心できていた。
けれども、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)、女子高生母親毒殺未遂事件(タリウム事件、グルムグンシュ事件)あたりから悪人に見えない普通のタイプに見える人による理解不能で身勝手な凶悪事件がおこるようになってきた。まるでそのときだけ悪魔が乗り移ったようにしか説明のつかない犯罪。そして池田小児童殺傷事件や名古屋市千種区でのOL拉致殺人事件など身勝手な凶悪犯罪がその後に続く。
大人は凶悪犯罪の背景を安直に暴力的なテレビゲームや闇携帯サイトなどのせいにしたがるが、それらは犯罪を助長したものの、原因や背景はもっと深い心の闇の中にあるのだと僕は思う。
子供だけでなく大人も含めて、いま日本社会は閉塞感や自分が他者から必要とされていないのではという自己喪失感、先の見えない不安感や不満が支配しつつあるように思う。もちろん、生きがいを持って元気に生きている人が大半なのであろうが、そういうポジティブな精神を失った人たちの割合が確実に増えていると僕は感じる。
こう書くと無職の人やネットカフェ難民の人たちを思い浮かべるだろうが、そうではなく学校や会社に勤めている人、主婦、子供から老人にいたるまで、あらゆる人に共通して言えると思うのだ。
自分のことを大切に思えない人は、他人の命の大切さがわかるはずもない。そのような人がたまたま自暴自棄になったのが今回のケースであり、それが内に向かうタイプの人は自殺を選ぶのだろう。
今回の事件が影響してさまざまな対策がとられることだろう。秋葉原の歩行者天国は廃止されるだろうし銃刀法も規制強化されるだろう。携帯サイトの書き込みへの監視や通報もより強化されるだろう。けれども、それらは防止策であって根源からの問題解決には何ひとつ結びついていないことを忘れてはならない。
政府や政治家、役人にはもっと人に優しい政治や行政をして、みんなが生きがいや働きがいを感じながら生活できる社会にしてほしいものだ。また、私たちは政治や行政だけに責任を押し付けるだけでなく、ひとりひとりが自ら自分の生きている価値を確かなものとして感じられるよう、そして家族や他人の人生も尊重できるように態度を切り替えることが特に大切だと思う。
自分の存在価値は他者との係わり合いのなかで見つけられることが多い。それは家族であってもいいし、恋人や友人であってもいい。
社会不安や不信が支配する状況が今後も進んでしまうと、今回の秋葉原の事件のような無差別殺人が毎週のように日本のあちこちで起こるような社会になる日もそう遠くはないと思う。
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人生これから…というか、いろいろな未来を抱えている人が多くて…
なぜこの時この場所で?
という問いが頭をめぐって、収拾がつかなくなります。。。
どこか紛争地域とか、危険な登山とか…
そういう予めリスクが予想されるところに出かけていったのではない。
ひとには、
自分の人生をどう生きて、そしてどう終わるか、自由があると信じたいのです。
コメントありがとうございます。まったくおっしゃるとおりだと思います。
誰もあそこが危険な場所だとは思っていなかったことでしょう。アルカイダによる爆弾テロの騒ぎや噂は日本国内ではおさまってきていますし。
山手線の駅ではようやくホームと電車の間に壁を作ることがきまりましたが、はやく完成してほしいものです。電車に乗るたびに誰かに突き落とされてしまうのではと、あたりを気にしています。
今回の事件で命を落とされた方のご冥福をお祈りいたします。