よく晴れた日、三津埠頭に立つと、海上はるか彼方に周防大島の島影が見えることがある。周防大島、正式の名称は屋代島、山口県に属する島で、瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぐ第3の面積をもつ。この島にそびえる標高370m余りの白木山の頂上に立つと、好天の日には松山城の天守閣が見えるという。
この島の東南にある旧・東和町は四国側に近接した位置関係にあり、古くより三津浜とは強く結ばれていた。昭和51年(1976)に大島大橋が開通して山陽側と陸続きになるまで、旧・東和町の人々は買い物など暮らしにかかわる往来は、対岸の三津浜がもっぱらの相手先であったという。古くは若い女性たちが行儀見習いを兼ねて就職するのも、三津の大きな商家であったといわれる。周防大島と三津浜、その間にある海は人々を隔てるものではなかった。海を通路として人々は結びつき、密接に交流していたのである。
【参考文献】
松山市教育委員会編『松山の民俗』 2000年3月
{伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記}というブログから
すみません 勝手に載せさせていただきました。
昨日 久しぶりに正岡子規の記念館に行って 正岡子規が
三津の絵師の絵を小さい頃模写して墨絵の練習をしていたとあって
それで 調べていたらこんな事が・・・・
そうか・・・・
昔から 今住んでいるこの場所と 東和町は深いつながりがあったようです。
ここへ 呼ばれてきたのかもしれないな
私の先祖もきっと船で三津の街にきたはずです。
この文章がうれしくて
そのまま のせました
この島の東南にある旧・東和町は四国側に近接した位置関係にあり、古くより三津浜とは強く結ばれていた。昭和51年(1976)に大島大橋が開通して山陽側と陸続きになるまで、旧・東和町の人々は買い物など暮らしにかかわる往来は、対岸の三津浜がもっぱらの相手先であったという。古くは若い女性たちが行儀見習いを兼ねて就職するのも、三津の大きな商家であったといわれる。周防大島と三津浜、その間にある海は人々を隔てるものではなかった。海を通路として人々は結びつき、密接に交流していたのである。
【参考文献】
松山市教育委員会編『松山の民俗』 2000年3月
{伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記}というブログから
すみません 勝手に載せさせていただきました。
昨日 久しぶりに正岡子規の記念館に行って 正岡子規が
三津の絵師の絵を小さい頃模写して墨絵の練習をしていたとあって
それで 調べていたらこんな事が・・・・
そうか・・・・
昔から 今住んでいるこの場所と 東和町は深いつながりがあったようです。
ここへ 呼ばれてきたのかもしれないな
私の先祖もきっと船で三津の街にきたはずです。
この文章がうれしくて
そのまま のせました