万延元年(1860年)4月12日に当時の周防国大島郡西方村長崎に生れた山本万之丞は明治20年頃優秀な一本の蜜柑を見つけそれをもらって穂木にし、台木にザボンをつかって果実一個五、六十匁のものを作り人々をおどろかせたそうです。土地の人は万之丞翁蜜柑と呼び、県および郡内ではこれを山本系と名づけ今日ににたっています。
山口みかんの七割強が大島産で東和町柑橘栽培面積五〇〇㌶は県下一ですが、昭和37年から農業構造改善事業により昭和40年には六〇〇㌶となる見込みです。
この大島郡のみかんは色、味つやと三拍子揃い山口みかんの名声は全国に知れわたっていますが、これも歴史が物語るごとく去人の道があればこそです。
(昭和39年7月1日東和広報より)
今日検索していたら この文章があって
先日の帰省の際にとった写真を載せるのに この説明がいいかなと
そのまま載せました。
私はひいじいちゃんの誕生日を知らなかった。
4月生まれなのですね。
この石碑の裏面には この海沿いの小さな山を寄贈してくださった方の
お名前を彫られてあった。
私の父は母をおって 大島に来て母と一緒になった。
母が一人娘だったため この家の養子になった。
しばらくは田布施の父の実家で新婚生活を送っていたそうだが
ばあちゃんの調子が悪いということで 突然父が「おい!!大島にかえるぞ!!」
といって 大島で暮らし始めました。
父は商業の学校をでたため 大島の土地をうって 何か商売をしようと思っていたそうだ。
しかし 父は大島に帰ってすぐ 町の偉い人たちが毎日やってきて
万之丞さんのことを色々話して聞かされ
このまま ミカンを続けてくれとたのまれたそうだ。
その中の一人の人がこの土地を寄贈してくださったと聞いている。
ひいじいちゃんが生きていた時に その人はいいように思わなくて
冷たくした事を父に詫びたと聞いている。
それから 母が小さいときにおじいちゃんが突然死んで
私のおばあちゃんに万之丞さんは
もしわしが死んで困ったことがあったら ミカン山を売ったらいいからと
よく言っていたそうだ。
でも ミカンがその頃高価だったし 手伝い人も雇いやすかったから
ばあちゃんは ミカンを一人で守った。
そこまでが 私の知っている話です。
私が小さいころはミカンの収穫期になると
10人ぐらい若い衆が手伝いに来てくれた。
ひいじいちゃんが台木に使ったザボンの木は私を覚えていて
ちょうど12月の収穫期に大きな実をつけていた。
食べると 少し苦味があって あんまり好きではありませんでした。
そして 万之丞さんが植えた木と 父が山本系のミカンを接ぎ木して植えた木で
ミカン山はいっぱいでした。
これは 万之丞さんの木だよと よく教えてもらったな。
100年以上たつ大きな木だった。
12月の終わりに収穫がすむと みんな集まって
お祝いをした。
私がまだ小さいころの記憶です。
これで 写真は終わりです。
もう 忘れてしまいそうな 昔
そんな人がいたこと 少しだけでも 覚えていてくれたらなと
思います。
でも 万之丞さんと私は血がつながっていません
だから 私は根性なしなんだろう(笑)
長々と書きました。
これでおしまい
山口みかんの七割強が大島産で東和町柑橘栽培面積五〇〇㌶は県下一ですが、昭和37年から農業構造改善事業により昭和40年には六〇〇㌶となる見込みです。
この大島郡のみかんは色、味つやと三拍子揃い山口みかんの名声は全国に知れわたっていますが、これも歴史が物語るごとく去人の道があればこそです。
(昭和39年7月1日東和広報より)
今日検索していたら この文章があって
先日の帰省の際にとった写真を載せるのに この説明がいいかなと
そのまま載せました。
私はひいじいちゃんの誕生日を知らなかった。
4月生まれなのですね。
この石碑の裏面には この海沿いの小さな山を寄贈してくださった方の
お名前を彫られてあった。
私の父は母をおって 大島に来て母と一緒になった。
母が一人娘だったため この家の養子になった。
しばらくは田布施の父の実家で新婚生活を送っていたそうだが
ばあちゃんの調子が悪いということで 突然父が「おい!!大島にかえるぞ!!」
といって 大島で暮らし始めました。
父は商業の学校をでたため 大島の土地をうって 何か商売をしようと思っていたそうだ。
しかし 父は大島に帰ってすぐ 町の偉い人たちが毎日やってきて
万之丞さんのことを色々話して聞かされ
このまま ミカンを続けてくれとたのまれたそうだ。
その中の一人の人がこの土地を寄贈してくださったと聞いている。
ひいじいちゃんが生きていた時に その人はいいように思わなくて
冷たくした事を父に詫びたと聞いている。
それから 母が小さいときにおじいちゃんが突然死んで
私のおばあちゃんに万之丞さんは
もしわしが死んで困ったことがあったら ミカン山を売ったらいいからと
よく言っていたそうだ。
でも ミカンがその頃高価だったし 手伝い人も雇いやすかったから
ばあちゃんは ミカンを一人で守った。
そこまでが 私の知っている話です。
私が小さいころはミカンの収穫期になると
10人ぐらい若い衆が手伝いに来てくれた。
ひいじいちゃんが台木に使ったザボンの木は私を覚えていて
ちょうど12月の収穫期に大きな実をつけていた。
食べると 少し苦味があって あんまり好きではありませんでした。
そして 万之丞さんが植えた木と 父が山本系のミカンを接ぎ木して植えた木で
ミカン山はいっぱいでした。
これは 万之丞さんの木だよと よく教えてもらったな。
100年以上たつ大きな木だった。
12月の終わりに収穫がすむと みんな集まって
お祝いをした。
私がまだ小さいころの記憶です。
これで 写真は終わりです。
もう 忘れてしまいそうな 昔
そんな人がいたこと 少しだけでも 覚えていてくれたらなと
思います。
でも 万之丞さんと私は血がつながっていません
だから 私は根性なしなんだろう(笑)
長々と書きました。
これでおしまい
貴重なお話をありがとうございました。
私の祖父母は二人とも周防大島育ちです。
お墓も周防にある為毎年お墓参りに行っています。
次回、山本万之丞さんの碑の所にも行ってみたいと思います。
びっくりしています。 よくブログによくたどってきてくださいました。
親戚の話は祖母からほとんど聞いていなかったので 兄弟がいたとは!
私は実家から離れていますが 姉夫婦があの場所で暮らしています。
ブログでたどってきてくださって コメントを下さって
本当にありがとうございます。きっとひいじいちゃんも喜んでくれてると思います。
私も詳しくはわからないのですが昨日家系図を見たところは山本家の所に4人位名前が書いてありました。今、実家では無いので全員の名前がわかりませんが。
私の高祖母は三女と書いてありました。高祖母の名はマツと書いていました。山本家から浜田家に嫁ぎました。夫が浜田太助、そしてその娘の浜田フジが祖父の母です。
下田に片山印刷所がありましたがそこの山本さんも親戚でした。子供の頃祖父について行ってました。
後、山本雅子さんと言う方は私はお会いしたことありませんが住所が西方の長崎でした。
年賀状が毎年届き祖父が亡くなったとき香典を頂きました。
そうなのですね、お姉さんがまだ住まわれているのですね!
ちなみに
山本万之丞さんの大きな木はまだあるのでしょうか?
ほとんどが山本の本家の分家になるようです。
私の祖母も北九州にいたと聞いています。
ホントにすみません。
私はあんまり詳しく知らないみたいです。
万之丞さんの植えた大きな木は私が小さい頃
寿命で少しずつ枯れていきました。
みかん山は 私たちが誰も家を継がなかったので
両親の代で 万之丞みかんは終わってしまいました。
でも 今も万之丞さんが人々に苗木を配ったその木が続いているそうです。父もそのみかんを一生懸命に作っていました。
もし そのころお会いできていたら 食べてもらいたかったです。
ちなみに私は46歳です。最近自分のルーツにとても興味がありそんな時に祖父の書いた家系図と過去帳を見つけました。
子供の頃何となく聞いていたものが今となっては興味深くはっきりとわかりとても嬉しいなぁと思いました。
お父様やおばあさまがみかんの木を受け継いでいた事をとてもうれしく思います。今の時代は維持が難しいと聞きますね。
それでも万之蒸さんの分けた木を育てている方がいらっしゃるのはとても励みになりますね。
そして山本家の家系図、、万之蒸さんの所に私の高祖母の名前マツ、チヨウ、クニ、小林、新村力蔵と書いてありました。
ちなみに高祖母山本家から浜田家に嫁いだマツの娘フジ(私の曾祖母)の姉妹が片山印刷へ嫁ぎその娘が雅子さん(祖父のいとこ)です。その雅子さんがまた山本家に嫁ぎました。もう亡くなっていますが。
そこの息子さんと娘さんは私の父の又従兄弟になります。
民泊等しています。
後、ブログの中で読ませて頂いたのですがお父様のお名前と同じ名前かなと思う方の名前が書いてある用紙もありました。
名前が沢山書いてあり金額が書いてあったので誰かが亡くなった時の香典かなと思いました。
おそらくお父様と祖父は知っている間がらだったと思いました。
すみません、余計に怪しいですね(^_^;)
おそらく私の祖父大森正も北九州へ移り住むまではその辺りに家があったのではと思っています。
本家のお墓も祖父のお墓も下田にあります。
嶋津鮮魚店の手前の所です(^^)
大きくて目立つお墓が大森家の本家のお墓です。
祖母の実家や祖母の実家のお墓もあるため子供の頃から毎年行っているため私は周防大島が大好きです、心の故郷です。
みかんもとても美味しく祖母方の親戚が送って来てくれます。
お墓参りも心のパワースポットですが山本万之蒸さんの事を知りその石碑の場所もパワースポットにさせて頂きますね(^^)
ちなみに私は嫁いで吉岡です。グーブログはしておりませんが書道をしていますので吉岡紅扇と言う名前でインスタグラムで日記的に投稿をしたりしています(^^)
今は河津桜が綺麗に咲いていると聞きました。
今週か来週にお墓参りと石碑、河津桜を見に行ってみたいと思います(^^)