拍手コメントでいただいたように、いまの状況、「アホかいな、資格おまへん」の世界ばかりなんだよなあ。
米国務省ケビン・メア日本部長のあまりのトンデモを見るにつけ、内田樹さんの「日本辺境論」の英訳が出たらいいなあと思った。この本では『水戸黄門』のドラマツルギー論がわかりやすい。「あの印籠からは特殊なビームでも出ているのか?」と外国人が真顔で質問したという話があったけれど、あのドラマほど、日本型システムを考える上での絶好のテキストはないのである。
水戸黄門が自分では「印籠」を出さないのはなぜか。それは徳川光圀自身が印籠を取り出して「控えい」と怒鳴っても、たぶんあまり効果がないからだ。「偉い人」は自己証明の必要がないからこそ「偉い」というのが、日本的社会なのである。そこにあるのは、「黄門様は偉いから偉い」という同義反復でしかない。悪代官たちも、黄門様が本物かどうか疑うということを知らない。なぜなら自分が威張ってきたことには、ただ地位や時流に迎合していただけで、何の根拠も内容もないことを知っているからだ。根拠もなく庶民をひれ伏せてきた悪代官は、自分より偉そうなものが出てきたら、やはり根拠もなくひれ伏すしかないのである。
「水戸黄門」が長寿人気番組なのも、権力と庶民の関係のパロディになっているからだ。もちろん民衆には、「虎の威を借る狐」は「どうせ狐だ」ということがはじめから露呈している。「バカが時勢に合わせて威張っている」と足元を見ている。にもかかわらず「最新の学説は脳科学」「○○はもう古い。これからは××の時代だ」といった「呪符」を突きつけられると、ふらふらと脱力しひれ伏してしまう。これが日本のマジョリティを形成している。「在日米軍の抑止力」は最近流行の呪符の一つだ。
もし日本が国際社会で侮られているとしたら、それは軍事力や経済力や英語力の問題ではない。「虎の威を借る狐」には、自分が本当に何をしたいのかを、他者にわかるように説明できないからだ。ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうしてそういう判断に立ち至ったのか自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人でなければ、ネゴシエーションはできない。これは個人でも国家でも変わらないことだろう。
米国務省ケビン・メア日本部長のあまりのトンデモを見るにつけ、内田樹さんの「日本辺境論」の英訳が出たらいいなあと思った。この本では『水戸黄門』のドラマツルギー論がわかりやすい。「あの印籠からは特殊なビームでも出ているのか?」と外国人が真顔で質問したという話があったけれど、あのドラマほど、日本型システムを考える上での絶好のテキストはないのである。
水戸黄門が自分では「印籠」を出さないのはなぜか。それは徳川光圀自身が印籠を取り出して「控えい」と怒鳴っても、たぶんあまり効果がないからだ。「偉い人」は自己証明の必要がないからこそ「偉い」というのが、日本的社会なのである。そこにあるのは、「黄門様は偉いから偉い」という同義反復でしかない。悪代官たちも、黄門様が本物かどうか疑うということを知らない。なぜなら自分が威張ってきたことには、ただ地位や時流に迎合していただけで、何の根拠も内容もないことを知っているからだ。根拠もなく庶民をひれ伏せてきた悪代官は、自分より偉そうなものが出てきたら、やはり根拠もなくひれ伏すしかないのである。
「水戸黄門」が長寿人気番組なのも、権力と庶民の関係のパロディになっているからだ。もちろん民衆には、「虎の威を借る狐」は「どうせ狐だ」ということがはじめから露呈している。「バカが時勢に合わせて威張っている」と足元を見ている。にもかかわらず「最新の学説は脳科学」「○○はもう古い。これからは××の時代だ」といった「呪符」を突きつけられると、ふらふらと脱力しひれ伏してしまう。これが日本のマジョリティを形成している。「在日米軍の抑止力」は最近流行の呪符の一つだ。
もし日本が国際社会で侮られているとしたら、それは軍事力や経済力や英語力の問題ではない。「虎の威を借る狐」には、自分が本当に何をしたいのかを、他者にわかるように説明できないからだ。ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうしてそういう判断に立ち至ったのか自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人でなければ、ネゴシエーションはできない。これは個人でも国家でも変わらないことだろう。