『ゆるキャン△』サードシーズン第一話を観た話など。
このエントリは、サードシーズンを思い切りディスっていますので、今期も楽しんでいる方は、ただちにお引き取りください。
さて、第三期からは、制作会社がC-Station(第1期・第2期・劇場版)から、 エイトビットに変わりました。
たんに制作会社のスケジュールの都合のようですが、劇場版が一部ファンに不評だったからという憶測もありました。
しかし興行収入10億円突破、制作委員会の幹事会社のフリューも増収増益だったわけですから、「大コケ」は当たっていないでしょう。
ただし、実写化もされ成功を収めた作品でありながら、『君の名は。』のように、一般層も巻き込んだ大ヒットになることまではなかったのは事実です。
映画の企画段階では、セカンドシーズンのラストの伊豆キャンも影も形もなく、新キャラクターの新入生ふたりもまだ登場していませんでした。野クルの卒キャンにも、キャンプ場計画にも、あのふたりが出てこないのはそのためのようです。
私は劇場版も好きですが、一部ファンからの反発を招いていました。
たしかに、十年後の世界を描いた劇場版オリジナル版は、『まどマギ』にたとえると、本編終了1年後に、『[新編]反逆の物語』を発表するような冒険でした。監督は『ゆるキャン△』は、キャンプを通じて、リンやなでしこたちが成長していく物語だから、原作にないアニメオリジナルのキャンプを描くわけにはいかなかった、だからおまけ漫画の十年後の物語を膨らませたとその企画意図を語っていました。
結果論ですが、だったらなおのこと、『まどマギ』のようにまずは総集編でよかったのになあと思います。現在のはなしが描けないのなら、原作でもあまり語られていない、リンの中学生時代、「きらきらが増えてきた」幼少時代、図書委員会や書店バイトの日常、なでしこの中学生時代、浜名湖サイクリングの日々、いくらでもネタはあるはずなんですよね。
劇場版がさらに大ヒットになっていたら……と残念で仕方ありません。
製作委員会としては、ビジネスチャンスを逃すなで、いわゆるコロナ明けの(なんて真っ赤な嘘ですが)のキャンプブームを当て込んで、二匹目(三匹目)のドジョウを狙ったというところでしょうか。
しかし、その目論見は、はずれてしまったというべきかな(まだ一話なのに?)。
エイトビット社は、『ヤマノススメ』ほか人気作品をたくさん手掛け、アウトドアの背景描写には定評のある会社とのことでしたが……。
『ゆるキャン△』シーズン3は、放映前から、キャラクターデザインが変わったことで、従来のファンからは非難轟々でした。「作画崩壊」とまでこき下ろすファンもいました。
私は作画崩壊までとは思いませんでした。作画はより原作に忠実になった部分もありました。
しかしそれが魅力になっているかといえば「?」です。タイトルも声優も音楽も一緒なのに、二期までとは別の作品になってしまったと思いました。
よくいえばオーナーシェフが代わってしまって、味も変わってしまった……だけならまだしも、火加減が甘く生焼けだったり、火を通しすぎて炭だったりしたような悲しくて腹立たしい気分?
もちろん、いいところもありましたよ(意味:食べられる部分もありました)。
第一話の前半パートは、アニメ版オリジナル。精進湖でソロキャンに来たリンが、キャンプとの出会いを振り返るエピソードです。この回想シーンに登場する、小学四年生のリンも「かわいい」と好評でした。
この回想シーンでは、奥三河におじいちゃんを訪ねたこと、おじいちゃんの車でキャンプ道具を見たこと、ダムを見に行ったこと、おじいちゃんが火起こしをしてくれた焚き火でホットミルクを飲んだことを振り返ります。
ダムのエピソードは二話以降の大井川キャンプの「ダムカレー」に、火起こしのエピソードは、第一話後半の野クルメンバーがアルコールストーブ作りに挑戦するエピソードにつながっているのでしょう。
リンか愛知県の豊橋と長野県を結ぶ飯田線の電車でやって来るシーンは、大井川キャンプでリンとなでしこの幼馴染・綾乃がバイクで移動したのに対して、電車で移動していたことも思い出させました。
孫にいいところを見せようと、今まで経験のない火起こしに挑戦するおじいちゃんも、なかなか火がつかず飽きてしまったリンもよかったですね。あれから七年、精進湖にソロキャンにやってきたリンは、あの日のように火起こしに挑戦します。いかにおじいちゃんに無茶をやらせていたのか知るのです。
精進湖で火起こしを見た少女との出会いもよかったですね。「ねぇ、どうしてあっち(焚き火)で沸かさないの?」「鍋が煤だらけになるから」となでしこと出会ったときと同じ会話を交わしています。劇場版でなでしこが勤めるアウトドアショップに、ランタンを買いに来た女子高校生は、実はこの女の子の十年後だったのかもしれませんね。
いいはなしでした。
いいはなしなんですが……
寝床に入ってから、「あのシーンは」「あのセリフは」と思い出していくうちに、気になって仕方なくなり、スマホで検索をかけて疑問点を確認しているうちに、明日は山行きだというのに寝付けなくなってしまったのです。
身延町から奥三河の東栄まで、電車なら乗り換えも最低2回あり、最短でも5時間以上かかります。静岡から豊橋まで、新幹線(こだま)を利用しなければ7時間かかることもあります。リンの両親は小学四年生にそんな過酷なひとり旅をさせるほど放任主義だったろうか?
リンがダムに興味を持ったのは、社会の教科書がきっかけのようだけれど、リンは学校では図書委員、バイトは本屋さん、キャンプのお供は本という本の虫ですが、勉強好きだったろうか? 教科書を読んで、ダムのどこに興味を抱いたのだろうか? 片道1時間以上かけて、わざわざ連れて来てもらったわりには、高くて怖い、怖いけれどおもしろいという、薄い反応しか見せないのはなぜなのだろう?
牛乳を温めたら膜ができるはずなのに、どうして膜ができないのだろう? タンパク質を凝固しにくくする、砂糖あるいは重曹を加えたのだろうか?
アルミ缶でアルコールストーブを自作するシーンの作画が、原作をパラパラ漫画にしただけのクオリティなのは、どうしたわけなのだろう? 制作サイドは自分たちで作ってみなかったのか? あの場面をアニメ化するなら、手元をアップすべきではないのか? いわゆるクレーム対策、あの場面こそ、「カッターで手を切らないように軍手をしましょう」「カッターを使うときは力を入れず、ゆっくりすーっと撫でるようにするときれいに切れます」「ガムテープなどを台にして、カッターの刃は固定し、アルミ缶のほうを回転させるようにするとズレにくくなります」「カッターはLサイズのものを使うと切りやすくなります」などの大塚明夫ボイスの解説が必要ではないのか? 製作委員会も制作会社も、作品と作者をモンスタークレーマーの脅威から守る意志と責任はあるのか?
後半パートの下校途中、桜のつぼみに気がついて写真を撮って遅れたなでしこに、「まだ咲いてないぞ」と千明は声をかけるけれど、千明はあのつぼみに気づかなかったのだろうか? 気づいていたのなら、「つぼみなら被写体の価値はない」と考えたのだろうか? 千明は、「映え」ばかり気にかけるインスタ女子のような空っぽでいやな女だっただろうか? あのセリフは「なにやってんだ。行くぞ」でいいのではないか?
書いていて、自分の性格の悪さ、器の小ささを感じるばかりで、いやになってきますが、第一期、第二期、劇場版では、こんな疑問や不満を感じることはなかったのですね。
私が大阪に来てからテレビを捨てたのは、吉本興業と阪神タイガースばかりの在阪テレビ局にうんざりしたのが始まりですが、ドラマやアニメを見ると、こうしたツッコミが止まらなくなる性格もありました。疲れてしまうんですよね。だったら見なけりゃいいじゃないかって話ですよね。『ゆるキャン△』は、そんな私も安心して観ていられる、数少ない例外的な作品でした。
『けものフレンズ』の監督交代劇を思い出してしまいました。今回の制作会社交代は、けもフレのようにドロドロしたものではなさそうですが(前監督も新監督にエールを送っています)、「あの世界が失われてしまった」という喪失感では通じるものがあるかもしれません。
しかし小学四年生のひとり電車旅にだけは、どうしても違和感が残ります。
地方民の移動手段は、基本的に自家用車です。身延から北設楽郡まで電車なら5時間以上かかりますが、自動車なら2、3時間です。
リンの両親は放任主義のように見えて、しっかりひとり娘を見守り、サポートしていることは、第二期一話の初めてのデイキャンプでもていねいに描かれていました。
あの両親がまだ小学四年生のリンを電車でひとり旅をさせるだろうか?
原作の時間軸なら、あのエピソードは2009年のできごとです(リンたちは1999年生まれ。高校時代はコロナ禍を免れています。劇場版もコロナ禍収束後の世界でしょう)。
関東ではどう報じられたかわかりませんが、2006年夏には富山と大阪を結ぶ特急サンダーバードの車内で、女性が乗客の眼の前で泣きながらトイレに連れ去られ、強姦されるという痛ましい事件がありました。さらにその犯人はその年の12月には、滋賀県内で走行中の列車と駅構内で女性をレイプしています。
あの事件を知っていたら、とても小学生の娘を、ひとりで電車で移動させようとは思わないですよ。
なぜリンちゃんは親と一緒に自動車で移動しなかったのでしょうか。
父親は仕事だったとしても、専業主婦の母親の咲さんも、地方民なら普通免許は持っているはずです(当時は共働きだったのかもしれませんが)。
自動車で移動したほうが絶対に楽だし安いはずなんですよ。静岡でこだまに乗り換えなければ、身延から東栄駅まで7時間かかることもあるわけですから。
それでもあえて電車で移動するなら、なぜ父親か母親がついてこないのか。ここはきちんと説明があるべきだと思うんですよね。『ゆるキャン△』は、海外にも展開している作品であるわけですから。欧米では小学生のひとり旅なんて、ありえないでしょう。
考えられる唯一の可能性は、リンが親と喧嘩して家出したことですが、リンは「あの日までおじいちゃんが苦手だった」とも語っています。苦手なおじいちゃんを頼って家出したというのも考えにくいですね。
似たようなことは、精進湖キャンプで出会った母子にもいえることです。もう日が暮れたのに、どうして父親は車のなかで待っているのだろう? 母親と娘を、人気のない夜の湖畔に残して心配ないのだろうか? ついでにあの母親、リンに遊んでくれたお礼を言いに来たのかと思いきや、「お父さんが車で待っているわよ」とリンがそこにいないかのような喋り方です。ああいう失礼な人は実在しますよ。しかし『ゆるキャン△』原作も、一期二期も、一度限りしか登場しないモブもていねいに描いています。アウトドアならではの一期一会を大切にする、やさしい世界だったのではないですか?
こういう疑問が積もり重なって眠れなくなってしまったんですよね。
ダムのエピソードはよかったです。でも、高校生リンの読書のラインナップからいけば、ダムに興味を持つきっかけは、教科書でなく、あのオカルト趣味を満足させる児童書だったと思うのです。これについてはまたあした。
しかし、「平行世界はつねに平行であるとは限らないのだ」というわけで、一期・二期・劇場版の時間軸と、三期の時間軸は全く別ものなのでしょう。キャラクターも同じ顔、同じ声だけれど、別人格だと考えるしかありません。アイドルしまりん、ルーキーしまりん、いたずらりん、りん姉、妹りん、時間軸の狭間にある「酒処志摩屋」に、さまざまな時間軸のリンが集合している光景を想像するのはかわいいですね。何のことかわからない? 『魔法少女ほむら☆たむら』参照。
気分直しに、一期のカレーめんを食べるなでしこちゃん、やっぱり最高にすばらしいですね。三期はホットミルクもカフェオレもちっともおいしそうに見えないんですよね。最高の飯テロアニメだったのに、これは致命的です。