今日は京アニ放火殺人事件からひと月だ。改めて、亡くなられた35人の方々に哀悼の意を示したい。負傷された方々の一日中も早い回復も祈らずにはいられない。
私は、国際政治学者の六辻氏が指摘した「ヴァンダリズム」「美への憎悪」という視点に共感または賛同して、「第五形態としての京アニ殺し」というエントリを立てた。しかし、特に前半は、事件を知らない状態で書いていた別原稿の再利用で、なかなか本題に行き着かない。いずれ、『シン・ゴジラ』編、『君の名は。』編、そしてラストの『黒塚』編に三分割して、再掲したいと思う。
京アニ事件で、『黒塚』(安達ヶ原)を取り上げたのは、今のところ、私だけのようだ。前半で読むのをやめた人も多いと思うので、補足しておきたい。
親子で同じ作品や趣味を楽しむオープンな家庭も増えたようだが、オタク、特に「腐女子」にとって、時に「親バレ」は深刻である。こんな風に考えてほしい。自分の存在を丸ごと肯定してくれる作品に出会い、感激していたら、寝室を勝手に覗かれ、さっき自分を全肯定してくれたものから全否定されてしまったとしたら。これが京アニ放火殺人事件の犯人に、『黒塚』の鬼婆を重ねた理由である。『黒塚』を見た人なら、きれいごとしかいわない阿闍梨より、鬼婆の方に共感し涙に誘われるだろう。
今回の犯人にそんな情状酌量の余地はない。しかし、今回の事件で明らかになったのは、「リアル」で救いのない人間が、アニメや二次元になら「救い」があるなんて嘘に過ぎないという、ごく単純な真実である。
「仏神は貴(とうと)し、仏神をたのまず」と宮本武蔵もいった。『黒塚』の阿闍梨は、「鬼にも仏の救いはある」と説きながら、実際の鬼を前にすると、調伏にかかる。鬼にとって仏の救いとは、成敗されて、あの世にいくことだ、とでもいうかのように。「仏神」は貴いが、それはリアルで「たのみ」にするものではないのだ。「仏神」は、「推し」でも「萌えキャラ」でも「京アニ」でも、何でも好きに言い換えてほしい。「仏神」を作り出したのも、「鬼」を生み出すのも、同じ人間のなせるわざである。
今回の事件で、アニメ業界の復活には20年かかるという記事を読んだ。しかし、アニメ業界が「復活」する必要があるのだろうか。
アニメ業界の劣悪な労働環境は、以前から伝えられてきた。24時間営業で本部だけが儲かるコンビニ業界と、低予算の深夜アニメを中心に、自転車操業を続けてきたアニメ業界は、相通ずるものがあるように思う。もし復活をめざすなら、この業界の構造的矛盾と、真剣に向き合う必要があるのではないか。これまでアニメ業界はどれだけの「青春」を奪い、搾取してきたことか。もし、これからもアニメの仕事を続けるというのなら、アニメ業界は、若者たちに京アニ以上の労働条件と作業環境を用意する社会的責任があると思う。そうした動きがあれば、私たちも喜んで協力するだろう。
いわゆる「若者のやり甲斐搾取」で成り立ってきたアニメに、「救い」を求めて、すがって生きるしかない人たちを生み出してきたこの社会は、根本的に誤っていると思う。犯人を極刑に処したところで、この事件はワイドショーの空騒ぎのために消費され、やがて風化していくだけだ。しかし、不幸は忘れることはできても、打ち消すことはできない。