新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

危機の中の希望

2011年03月30日 | 被災地応援
 いまの暮らしや産業や社会が、原子力発電を前提にしたものだという事実は冷静に受け止める必要がある。もちろん石油やガスもいつかは枯渇する。代替エネルギーもまだ実用レベルとはいえない。

 しかしだからといって、このままでいいのか。東電が支援を要請したフランスのように、原子力発電への依存度70%の社会が、理想の社会だといえるのか。化石燃料が枯渇する前に、福島原発の半径20km(今後拡大する可能性もある)の人々の暮らしと産業は完全に壊滅的打撃を受けた。これは国土の一部が失われたに等しい。

 避難エリアでは6万人の離職者が発生すると報じられた。出荷規制でキャベツ農家が絶望して自殺に追い込まれた。

 「想定外の事態」という、政府・東電・財界の逃げ口上を許してはいけないと思う。彼らはもはや社会全体のことを考えたり、意志決定を行うことができないことを満天下に示した。

真壁昭夫・信州大学経済学部
 「今回の大災害から復興を考える時に最も重要なポイントは、今までとは違った人材を見つけることだと思います。具体的には、過去の成功体験などに固執する人たちではなく、従来の事にとらわれずに、新しい発想で、色々なことを考えられる人材です。」
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/economy/article664_1.html

JMMの村上龍さんの質問に対する、各分野の専門家の答えは参考になる。

龍さんのニューヨーク・タイムズ寄稿文が反響を呼んでいるらしい。
http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17Murakami.html?

日本語訳
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/2581/

 このエッセイの最後は、龍さんらしいポジティブな希望のことばで結んでいる。

 「私が10年前に書いた小説(希望の国のエクソダス・注)には、中学生が国会でスピーチする場面がある。『この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない』と。

 今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。

 だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。」
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 すばらしい。しかし組織人としては、次のような指摘が重要だと思った。

 「日本人は元来“集団”のルールを信頼し、逆境においては、速やかに協力体制を組織することに優れているといわれてきた。それがいま証明されている。勇猛果敢な復興および救助活動は休みなく続けられ、略奪も起きていない。

 しかし集団の目の届かないところでは、我々は自己中心になる。まるで体制に反逆するかのように。そしてそれは実際に起こっている。米やパン、水といった必需品がスーパーの棚から消えた。ガソリンスタンドは枯渇状態だ。品薄状態へのパニックが一時的な買いだめを引き起こしている。集団への忠誠心は試練のときを迎えている。
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 丸山眞男風にいえば、「忠誠と反逆」か。いま買いだめは沈静化に向かっている。とはいえ、さまざまな局面で同じことがある。

 たとえば、会社に申し入れて労使共同で決めた義援金にも、当然ながら一部に不満が出てくる。自分たちだって生活が大変だ、それどころでない、と。また「善意」を強要するのはどうかとか。

 この批判は正しい。義援金カンパも「個人の意志」であることを明確にする。最大限にプライバシーを尊重し、協力しない人に対する批難がないように労使で申し合わせる。協力しない人に対する批難がないようにする。労組名義の寄付はもとを正せば組合費なので、組合員はすでに負担している。その上で上積みで義援金に協力してほしいと要請する。

 たしかに、もともと予算もない中小労組には、背伸びでありハードルは高い。しかし現状維持は縮小再生産しか生まない。たえず目標を高く、チャンレジし続けることが組織の新たな活力を生む。今は忠誠でも反逆でもなく、新しい社会の再生と創造に向けて。







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1 コメント

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Unknown (くろまっく)
2011-07-25 13:10:30
このエッセイについて。龍さんがIT Mediaのインタビューに答えていた。

村上龍に聞く、震災と希望と電子書籍の未来(前編)
http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1107/25/news018.html

村上龍 New York Timesに寄稿したのは短いエッセイだったので、「希望がある」と取られたわけですけど、僕としては、「希望の芽がまかれた」という書き方をしたんですよ。ということは、希望を必要とする情況なわけですけど、希望を必要とする情況というのは、逆に言えばいま辛い情況なんですよね。

 希望があんまり必要じゃない人を思い浮かべると、分かりやすいんですけど。例えば年収1億4千万円ぐらいで、大邸宅に住んでですね、幸せな家族がいて、子どもも2人ぐらいいて。仕事もうまくいっていて――そういう人は、希望は要らないでしょ。希望が切実に必要な人というのは、会社を解雇された、明日からどうやって生きていけばいいのかとかね。そういう人に必要なんですよ。

 だから、あのエッセイを読んで「どこに希望があるんだ」って、言う人もいましたけど、そうじゃなくて、希望を獲得していくとか、希望が必要なんだって、自覚するということは、辛い情況のときなんですよというニュアンスを込めたつもりでした。この点についてはもう一度きちんとエッセイを書こうかなと思っているんですけど。
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