新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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さらぎ徳二とその時代 (1)中学デビューの革命家

2021年05月04日 | 革命のディスクール・断章


いわゆる昭和の日の休みに、書架を整理していると、本が落下して、裸足の左足の第二指(示趾というらしい。手なら人差し指だね)を直撃した。拾い上げると、蜂起派の首領だった故・さらぎ徳二さんの『世界暴力革命論』だった。

古書店で見つけ即決で購入したのだが、「方法論」「普遍本質論」「史的戦略基底論」と、『資本論』やら『帝国主義』やら宇野経済学の批判的読解から始まり、ものすごく「真面目」なのである。さらぎさんには申し訳ないが、期待していたのと違う。結局、私は単ゲバなのだろう。そんなわけで、長らく積読だった。

しかし、ソフトカバー本にしては、結構痛かった。足元を見ると、皮膚が裂け出血している。ハードカバーの本ならともかく、ソフトカバーの本でなぜ?

赤と青の二色刷りの表紙カバーは、背表紙のセンターが5mmもズレてしまっているが、それはデザインの設計ミスで、本の造りそのものはしっかりしている。カバーを外すと最近見かけなくなった平綴じ製本だった。上下2箇所、ノド(背)から5mmあたりに、針金(ホチキス)が打ち込んである。ただし、本文用紙を綴じたこの針金は表紙用紙とカバーにくるまれているから、直撃しても傷をつけるほどのことはない。背の地の部分の角が、エッジが立っていて、「これか」と思った。

脳梗塞をやらかしてからは、血栓防止のため血液が凝固しにくい薬を飲んでいる。ケガの治りは遅く、ぶつけるとすぐ青アザになる。バンドエイドで止血処理をしながら、昨日が1969年の4・28沖縄デーから52年だったことを思い出した。この日の集会を前に、五人の革命家に初めて破壊活動防止法の扇動罪が適用された。このうちの一人が共産主義者同盟議長のさらぎ徳二さんである。

この流血の赤色テロル(?)は、『世界暴力革命論』を読んで、『革命のディスクール・断章』の続きを書けという同志さらぎからの物理的指導だろうか。

1980年代半ばの『前進』の3・14反革命特集号に、地下潜行中だったさらぎさんがメッセージを寄せたことがある。その中で出家して間もなかった瀬戸内寂聴さんが、同志本多延嘉書記長の葬儀で読経してくれたことを知った。共通の知人の荒畑寒村同志のご縁だろう。地下潜行中だったさらぎさんがこの葬儀に参列できたかどうかは知らない。マルクス主義者でありながら仏教に造詣が深そうだったのが意外だった。

以下は『さらぎ徳二著作集』のプロフィールより。

「本名右田昌人。1929年台湾・高雄に生まれる。敗戦後、大分に引き揚げ、青年共産同盟を経て日本共産党に入党、50年分裂後は所感派活動家として非公然活動に従事する。1955年の六全協後に日共を脱党」

1929年生まれだから、1930年生まれの島成郎ブント書記長や不破哲三氏より一年年長である。

私は長い間、さらぎさんについてWikipedia記載の情報以上の知識を持たなかった。懐かしのマル共連でも、蜂起派関連の話題は、三里塚現地闘争の懐古記事、2008年に共産主義者同盟(首都圏委員会)、共産主義者同盟(プロレタリア通信編集委員会)と共同で新たに共産主義者協議会を結成することを表明した件以外に、見かけた記憶がない。ただ共産主義者協議会の結成の時点ではさらぎさんは組織を離れ、亡くなっている。

第一次ブントの関係者による島成論記念文集刊行委員会の『60年安保とブント』『ブント書記長島成郎を読む』でも、さらぎさんの名前は見つからない。だから第二次ブントからの人なのだろうと予想はついたが、なぜ再建ブントの議長に選出されるに至ったのか、その経緯や前歴がわからいできた。

ブント-新左翼の資料を公開するサイト・リベラシオン社で、『情況』に不定期連載されたさらぎ徳二インタビュー『革命に生きる』を見つけた。赤軍派を結成してさらぎ議長を襲撃した塩見孝也氏が、揶揄的ではあったが「長老」と呼ぶだけの人物ではあったのだと思った。

さらぎさんのお連れ合いの許可を得て同インタビューを公開していたサイトがあるが、リンクは切れている。ブルジョア法的には著作権上の問題もあるかもしれないが、革命的クリエイティブ・コモンズの立場から、同志諸君(!)には『革命に生きる』のご一読をおすすめしたい。

このインタビューによれば、さらぎさんは台湾高雄から引き揚げ後、大分県の旧制中津中学に編入学。父は医師で、家は福澤諭吉の生家から250メートルほどだったそうだ。中学校ではまず教師の吊し上げをやったという。偉そうに国のため天皇のためといっていたのに、今度は民主主義といいだした教師たちに、「おまえは戦時中は何を言っていたのか」と問いただして回った。『はだしのゲン』の鮫島伝次郎糾弾闘争だね。そして共産党の中津事務所に行き、共青(日本共産青年同盟。民青の前身)のバッジをもらったのが、革命家としての人生スタートであった。

このインタビューでは同じ九州出身で、中学生党員だった廣松渉氏への言及もある。当時でも中学生党員は珍しかったそうだ。へそ曲りで最後まで意地を通す九州人の代表に、さらぎさんは日本を代表するマルクス主義哲学者の廣松渉とシャンソン歌手の丸山(三輪)明宏の二人の名を挙げる。

さらぎさんは所感派、廣松氏は国際派に属したが、二人の経歴はオーバーラップするところも多い。家を飛び出したさらぎさんは土方の日雇い労働で食い繋いだ。母子家庭だった廣松氏も伝習院高校を一年で退学処分後は、親戚のいた泉州堺で畳地の薄縁(うすべり。縁をつけた茣蓙[ござ])の行商をやったり、養鶏に取り組んだ(『哲学者廣松渉の告白的回想録』小林敏明編)。

話は脱線するが、廣松回想録から「九州独立運動」について触れておきたい。1950年6月25日に開戦した朝鮮戦争の緒戦は、北朝鮮の奇襲の成功により、朝鮮半島の大半を北朝鮮が制圧した。釜山陥落も目前であり、南朝鮮政府は山口県に亡命政府の樹立を模索するところまで追いつめられていた。米帝が九州に敗退してきたら、朝鮮人民軍に呼応して蜂起し、九州臨時革命政府を宣言するというのが、「九州独立運動」である。後のアフガニスタンのように、スターリン同志の赤軍介入を要請するというプランもあったという。関門海峡からの攻撃があったらどうするのかと問われ、「関門海峡をまず爆破せよ」と廣松氏がアジったという話も面白おかしく伝わる。廣松氏本人は「苦し紛れに言ったかもしれないけれど」と記憶も曖昧だったようだが。

もちろん誇大妄想もいいところだ。1950年8月から9月の釜山橋頭堡の戦い以降の米帝の反転攻勢で、米軍の九州上陸の可能性も消えた。

『日本共産党の五〇年問題』等の資料を読んだ人ならご存知だろうが、1950年1月末の徳田支配下の政治局決定で、宮本顕治が九州地方委員会に「左遷」されている。当時の学生運動は宮本の影響下にあり、反戦学同は九州大学から始まっている。廣松は宮本の「お目見え」にはかなわず、宮本が九州にいた時期についても1951年の途中までか1950年秋までだったのか自分は知らないと答えている。宮本本人も、私の手元にある資料では東京に戻った時期については言及していない。ただし廣松は宮本の世話係だった人物と接点があったことは認めている。宮本の九州滞在期間が1950年秋までとしても、北の勝利が目前に見えた時期には符合する。廣松は誰の指令だったかは秘して語らなかったし、国際派としての正式な決定ではなかったろうと断っているが、国際派の一方の総帥(国際派も宮本派と春日派に分かれていた)だった宮本がこの九州独立運動を知らなかったとは考えにくい。もちろん真相は不明である。

1952年1月1日、軍事路線の早急な実行を暗に促す、スターリンの「平和維持のための闘争」を呼びかける新年メッセージが発表される。このメッセージを受けて、日共が「中核自衛隊の組織と戦術」(いわゆる「軍事テーゼ」)を発表したのは同2月1日のことである。

廣松氏は、武装闘争に直接関わることはなかったようだが、長崎の軍事倉庫の爆破闘争や、工場で整備したパラシュートが開かないように針金で工作して落下傘部隊一個中隊を全滅させた破壊工作活動があったと回顧している。

さらぎさんは、自然発生的な公然闘争である朝鮮人と部落大衆と日雇い労働者による中津警察への突入闘争について語るのみで、自身の関わった非合法武装闘争について具体的に語ることはなかった。しかしこの闘争で、流血の白兵戦の口火を切ったのが、日本人でも共産主義者でもなく、朝鮮人のおばちゃんだった事実は、まだ二十歳そこそこのさらぎ青年の胸をグサリと刺した。この体験が後の蜂起派のスローガン「階級深部の怒りに立脚せよ」に繋がっていくのだろう。

しかし極左冒険主義的な武装闘争路線は突然終わりを迎える。

日共の武装闘争は、1952年の通常国会にかけられた破防法に反対する労働者階級の闘争の昂揚と結合することなく、大衆から孤立していった。1952年10月の総選挙では「民族解放民主統一総選挙」と称して、日共は党員候補115名と統一候補8名を擁立したが、党員候補得票数89万6000票、統一候補得票数15万2000票、合計104万8000票の結果に終わり、当選者皆無の惨敗を喫した。日共のいう「民主的政党」「愛国人士」とは自由党鳩山派であり改進党であって、左右社会党は米帝マーフィ(アメリカ大使)の手先であった。まさにレーニンのいう「左翼」お子様病だ。

日共も六全協以前の自らの誤りを「極左冒険主義」また「徳田家父長制」として自己批判している。しかし左翼版鮫島伝次郎(『はだしのゲン』の登場人物)という他にないこの無節操な転向はなんなのだろう。スターリニストは所詮は右翼日和見主義者で、セクト時代の言い方になってしまうが、本質的に受動的であり、(例:三里塚からの逃亡)、対抗的に積極的である(例:あかつき行動隊)。

「権力に合法的な対抗をしうる最後の機会となったのが、1949年4月の団体等規制法の公布・施行だった」と黒川伊織氏は指摘する(『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト』有志舎)。

団体の構成員の住所・氏名を法務庁に届けよというこの悪法に、日共中央は何の疑問を抱くこともなく党員名簿の届け出を推奨した。1949年1月の衆議院選挙で35議席を獲得して舞い上がっていたらしいが、あまりにもお粗末である。この名簿は後のレッドパージの党員割り出しに利用された(当時の日共の人々の名誉のために書き添えれば、すべての細胞がすべての党員を届け出たわけではなく、法政大学細胞はすでに著名な党員知識人だった石母田正と小田切秀雄だけを党員として届けたという)。

この団体等規制令はまず左派朝鮮人に向けられた。朝連や朝青を強制解散させ、所有財産はすべて日本政府により没収された。朝連本部のビルはもちろん、家具や什器や備品全部、資料・帳簿・書類、鉛筆にインキ壺、ぞうきんバケツから各自のかばん、弁当、最後は靴まで脱がして、居合わせた朝鮮人を裸足で叩き出すという極悪非道ぶりだった(中野重治『甲乙丙丁』による)。

朝鮮戦争勃発を見据えたこの朝連解体の予防反革命に、日共中央は形だけの抗議声明を発表しただけで、党として朝鮮人の抗議闘争を支援することはなかった。それどころか、「民族対策部」を組織し、連盟解散により困窮状態にある朝鮮人青年を中心とした「特殊工作隊」を設置する。日共の朝鮮人同志に対する態度は、帝国主義の抑圧民族の差別意識剥き出しの利用主義であり、断じて許すことができない。

さらぎさんは1950年過程についてこう語る。同時代の現場活動家による貴重な証言である。

〈徳田主流と志賀・宮本・春日(庄)、袴田、神山らとの「政治的」確執は戦後共産党の再建から存在していた。だが路線的には四五年十二月の第四回党大会でも天皇制打倒を掲げることとブルジョア民主主義革命を平和革命で達成するという点では全く一致していた。それは彼等の脳細胞の中には三二年テーゼと人民戦線しか無かったからです。綱領戦略を抜きにしたコミンフォルムの野坂批判をキッカケとして所感派と国際派の対立へと顕在化したに過ぎなかったのです。彼等が特に総括すべきは四八-九年のスト権剥奪と行政整理攻撃とりわけ国鉄決戦での大敗北を自らの責任において総括すれば、マッカーサーの占領政策の転換の意図も権力構造も、その攻撃の真の狙いが朝鮮戦争の勃発に備えた共産党の非合法化とレッドパージにあることも簡単に見抜けたはずです。四九年四月に紅軍が南京を解放し、十一月に人民政府の樹立を宣言した時、私のような十八歳の青年でさえ、このままでは済まないだろうと予感したから。〉
(『革命に生きる』第1回 『情況』1997年7月号)

1929年生まれのさらぎさんは(月日は不明)、1949年4月-11月には満年齢でも(当時は数え歳だった)19歳-20歳のはずなので、「十八歳」は記憶違いだろうか。

プロフィールでは、さらぎさんは「六全協(1955年7月28-29日)で日共を離党」とあるが、『革命に生きる』によると、もう少し紆余曲折があったようだ。

日共の軍事路線は1952年5月1日の人民広場のメーデー闘争、6月25日の吹田闘争、7月7日の大須闘争で頂点に達する。しかし武装闘争路線は半年余りで終息する。7月4日付『恒久平和と人民民主主義のために』に掲載された北京の徳田球一の「日本共産党創立三〇周年に際して」は、「労働者や農民の現実の要求を考慮に入れずにたんに指導部の希望だけでデモやストライキを強行」していると国内指導部を批判して、事実上火炎瓶闘争を全否定したのである(黒川、前掲書より)。

しかし火炎瓶闘争が終息しても、中国革命にならって農村に革命根拠地を築くための山村工作隊の活動は維持された。

さらぎさんも1953年までは非公然非合法を守り、県委員会も田んぼの中のラジオもない堆肥小屋の天井裏で行っていたと振り返る。武装闘争の火が消え去って、張り詰めた緊張感が崩れるとともにさらぎさんは喀血。

〈骨と皮だけの私を救ってくれたのは、被差別部落の大衆と在日朝鮮人の同志でした。レバの刺身と貴重な鯉の生き血とオカラ御飯で生き返りました。〉
(『革命に生きる』 同前)

「トンム(友達)、今夜はワンロースだよ」

ワンは犬、ロースはロース肉。朝鮮人同志の心尽くしの犬の焼き肉とワンスープと密造焼酎が、さらぎさんの身体を手術可能なところまで回復させる。1954年、栗の花の匂いがする頃(5月から6月か)、手術のため上京する。二回の手術で左肺を摘出し、肋骨も四本部切り取り、文字通りの「片肺飛行」になる。

さらぎさんは、病に倒れた常任活動家を切り捨てる党の姿勢を問う「信任状」を党本部に提出してから、上京したという。怨みつらみで離党するのではなく、手術が成功して生命をとりとめたら決着をつけるつもりだった。

上京後、党本部に信任状が届いているか確認に行くが、門前払いになる。六全協前の党本部は、所感派と国際派の野合政治が始まっていて、「田舎者の死にぞこないの活動家」にかかずりあっている暇はないという態度だった。「ヨシ、俺の方から党をバッサリ切り捨ててやる」と踏ん切りがついた。〉(『革命に生きる』第二回 『情況』1997年10月号)

思いの他、長くなってしまった。スターリン批判や第一次ブントとの出会い、第二次ブント再建から蜂起派結成までについては、次回に譲りたい。さらぎさんと廣松氏は、九州出身と中学生党員の他に、第二次ブントの分裂過程でいわゆる内ゲバの襲撃を受けたという、奇妙な共通点がある。(続く)


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