[今回のテクスト]
『こう読めば面白い! フランス流日本文学 -子規から太宰まで-』柏木隆雄(阪大リーブル)
[1]第一章 正岡子規の生と死 -自筆墓碑銘をめぐって―
[登場人物]
五十鈴れん
15歳の中学3年生。小さいときから内気で、人と話すことは苦手。好きなことは、文章を書くこと、絵を描くこと。将来の夢は、「エッセイストの人」。お父さんの仕事ファイルを見るのが好き。いまはお父さんの文学のお勉強に付き合っている。
五十鈴九郎(お父さん)
このブログの主。ひとり娘のれんを溺愛する、コロナで隔日勤務の会社員。絵本、図録、パンフレット。年誌、ホストカタログ、工業マニュアルまで、どんな仕事もする。正岡子規を仕事で取り上げたことがある。お仕事ください。
[一月の緊急事態宣言から数日後のある日の午後]
れん ぉ待たせしました。これを、探してました。はぃ。
お父さん 子規の話をする前に、見てほしいものがあるって、何?……ん? これは、お父さんが昔作った、染色メーカーさんの記念誌だね。 こんなのよく残っていたな。付箋が立ったページを、見たらいいの?
れん (こくこく)
お父さん 「正岡子規 色とことばの文明開化」。あー。筆者名はタレント学者さんだけれど、これはお父さんの書いた文章だ。よく見つけたね。
れん ぉ母さん、ぉ父さんの文章、大事にファイリングして、コレクションしてるから。この学者さんのマネしているけれど、これはクロ君に間違いないって…はぃ。私も、ぉ父さんの文章好き…だよ?
お父さん ありがとう。一人二人で充分なのに、一人二人三人のお父さんは幸せ者だ。
れん はぃ? 家族仲良し三人です…はぃ。
お父さん そうだね。今のは俳人の永田耕衣のことばだよ。その句を詠んだ自分がいる限り、この世に一人は理解者がいるわけだ。自分の他に、一人でもわかってくれる人がいたのなら、この世に二人で、これ以上何を望むのか、ってね。三人もいるお父さんは、果報者だよ。いいじゃねぇか、おれたち三人だけで?
れん つげ義春さん…だね!
お父さん はは。『無能の人』を読んでいるとは、お見それしました。
れん ぁのね、私はこの俳句が好き。
「海と山十七字にはあまりけり」
ぅん。スケールが大きいです…はぃ。
父 子規の最高傑作とはいえないけれど、この六甲の写真には合っているね。種明かしをすると、この写真家さんが、この会社の会長のお孫さんでね。「孫を使ってやってくれ」と頼まれて、作品を見せてもらって、足りない分はロケハンして撮りに行ってもらって、写真に合わせて俳句を選び、俳句に合わせて文章を書いたんだ。無名の新人の主演デビュー作に、大物ゲストたちを呼んだようなものだね。写真がメインで、文章は刺身のつまだ。
れん 私は、ぉ刺身より、ぉ大根のつまが好き。ぉ醤油を、ちょこんとつけて、ご飯に乗せて食べたり、ぉ味噌汁に入れたりすると、ぉいしい…よ?
お父さん あー。それはだ、まだ本物の魚を食べさせてあげたことがないからだなあ。今度千葉に帰ったら、おじさんに沖の根に船を出してもらって、釣りに行くか。
このとき記事で取り上げたのは俳句だけれど、子規は短歌もいいものだね。
れん ぅん!この短歌は、教科書に載っていて、授業で習ったよ…はぃ。
お父さん これかな。「びんに…」
れん かめ、だと思う…よ?
お父さん あ。そうか。そうだね。ここは、かめじゃなくっちゃいけない。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
いい歌だ。「びん」じゃ、ぶち壊しだね。授業では、どんな風に教わったの?
れん 難しかった…写生主義とか…ありのまま?…と、いいますか…?病床六尺、でしたっけ?…六尺の狭い中に…ですね、寝たきりの子規さん、動けなくて観察するしかないけれど、でも、その観察力の鋭さ、という感じ…だったような…すみません…よくわかりませんでした…はぃ。
お父さん 先生もあんまりよくわかっていなさそうだな。
れん 先生の悪口は、言わない…で!先生が、一生懸命話してくれたから、子規さんのすごさが、私なりに、わかった…気がした…から…はぃ。
子規さんは…ね…長いぉ足が…ね、あるのに…ね…寝たきりで、畳に立てないし、藤の花は、元気なのに…ね、花房が短すぎて、畳に届かないし、「お互い、うまくいかない…ねえ」って、子規さんが藤の花に話しかけているような、優しい歌だと、思った…よ…はぃ。
でも、柏木先生のご説明は、感動しちゃった…な。私は、こんなこと、全然、思いつかなかった……。読めない漢字も、あったけれど…これです…はぃ。
お父さん ああ、「不盡」は「ふじん」……ではなく、「ふじ」だね。娘に間違いを教えるところでした。天の声に感謝します。この字は、「無尽蔵」の「尽」の正字体、旧字体で、「不尽」つまり「尽きない」という意味だよ。
れん ぃま誰と会話していたの? 時々ぉ父さん変。でもそれで「不盡」が、「永遠の時間」という意味に…なるんだ…ね…。藤の花が、畳に届けば、藤の花から、永遠の命の力、不死のエネルギーが届くかも…届いてほしい…という、子規さんの切ない祈りが、伝わってきて…改めて、素敵な歌だと、思いました…はぃ。
お父さん 藤の花が、病気を浄化して、永遠の生命をもたらすんだね。『宇宙戦艦ヤマト』のコスモクリーナーみたいだな。ん? ああ、知らなくて当然だ。宇宙戦艦ヤマトがイスカンダル星まで受け取りに行く放射能除去装置の名前だよ。ラストシーンでは、放射能で汚染させた地球が、元の青さをスーッと取り戻すんだ。うん。笑われるかもしれないが、あのシーンに、小さなころの私は感動したんだ。
しかし、次の歌にはこうあるね。
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさは かさねし書(ふみ)の上に垂れたり
畳には届かないけれど、重ねた本の山には届いた房もある。しかし床に伏せた寝たきりの病人が手にとれ、自由になる範囲で、本の山を積み上げたところで、せいぜい数十センチだろう。その数十センチが、大マゼラン星雲のイスカンダルより遠い。藤の花が垂れた書物は、やはり、和歌の本なんだろうね。
藤なみの花をし見れば 奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
木は人より長生きするし、木材を原料にした紙の本は木よりも長生きするものもある。『源氏物語』の原典は現存しないけれど、筆写され、印刷され、千年以上読み継がれてきたし、千年後も読まれ続けるだろう。テクストは、不死であり、不尽であり、永遠の生命を持つ。この連作をめぐる柏木先生の読みは、素晴らしいね。
お父さん ぅん!でも子規さん、こんなに、生きたい…死にたくない…と、願いながら、34歳で亡くなっちゃったんだよね…。
子規さんが30歳のとき自分で書いた墓碑銘が、悲しすぎます…はぃ。「明治三十□年□月□日没ス享年三十□歳」って、自分が、あと10年以上は、生きられないことを、知っていたんだ…ね…
お父さん あの時代は平均寿命50歳以下だから、いまなら50代後半に相当するのかな。それでもまだまだ若いね。
子規の墓碑銘には、「私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪うこともせずにただ理解することに努めた」という、哲学者のスピノザのことばを思い出したよ。自らの運命を笑うこともなく、嘆くこともなく、呪うこともなく、人生の残り時間を見極め、力の限り生き抜いた。
そうだ。千葉のおじさんと、鋸山までドライブに行ったの、覚えている?
れん 覚えて、いる…よ。地獄覗きをして、日本一の大仏さまを見て、お寺に行って、羅漢さん、見た…ね。
お父さん お寺は日本寺だね。夏目漱石の『こころ』には、学生時代に房総を旅行をした話が出てくるけれど、同じ頃に子規も旅行していたのは、日本寺の記念碑で初めて知った。漱石と子規は、逆コースで房総をめぐって、鋸山にも訪ねて、漢詩を読んでいる。「木屑録」(ぼくせつろく)、子規は「かくれ蓑」という紀行文を書いて、お互いに交換していたんだね。子規は俳句・短歌・散文どれも優れていたけれど、漢詩だけは苦手だったようで、漢詩が得意な漱石にからかわれている。
「海と山十七字にはあまりけり」は、この「かくれ簑」から引用したんだよ。
れん そうだったんだ…ぅん、鋸山も、海と空が目の前に広がって、ラピュタみたいだったよ!
ぉ父さんのぉ父さんは、鋸山の安房の人。
お父さん 先祖は『南総里見八犬伝』の里見氏の家臣だったそうだよ。おじいちゃんが五十鈴に養子に入る前の苗字と同じ家臣がいるのは事実だけれど、ほんとのところはわからない。しかし、村上春樹がヤコペッティの『世界残酷物語』にたとえた文化不毛の野蛮の地で、青春時代の日本文学の二人の巨星がクロスオーバーしていのは驚きだったな。
漱石の「木屑録」は、『漱石先生の夏休み』という本に全文収録され、現代語訳されているから、いつか読んでみるといいよ。子規が苦手だった漢文の勉強になる。
れん ぅん!鋸山に行った後、ぉ魚食べて、海で貝がら拾った…ね。鋸山また行きたい…な。
お父さん 今の騒ぎが、落ち着いたらね。久しぶりに、千葉のおじさんに連絡してみるか。
今日は千葉の話をしたから、イワシ頭だな。なめろうの漁師飯、いわしの団子汁、菜の花のアンチョビ和えにするか。ちょっと買い物に行ってくるね。菜の花、解凍しといてくれる?
れん 今日は、包丁でいわしをトントン叩くの、やりたい……はぃ!
ぃわしの団子汁は、ぉ父さんの気が変わって、貝汁になりました…はぃ。
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