気ままな生活 一枚の写真

一枚の写真からプログが始まればと思っています。

札幌建設 明治4年

2008-08-08 12:50:38 | 昔話

札幌建設の第3弾
島判官は雄大な札幌の建設構想を実行に移して、雪の中で地割りを行い、
役所を建て、農商民を募りました。
しかし、厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要し、
二代目東久世通禧開拓使長官とも衝突し、志半ばで解任されました。
4年、札幌に赴任した岩村判官らは、移民の招致、道路工事、市街の測量に着手
島判官の構想を一部変更し、建設を再開した。
市街地は、11間幅(約20m)の道路を南北に交叉させる碁盤の目状とした。
その基本的なブロックは、60間四方(11,644㎡)とし、6間幅(約11m)の中通りを設け
そして幅3尺の側溝を道路両側に付けた。
明治4年ごろの札幌地図
クリックして拡大して見てください(記号が下記の写真と一致します)
ア)島判官が札幌の建設の中心地とした地(南1条西1丁目付近)
イ)札幌本陣(札幌駅逓所)
 
札幌本陣及ビ創成橋               ウ)開拓使札幌本庁仮庁舎
今と違い飛び越えれそうな川です
そのころの札幌の風景です
札幌仮役所物見ヨリ西ヲ見ル
 
札幌官宅本通ヨリ東ヲ望ム
エ)
札幌豊平橋之旧景
このころは中島を中継地点で渡し舟と橋で豊平川を渡っていました
又明治4年は市内最初の公園である偕楽園 オ)の建設、
や最初の官立学校である資生館設置などありました。
そのころの札幌の近郊
江戸時代からの開拓地として札幌村・荒井村が存在していました
明治2年 カ)東本願寺(南7西10)に建立
明治3年 酒田県(現在の山形県)県募民96戸が
    庚午二の村(苗穂村)、庚午一の村(丘珠村)、庚午三の村(円山村)に入植
    「辛未一ノ村」とは、
    今の南7条西6丁目より以東一帯につくられた50戸ほどの移住地区
    札幌神宮の仮神殿を奉遷(北6条通) 4年に円山に建立
    柏崎県(新潟県)の札幌村(元村)に22戸入植(元町地区)
明治4年
    二十四軒・八軒・十二軒に入植
    辛未(しんび)村全50戸のうち分散移転した戸数に由来します
    *二十四軒・八軒は今でも地名として残っています。
    本願寺道路が完成
このように明治政府が本格的に札幌建設に力をいれ農民の入植もますます
増えてきています。
この時の札幌中央区の人口は637人だそうです
ほかにこの年は
薄野に官許遊郭を設置(南4条通り)
アンチセルが岩内付近で野生ホップを発見
開拓使顧問ケプロンら来日。
黒田清隆が開拓使の次官になる         などがありました


札幌建設 No2

2008-07-29 00:33:13 | 昔話

石狩に本府建設の準備を命じられた島判官一行は、明治2年10月12日銭函に到着
このころの札幌に住んでいた和人は、豊平川の渡し守をしていた2家族。
(正確に言いますとこの話は現中央区のことであり、現北・東区、手稲区には
江戸時代に入植している人がいます、そのことは別の機会に)
その直後から本府地の選定と豊平開墾の準備を開始
 
旧札幌図 高見沢権之丞が明治8年に当時(明治2年)を思い出して描いた
蛇行しながら流れる豊平川とそこからまっすぐ創成川(大友堀)が描かれています
まわりは芳野で覆われています
この様子を島判官は今の円山辺りから眺め本府建設の構想したのでしょう

札幌附近指図(島義勇) 札幌開府に際しての見込図
島判官の本府構想では、まず現在の札幌の中心(南1条西1丁目付近)部に、
北端に300間(545.45メ-トル) 四方の本府(本庁)敷地、その南側中心から
南北の道路を通し、その道路の両側に長官邸をはじめとする官宅・病院・学校
・役所などを配した。それらの南端に幅42間(76.36メ-トル)の空閑地を東西に帯状に
とり、そこに二筋の土塁を設け、その南側に本町を配した。
これらを実際の札幌に当てはめると、南北の道路は、南から北へ流れる
創成川東岸の道路、空閑地は大通りとなる
 
札幌を建設中の図(旧札幌図 高見沢権之丞)   中心部を拡大彩色した図
高見沢権之丞
は絵師ではないようですがきれいに描いています
仕事は幌内道路開さくの請負人らしいです

画像 明治2年ごろを集めてみました


札幌建設

2008-07-23 06:10:59 | 昔話
ブログの更新もせずひたすら札幌の歴史にのめり込み
気がつくと北海道(石狩平野)の地形まで行き着いてしまいました。
小出しながらもUPしていきます~
1868年明治維新 江戸時代から新たな時代へと変わるころ
北方政策で北海道(まだこのころ蝦夷と呼ばれていました)が
はっきりと日本の領土であることを示すためにたくさんの人を定住させる必要性から
北海道開拓時代が始まりました。
1869年(明治2年)7月8日開拓使を設置します。
(そのころは札幌はありません~)当然私の田舎もそうですが
そして初代長官に鍋島直正、判官に島義勇・岩村通俊らが任命され、
石狩辺に本府を置くことになった。(正確な位置もまだ未決定)
この時・蝦夷を北海道と改め(名付親は松浦武四郎)、
11カ国85郡を置くことにしたそうです。


北海道十二カ国八十六郡明細図(明治2年) 12ヶ国? 青森が記載だから?
このころの石狩平野の川は左側
 
明治初めのころを描いた図を見つけました~
今と違い直線に流れるの場所がほとんどありません~
創成川は1865年(慶応2)大友亀太郎は堀を開削したのが始まりですから
元々は右の図になります

豊平川は、アイヌ人にサッポロ・ペツと呼ばれ、これが札幌の語源である。
江戸時代まで、札幌中心部付近で北に折れて現在の伏籠川の川筋をたどり、
石狩川に注いでいたが、洪水で流路を東に転じたそうです。
札幌の中心部は、豊平川が暴れまわった結果できた扇状地です。

扇状地は札幌駅があるあたりが、扇端(せんたん)で標高20メートル、
真駒内の豊平川さけ科学館が標高80メートル。
この間の直線距離が8キロメートル。

札幌駅や大通公園のある扇端部分は、扇状地が終わり、氾濫原につながるところ
この辺りで、先住者のアイヌたちが「メム」と呼んだ、湧水が至るところにありました。
この様子を見て
松浦武四郎も安政三年に時の函館奉行の竹内、堀、村垣の三名に意見書を呈し
札幌豊平付近が首都の適地であると述べている。
次回につづく