中山峠の帰り寄って見ました~
(以前から知っていたのですが思いだす度に通り過ぎてしまいます)
それは
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)
クリックで全体が見えます
1872年(明治5年)から1884年まで、本願寺道路沿いの簾舞で営まれた
官営の旅館で、石狩国札幌郡(現在の札幌市南区簾舞1条2丁目)におかれた。
平岸村(現在の同市豊平区平岸)以南は、江戸時代に発見され明治期には
湯治場として有名だった定山渓まで、途中の休息する場所も、
当時はここしかなった。
深い原生林に囲まれた幅3m以下の本願寺道路を、20km以上もただ歩くしかない
といった地理条件だった。
黒岩家住宅
明治19年に新しく有珠街道が開通すると、黒岩家はこの街道沿いに柱や屋根材などの建築材のほとんどまるごと運び、
旧屋部分を移設再築この居家で引き続き宿屋を営みつつ農業に従事した
簾舞通行屋 裏 跳ね釣瓶の井戸
跳ね釣瓶の井戸は桶は一つですが、井戸から少し離れた所に支点を置き、
テコの原理を使うため、水を汲み上げるのにはそれほど力は要りません。
ただし、桶を井戸の中へ入れるときには、多少の力が必要です
跳ね釣瓶の井戸は田舎で私が小学校時代の通学路にもありました
建物の中は郷土資料館
大正11年に建てられた半鐘櫓
画像 2009-04-09 簾舞通行屋
1874年(明治7)は屯田兵制度の制定され黒田清隆が、開拓使長官になっています
上記地図は1877(明10)石狩国札幌市街之図に加筆しています
A:豊平村
明治4年(1871)3月に岩手県から59戸が平岸に、同じく岩手県から49戸が月寒に入植し
月寒村と平岸村と豊平村で、同7年に豊平村となりました
B.C:札幌官園
札幌官園で牛、馬、羊などを飼育しだしました
D:開拓使仮学校
東京の開拓使仮学校が札幌に移り札幌学校となる。(北1西2)
年度は1875年 明治8に変わり
最初の屯田兵198戸・965人が琴似に入植しました
現在琴似神社境内に現存しています
屯田兵屋
E:札幌養蚕室 F:札幌製糸所
F:桑園 山形県士族が桑園を開墾しました
豊平橋架設足場 H:豊平橋側面
年度は1876年 明治9に変わり
札幌農学校全景 札幌学校講堂
I,D:札幌農学校
札幌学校が札幌農学校と改称し開校
W.S.クラーク博士の札幌農学校に就任しています
J:開拓使葡萄酒醸造所 K:開拓使麦酒醸造所
K:開拓使麦酒醸造所 ビ-ル商標(開拓村)
L:山鼻村
屯田兵240戸が山鼻に入植
M:公立第一小学校(創成小学校)
黒田長官はケプロンの献策にもとづき基盤整備事業を起こしたが、
たちまち支出超過を招いた。
明治6年(1873年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。
これにより官営の工場など施設が次々と建っていきました
札幌建設の第6弾 |
札幌建設の第6弾
前回地図には記号を付けましたがのこりG~Nまでと+αの写真をUP
明治6年は最後ですので長めに
1873(明6) 北海道札幌之図を参考
町並みは
G:札幌病院 H:今井呉服店(丸井今井百貨店の前身)
I:西洋壱番邸地絵図 J:洋造弐邸(御雇教師館)
写真がありませんでしたので 別名を「外国教師五人住居」
L,K:大・小主典邸 M:勅奏邸
2つの写真は開拓使職員今でいう公務員の階級で官舎です
N:薄野遊郭 繁華街すすきのの発端です
前回札幌建設 明治6年No2でUPしたF:札幌工業局器械所を補足
明治5~8年に完成した開拓使の器械場で
水蒸気木挽器械所、水車器械所(創成川を利用)、鍛工所などが建設された
水車器械所の二階に明治6年官営製粉所が建設
洋式水車+石臼製粉器で道産小麦を挽きました
輸入石臼製粉器(北大植物園内博物館) 工業局器械所鳥瞰図
1872年より開拓使十年計画が実施されることになりました。
開拓に長じた外国人の指導を受け,本格的に北海道開拓を行おうとするもので
生産・生活資材を供給したり,北海道の物産を輸出・移出品にしようとして,
F:工業局器械所以降、多くの官営工場が建設された。(のちにUPしていきます)
北海道神宮は
明治3年に明治政府により三神を祀る仮社殿(北6条東1)を建て
奉遷されたのがはじまりです。
当時は一ノ宮とか開拓社、勅祭社などと呼ばれていました。
明治2年ごろの札幌を建設中の図(旧札幌図 高見沢権之丞)に表示されています
過去のプログ「札幌建設 No2」を参照
開拓の守護神と明治天皇を祀って明治4(1871)年今の場所円山が鎮座地と
定まり札幌神社と称して仮本殿が造営
第2鳥居(神宮表参道入口)桂の巨木 仮本殿
本殿は北方への守りということもあり北を向いています(ほかはどこ向き?)
明治5年 札幌脇本陣屋上ヨリ東西南ヲ望ム (パノラマですクリックしてください)
明治6年ごろ
札幌建設の第5弾
前回と同じ1873年(明治6)ごろまでの話です
明治5年8月の学制発布以前に、
明治4年創立の資生館(現在の資生館小学校)
明治5年3月創立の善俗堂(現在の白石小学校)
同年5月創立の時習館(現在の手稲東小学校)
それぞれの学校が開設されていました
明治5年(1872年)
政府は江戸時代からの庄屋、名主、年寄等を廃止し、かわりに全国一律に、
大区とその下に旧来の町村をいくつかまとめて小区をおいた。
札幌も1873年(明治6)正権区長を置き札幌郡を管轄しています
1872年(明治5年)
本願寺道路沿いの簾舞で営まれた官営の旅館である、簾舞通行屋(みすまい)開設
(現在の札幌市南区簾舞1条2丁目)
1873年(明治6年)
開拓使が建設した日本初の本格的な西洋式馬車道である、札幌本道が開通しました
現在の国道5号の一部(函館~森)と国道36号(室蘭~札幌)に相当する。
このころの町並みは
1871石狩国札幌本通ヨリ西ヲ望ム図 パノラマですのでクリックしてください
1873明治6年札幌市街之図(加筆)
前回の1873(明6) 北海道札幌之図を参考に加筆しています
A:札幌脇本陣 B:開拓使札幌本庁上棟式
B:開拓使札幌本庁 完成 開拓使札幌本庁(開拓村 再現)
C:開拓使本庁分局 迎賓館 D:札幌邏卒屯所
E:西洋町長屋
F:工業局器械所
明治6年ごろはさまざまな建物が建てられています
今回ですべてUPが難しいので次回にまわします
明治6年
札幌建設の第4弾
明治2年以降札幌の地図を探すと1873年(明治6)に遡ります
このころは開拓使判官は島義勇から岩村通俊之に代わっておりました
島の基本的な構想を引継ぎ札幌の街は道路を南北に交叉させる碁盤の目状とし
中央部に東西に引かれた道路、大通 幅58間(約105m)を作りました
1871年までに火防線となる「大通」を境に北を官庁、南を商業地としました
1873北海道石狩州札幌地形見取図 1873(明6) 北海道札幌之図
ところがその頃の札幌は野火が多く、せっかく建てた住居が類焼してしまいます。
そこでお手軽に笹小屋を建てて、次の火事まで住みつくことが続きました。
開拓使では、新しい住宅を作るときに、笹小屋をやめるよう指導しましたが、
住民のほうは燃えても燃えても、手近の笹を刈って家を作ってしまいます。
当時の開拓小屋を再現(北海道開拓の村)
岩村判官は、こんなことでは札幌本府建設がスムーズに進まないと考え、
「八尺ぐらいの白もめんに御用火事と書いた旗をたてて、
札幌中の笹小屋を全部焼き払った」とのこと(明治5年5月3日)
つまり放火ですので本人も辞職覚悟だったと言われています
民家への延焼を防ぐ目的で生まれたのが、開拓使御用請負人の中川源左衛門
率いる中川組でした。(札幌市の消防の開祖)
私設消防組の「中川組」 明治10年撮影
明治5(1871)年2月に札幌市街の町名をつける際、東創成(そうせい)町以下33町に本道の郡国名にちなんだ命名をし、 通りにもそれぞれ郡国名をつけました。
北海道の郡国名は以前の
「札幌建設 2008/7/23 6:10」の北海道地図を参照下さい
また、このときに大友(おおとも)堀が創成川(S)と改称されました。
北海道札幌之図に加筆
旧名称 現名称 旧名称 現名称
A:雨龍通・・・・東2丁目北部 ア:空知通・・・・北6条
B:東創成通・・東1丁目 イ:樺戸通・・・・北5条
C:西創成通・・西1丁目 ウ:石狩通・・・・北4条
D:夕張通・・・・西2丁目北部 エ:札幌通・・・・北3条
E:上川通・・・・西3丁目北部 オ:厚田通・・・・北2条
F:小樽通・・・・西4丁目北部 カ:浜益通・・・・北1条
G:様似通・・・・東3丁目 キ:渡島通・・・・南1条西部
H:浦河通・・・・東2丁目南部 ク:爾志通・・・・南2条西部
I:胆振通・・・・・西2丁目南部 ケ:檜山通・・・・南3条西部
J:山越通・・・・西3丁目南部 コ:津軽通・・・・南4条西部
K:虻田通・・・・西4丁目南部 サ:福島通・・・・南5条西部
L:有珠通・・・・西5丁目 シ:上磯通・・・・南6条
M:室蘭通・・・・西6丁目 ス:日高通・・・・南1条東部
N:幌別通・・・・西7丁目 セ:沙流通・・・・南2条東部
O:白老通・・・・西8丁目 ソ:新冠通・・・・南3条東部
P:勇払通・・・・西9丁目 タ:静内通・・・・南4条東部
Q:千歳通・・・・西10丁目 チ::三石通・・・南5条東部
R:薄野遊郭
明治4年に就任した黒田次官は開拓顧問に多くの外国人技師たちを雇い入れて
、先進国の農業工業の知識や経験、専門技術の導入や機械など近代的なものを
受け入れています。
これは建設中の札幌の町並みにも影響を表しています
それは次回とします
明治6年