わかりあえないことから
コミュニケーション能力とは何か 平田オリザ 2012年
再び、平田オリザ である。「17歳の~」を読んだ後では、やたら説得力があるように感じてしまう。
人間は演じる生き物なのだ。
「演じる」ことは「本当の自分を偽る」こととは違う。人格とは、様々な社会的役割、すなわち様々な仮面の総体である。むしろplayerとして様々な自分を演じることを楽しむべきである。
コミュニケーション能力に関するダブルバインドが日本社会を閉塞させているといううのが、著者の主張。つまり、異文化交流への要請と日本社会の中での同調圧力のダブルバインドによってである。そこにはやはり、明治以降の急激な西洋化や経済成長によって置き去りにされてきたコミュニケーション教育の遅れの問題がある。その能力を身につけるべく取り組みの紹介である。
多文化共生の昨今では、考えの違うもの同志が、コミュニケーションを通じて何とか妥協点を見いだして暮らしていかなければならない。その場合必要なのは「対話」であり、互いに「説明」をすることである。わかりあえる者同士の間に対話は必要ない。わかりあえないからこそ、粘り強く対話するのである。まずは、馴れること。
コミュニケーションの極意?
「対話」は表現の一種である。従来の国語教科書にあるような、センテンスでは実際伝わらないのである。場面に応じた効果的な表現方法というものがある。また、無駄とも思われる人間的な表現(繰り返し・間投詞・相槌・沈黙・ダンス)が、伝えることにおいてはより効果的だったりする。逆に、受け取る側もまた、耳を澄まし、目を凝らして相手の文脈を探ることに努める必要がある。社会的弱者を扱うような微妙な現場においては、対話をしやすい環境を整える、ことも必要とされている。(コミュニケーションデザイン)
言うまでもないことだが、舞台で、役者の演技が文脈に沿った自然なものであるほど、架空のストーリーに真実味が増し、結果、作品のメッセージを良く伝え、感動を引き起こす。演じる過程で役同士のコミュニケーションをなぞり、更に作品としてアウトプットすることで、観客とのコミュニケートを図る。つくづく演劇は面白い。
コミュニケーション能力とは何か 平田オリザ 2012年
再び、平田オリザ である。「17歳の~」を読んだ後では、やたら説得力があるように感じてしまう。
人間は演じる生き物なのだ。
「演じる」ことは「本当の自分を偽る」こととは違う。人格とは、様々な社会的役割、すなわち様々な仮面の総体である。むしろplayerとして様々な自分を演じることを楽しむべきである。
コミュニケーション能力に関するダブルバインドが日本社会を閉塞させているといううのが、著者の主張。つまり、異文化交流への要請と日本社会の中での同調圧力のダブルバインドによってである。そこにはやはり、明治以降の急激な西洋化や経済成長によって置き去りにされてきたコミュニケーション教育の遅れの問題がある。その能力を身につけるべく取り組みの紹介である。
多文化共生の昨今では、考えの違うもの同志が、コミュニケーションを通じて何とか妥協点を見いだして暮らしていかなければならない。その場合必要なのは「対話」であり、互いに「説明」をすることである。わかりあえる者同士の間に対話は必要ない。わかりあえないからこそ、粘り強く対話するのである。まずは、馴れること。
コミュニケーションの極意?
「対話」は表現の一種である。従来の国語教科書にあるような、センテンスでは実際伝わらないのである。場面に応じた効果的な表現方法というものがある。また、無駄とも思われる人間的な表現(繰り返し・間投詞・相槌・沈黙・ダンス)が、伝えることにおいてはより効果的だったりする。逆に、受け取る側もまた、耳を澄まし、目を凝らして相手の文脈を探ることに努める必要がある。社会的弱者を扱うような微妙な現場においては、対話をしやすい環境を整える、ことも必要とされている。(コミュニケーションデザイン)
言うまでもないことだが、舞台で、役者の演技が文脈に沿った自然なものであるほど、架空のストーリーに真実味が増し、結果、作品のメッセージを良く伝え、感動を引き起こす。演じる過程で役同士のコミュニケーションをなぞり、更に作品としてアウトプットすることで、観客とのコミュニケートを図る。つくづく演劇は面白い。