リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十一 橘豊日天皇 七 ・用明天皇、崩御する



日本書紀 巻第二十一 橘豊日天皇 七

・用明天皇、崩御する



天皇の瘡はいよいよ盛り、
まさに終の時に、

鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が
進みて、

(司馬達等(しめだちと)の子です)

奏して、
「臣は天皇のために、
出家して修道し奉ります。
また、丈六の仏像、
及び寺を造り奉ります」
といいました。

天皇は、
この為、悲慟(ひどう)しました。

今、
南淵の坂田寺の木の丈六の仏像、
挟み侍らう菩薩が、
これです。

九日、
天皇は大殿で崩じました。

秋七月二十一日、
磐余池上陵(いわれのいけのへのみさざき)
に葬りました。



・悲慟(ひどう)
悲しみなげいて大声でなくこと



(感想)

用明天皇の痘瘡(とうそう)は、
いよいよ重くなり、

まさに臨終の時に、
鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が
進み出て、

(司馬達等(しめだちと)の子です)

奏して、
「私は天皇のために、
出家して修道いたします。

また、
丈六の仏像、
及び寺を造り奉ります」
といいました。

天皇は、
この為、
悲しみなげいて大声で泣きました。

今、
南淵の坂田寺の木の丈六の仏像と
左右の菩薩がこれです。

9日、
天皇は大殿で崩じました。

秋7月21日、
磐余池上陵に葬りました。


仏教に帰依したいと
願った用明天皇ですが…

帰依する前に、
病気が重くなり、
崩御されました。

帰依したいと願えど、
自分の思うままに行動できない。
他の者たちの合意を得なければならない。

今の皇族方々と
変わりない状況だったのですね。

自分の思うままに生きられない人生。
悲しいかな。


しかし、
仏教が伝来してから、

天皇の寿命が
ますます短くなったように感じます。

何故でしょう。
疑問。

さて、
本日で用明天皇の条、
終了です。

用明天皇はどんな方だったのか、
思い出そうとしたのですが、

どうも印象が薄い。

物部守屋大連と蘇我馬子大臣
との対立しか覚えていない。

なんだかなぁ。

さて、
次の巻はどうなるのでしょうか。

次の巻もお付き合い、
いただけたら幸いです。

それではまた。

読んで頂き
ありがとうございました。


日本書紀・現代語訳。
2日ほどお休みします。


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