日本書紀 巻第三十
高天原廣野姫天皇 三
・天武天皇の崩御
・皇后による臨朝稱制
・大津皇子の謀反
朱鳥元年九月九日、
天渟中原瀛眞人天皇が崩じました。
皇后は、
臨朝稱制(りんちょうしょうせい)を
しました。
冬十月二日、
皇子大津の謀反が発覚しました。
皇子大津を逮捕し、
あわせて皇子大津に
詿誤(あざむ)かれた、
直広肆の八口朝臣音橿
(しゃくちのあそみおとかし)、
小山下の壱伎連博徳
(ゆきのむらじはかとこ)と
大舍人の中臣朝臣臣麻呂
(なかとみのあそみおみまろ)、
巨勢朝臣多益須
(こせのあそみたやす)、
新羅の沙門の行心(こうじん)、
及び帳内(とねり)の
礪杵道作(ときのみちつくり)等、
三十余人を捕らえました。
三日、
皇子大津は、
訳語田(おさた)の舍で
賜死(しし)しました。
時に、年は、二十四。
妃の皇女山邊は、
被髮(ひはつ)し、
徒跣(かちはだし)で、
奔赴(ほんぷ)し、
ここに殉(したが)いました。
見た者は、皆、歔欷(きょき)しました。
皇子大津は、
天渟中原瀛真人天皇の第三子です。
容はすぐれ、
御言葉は俊れ朗かでした。
天命開別天皇に愛され、
長じるにおよび、
辨があり、才學もありました。
もっとも文筆をこのみました。
詩賦(しふ)の興りは、
大津より始まりました。
・臨朝稱制(りんちょうしょうせい)
君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること
・賜死(しし)
死刑の一種。君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることを指すが、単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある
・被髮(ひはつ)
髪を結わないで、ばらばらに乱していること。 ざんばら髪にすること
・徒跣(かちはだし)
はだしで歩くこと
・奔赴(ほんぷ)
急におもむく。はせつける。急行する
・歔欷(きょき)
すすり泣き。むせび泣き
・詩賦(しふ)
詩と賦
(感想)
朱鳥元年9月9日、
天武天皇が崩御しました。
皇后は即位せずに政務を執りました。
冬10月2日、
大津皇子の謀反が発覚しました。
大津皇子を逮捕し、
あわせて大津皇子にあざむかれた、
直広肆の八口朝臣音橿、
小山下の伊伎連博徳と
大舍人の中臣朝臣臣麻呂、
巨勢朝臣多益須、
新羅の僧の行心、
および帳内の礪杵道作ら、
30人余りを捕らえました。
3日、
大津皇子は、
訳語田の舍で賜死しました。
時に、年は、24歳。
妃の山辺皇女は、
髪をふり乱し、
はだしで、はせつけ、
ここに殉死しました。
見た者は、皆、むせび泣きました。
大津皇子は、
天武天皇の第3子です。
容姿はすぐれ、
御言葉は俊れ朗かでした。
天智天皇に愛され、
年長におよぶと、
事をわきまえ、
才学もありました。
もっとも文筆をこのみました。
詩と賦の起こりは、
大津より始まりました。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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