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金色の鳶がなぜ、八咫烏に姿をかえたのか? 続☆48 2021-07-12

2023年11月16日 | 続☆歴史の中の「経緯」

県北雑学 (wainet.jp)

延岡市北川町八戸(やと) の国道326号八戸トンネル出入口に「八戸村」の文字が入ったレリーフがはめ込まれている。よく見ると「八戸村」の「八」は、2羽のカラスが向かい合った形になっており、その右下には「八咫烏」(やたがらす)の文字が浮き彫りされている。
 八咫烏は、日本神話に出てくる三本足のカラス。神武天皇が日向国美々津から船出して大和へ向かう途中、山また山の難路が続く熊野(和歌山県) で、最初に高天原に現れたとされる高木神(タカギノカミ=タカミムスヒノカミ)が、道案内役として遣わしたのが八咫烏。
 神武天皇は八咫烏の行く方へ軍を進め、熊野を抜け、吉野(奈良県)を通って無事に大和の橿原(かしはら)に着き、橿原宮で即位した。
 江戸中期の岡山の地理学者・古川古松軒(ふるかわ・こしょうけん)は、八戸から豊後国三重(豊後大野市三重町)に至る「梓越え」(あずさごえ)を、越後(新潟県)の「親不知」(おやしらず)、阿波(徳島県)の「大歩危小歩危」(おおぼけこぼけ)とともに「本邦三大行路難」、つまり日本の三大難所と評している。  そんなわけで、難所を控えた八戸の地に、旅人の守り神であり、道案内役の八咫烏信仰が起こったのだろう。  八戸トンネルのすぐ近くの旧国道脇に、八戸烏(やとがらす)を刻んだ石塔と、石塔の説明を書いた木柱が建っている。木柱には「烏をモチーフにしたこの碑は、元禄八年(1695)建立されている。ここ八戸は、日向・豊後と結ぶ国境の宿場。梓山国境越えは行旅の難所、熊野権現の使いで道案内の神とされる八咫の烏の信仰があったことがうかがえる」(原文のまま)とある。
 「八咫」が「八戸」に転訛したのかハッキリしないが、旅人は八戸の宿場を出発するとき、八戸烏(八咫烏)の石塔に難所越えの安全を祈願したことは確かだ。

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八戸(やと)を調べていて、見つけてしまった。

八戸を調べてたのは、何故だったか

代わりに忘れている。

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なので、八咫烏が、なんで、ここに居るの?

と、不思議に思えた。

八戸とは、なにかを調べていただろうと覚えているのは

八戸神社の神を数えたから。

戸なのだから、柱(神は、ひと柱・ふた柱・・という風に呼ぶ)に付き物だろうwww

で、神様の数を数えるために

まずは、コピー。

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少彦名命(すくなひこなのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
事解男命(ことさかおのみこと)
速玉男命(はやたまおのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
大神惟治霊神(おおがこれはるのみたまのかみ)
大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
丹生都姫命(にうつひめのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
豊磐牖神(とよいわまどのかみ)
櫛磐牖神(くしいわまどのかみ)

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八柱どころじゃないし・・

よく判らない、神もいるし

なんだか、欠けてる。

例えば、伊弉冉命(いざなみのみこと)がいるのに

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は無い。

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豊磐牖神(とよいわまどのかみ)
櫛磐牖神(くしいわまどのかみ)

だけが、一対と思われる。

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一瞬、天岩戸に関わる?

と、思ったのが

豊磐牖神(とよいわまどのかみ)
櫛磐牖神(くしいわまどのかみ)

戸があれば、窓もあろう・・・という

水平思考・・・

が、調べてみると

クシとトヨ -門神-:玄松子の雑記帳

「櫛石窓神・豊石窓神」は、また、忌部氏伝来の御門祭の祝詞では「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、 延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、 御殿の窓の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつらしい。

と、ちらりと見えた。

********

それに、天照にあたるのが、

大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)と、思われる。

ユダヤ系渡来人が闊歩する前の神社なのだろうか?

ーむしろ、出雲王朝?ー

おおなむち(大国主命)・・とか・・・の「むち」

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そこで、

クシとトヨ -門神-:玄松子の雑記帳

の中に進んでいった。

門神の信仰は、中国から来たもので、道教の影響だろう。

【門神】 門を守る神。南宋代の 『類説』巻六に引く南北朝時代の宗凛(そうりん)の 『荊楚歳時記』(けいそさいじき)に、「正月元旦に二体の 神を描いて戸の左右に貼る。左側が神荼(しんと)、 右側が鬱塁(うつるい)である。俗に門神という」と ある(現行本にはない)。
 唐代以後、さらに秦叔宝と胡敬徳も門神に なった。元代の『三教捜神大全』巻七に、「言 い伝えによれば、唐の太宗〔在位六二六~六四九〕は心 が休まらなかった。寝室の外で煉瓦を投げ瓦 をもてあそび、鬼魅が叫んでいた。……太宗 が群臣にそのことを話すと、秦叔宝が前に進 み出て、「……胡敬徳とともに武装して門の外 に立ち、警備にあたりましょう」と言った。 太宗がそれを許すと、その夜ははたして騒ぎ が起らなかった。……そこで、絵描きに二 人の像を描かせ、……後宮の左右の門に掲げ るよう命ずると、邪鬼の祟りはおさまった という。その後、代々踏襲され、ついに門神に なった」とある。
ー中略ー
 あるいは、「秦軍、胡帥」という字を書いて 戸に貼ることもある。
この二神は、「忍日・来目」だとか「櫛石窓神・豊石窓神」と言われている。
「忍日・来目」とは、高皇産霊神の末裔である、大伴連の遠祖、天忍日命と来目連の遠祖、天津久米命のことで、 『日本書紀』の一書に記されている、瓊瓊杵尊(ニニギ)の天孫降臨の時、先導した武神である。
『古事記』のこの場面、邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の場面では、随伴した神々の中に、 「…次に天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、 またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」 と「天岩戸別神・櫛石窓神・豊石窓神」が一柱の神として書かれている。

「櫛石窓神・豊石窓神」は、また、忌部氏伝来の御門祭の祝詞では「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、 延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、 御殿の窓の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつらしい。
 
*********
なんだか、余計にこんぐらがってきてしまった。
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まず、なんで八咫烏がいるんだ?
おまけに、
頭の中、整理がついていない。
子供のころに読んだ神武天皇の話では
金色の鳶だったのに、
いつのまにか?
八咫烏になっている。
*********
『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」「金の鳶」の正体は鳥トーテミズムと
太陽神信仰を併せ持つ天孫族

 神武侵攻のときには大和地方には「ヤマト原国家」ともいうべき部族連合体が作られ、その祭祀具が銅鐸とみられる。長髄彦(ながすねひこ)殺害の有無には異説あるが、その子孫は東西の二派に分かれて畿内から退散し、東へ行ったのは信州諏訪に落ち着き諏訪族となった。その祖神の建御名方命こそ、長髄彦の別名で、系譜は三輪の大物主神の弟である。西へ退散した一派は、四国南部の地域に勢力を長く保ち、阿波の長国造や土佐の土佐・波多両国造を出した。これら退散経路や遷住地には海神族祭祀や後期銅鐸の出土がある。

部族連合軍である長髄彦軍は強く、当初の河内でも大和でも、神武郡はおおいに苦戦した。そんな中、大和の鳥見の地にて、一羽の「金の鵄(とび)」が神武の弓の先に留まり、強烈な日明を発し照り輝いたので、賊軍の志気をおおいにくじいたという、いわゆる金鵄伝承である。戦前の金鵄勲章にも名を残すほどの大功であった。実は金鵄も動物の鳥ではなく、鳥トーテミズムと太陽神信仰を併せもつ天孫族の一員の表象であったから、これも神異とするにあたらない。

「金鵄」の実態について、早くに平田篤胤が「天加奈止美命」(「加奈」は金、「止美」は鵄の意味)の異名をもつ忌部の祖神・天日鷲命だと指摘した。私も検討の結果、ほぼ同様の結論(鴨県主の祖・八咫烏で、かつ忌部の首の祖・天富命)になった。京都の下鴨神社の社伝でも、「金鵄=八咫烏」とする。
 

関連していうと、神武天皇即位後の4年には、鳥見山の中に祭祀の場を築いて皇祖天神を祀ったと『書紀』に見える。『古語拾遺』には忌部氏の祖・天富命が御幣を用いて祝詞をのべ皇祖天神を祀り、これが忌部氏の祭祀菅掌の由来だと記される。この地は、宇陀市榛原という説もあるが、やはり金鵄の霊験があった桜井市外山(とび)の鳥見山であろう。当地には式内社の等弥神社があり、その境内からは八咫烏の像が出た。神社の旧地は、鳥見山中の斎場山だといわれ、祭祀用臼玉が多数出ている。同社に上ッ尾社・下ッ尾社があるのも鵄との関連を示唆する。

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むむむ?

名前の変転というのでなく、

金色の鳶がなぜ、八咫烏に

姿を換えてしまったか?

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『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。

ただし、『古事記』に金鵄は登場せず、神武東征の際に熊野から大和へ東征軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。金鵄と八咫烏が同一であるか、それとも別の存在であるかはっきりしないが、いずれにしろ日本建国に関わった霊鳥として、吉事や勝利あるいは建国の代名詞として使われ、特に大日本帝国時代には金鵄勲章をはじめ、意匠や名称が多方面で採用された。

また、平安時代から存続する賀茂神社においては、金鵄および八咫烏ともに、賀茂建角身命の化身とされており、この二つを合わせて「金鵄八咫烏」と呼び祀っている

霊鵄形大錦旛(れいしけいだいきんばん)は、天皇即位の礼に使用される大錦旛のひとつである。それには金色に輝く金鵄が刺繍されており、頭八咫烏形大錦旛(やたがらすだいきんばん)と対になっている。それらは、日(太陽)および月の象徴たる日像纛旛、月像纛旛の次に掲げられ、太陽や月に次ぐものとして極めて重用な位置に配置され、即位の礼でも重視されていることが窺い知れる。

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おおざっぱに言うと・・

日本書紀ー金鳶

古事記ー八咫烏

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で、なんで、八戸に、八咫烏がいる?

熊野権現の使いで道案内の神とされる八咫の烏の信仰があったことがうかがえる

それだけだろうか?

と、思っている。

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と、いうのが、

金色に輝く鳶というのが・・・

八咫鏡に照らされたのではないか?

東に進んでいて

八咫鏡で太陽を照り返して

弓の意匠 矢羽根に鳶の羽を使った?

神武天皇の姿を光り輝かせたとき

弓の先の鳶の羽が、一番最初に光り輝いた?

金色の鳶が出た========と、

違うかwwww

そして、八咫烏

これは、黒色。闇・・方向なのと

三本足・・・なのとで・・・

それに、比定するものを考えてしまう。

*********

ズバリ!!

八咫鏡を支えた三脚と鏡を覆う黒い布

左右に開かれるように覆っていた。

これも、考えようによっては、

豊磐牖神(とよいわまどのかみ)
櫛磐牖神(くしいわまどのかみ)

で、なかろうか?

八咫鏡は1咫が約15cm~18cm

110cm~144cm

これだけのものを持ち歩いて

(どうやって、持ち歩いたか)

かつ、三種の神器なのだから

使う?となったら、

恐れ多く、

三脚神(八咫烏)に置いて・・・と思われる。

そして、ぺかぺか、光らせながら持ち歩くことは考えられない。

ご神体なのだから、なにかで覆う。

(御簾のような感覚)

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つまり?

この話は、ウガヤフキアエズ王朝が

阿蘇大噴火後、奈良(大和)に移ったときの話で

三種の神器を携えていたと考える。

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八咫鏡を支え、守った?八咫烏(三脚神)が

後々、

倭王朝に、三種の神器とともに、受け継がれ

天皇を支え・護る一族(思想)になったと思う。

*******

 

 

 

「櫛石窓神・豊石窓神」は、また、忌部氏伝来の御門祭の祝詞では「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、 延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、 御殿の窓の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつらしい。

クシとトヨ -物部と蘇我-:玄松子の雑記帳 (genbu.net)

『物部氏』
 ニギハヤヒを祖神とし、石上神宮を氏神とする物部氏は、古代、北九州の遠賀川河口近く(筑紫:チクシ)から河内・大和へと移住してきた氏族らしい。 『和名類聚抄』などでは、北九州一帯の地名と、河内・大和の物部氏族称との一致が見られることで、それは史実であるようだ。

 『旧事紀』では、物部氏祖神ニギハヤヒは、「天照国照日子天火明奇甕玉饒速日尊」と表記されている。クシミカタマニギハヤヒだ。 このニギハヤヒを祀る式内社に、奈良県大和郡山市の矢田坐久志玉比古神社がある。ここでは、クシタマとなっているが同じ神だ。 クシを用いる神名は他にも多くあるので、この点だけで「クシとトヨ」のクシと断定はできないが、面白い。


『蘇我氏』
 古代、物部氏を凌駕した蘇我氏は、武内宿禰の子・蘇我石川麻呂を祖とするが、その出自には謎が多い。 仏教擁護の蘇我氏(馬子)が用明天皇の面前で「詔に随いて助け奉るべし。たれか異なる計を生さむ」と言った時、 皇弟の穴穂部皇子が豊国法師なる人物を引いて内裏に入ってきたという記録がある。

 この豊国法師とは、豊の国の法師であり、豊の国では、正式に百済から仏教が入って来る以前から仏教が伝わっていたと思われる。 つまり、豊の国は、当時、文化的先進地域であった。
 また、用明天皇の名前は「橘日(タチバナノトヨヒ)」といい、豊後地方に用明天皇に関わる「炭焼き長者」伝承も残っている。

さらに、蘇我氏が絶頂期にあった六世紀~八世紀の天皇家には、

御食炊屋天皇(トヨミケカシキ:推古)
聡耳(トヨサトミミ:聖徳太子)
財重日足天皇(アメノトヨタカラカシヒ:皇極、斉明)
天万日天皇(アメノヨロズトヨヒ:孝徳)
天之真宗祖父天皇(ヤマトネコトヨオオジ:文武)
日本根子天津御代国成媛天皇(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ:元明)
天国押開桜天皇(アマクニオシハラキトヨサクラ:聖武)など

多数の天皇・皇后・皇子の名に豊の字が用いられている。澤田洋太郎氏は、この「豊王朝」を「蘇我王朝」と見ている。蘇我氏と豊の国の関係は良くわからないが、 仮に蘇我=豊(トヨ)だとすると、物部=クシと関連し、非常に興味深い。

古代の二大氏族である「蘇我」「物部」は、平安期にはすでに衰退していたわけだが、 これら強大な氏族を、まるで水戸黄門の助さん・格さんのように従えることにより、天皇の祖神の偉大さを称え、 現天皇(平安期)の絶大な権力を示す、絶好のプロパガンダではないだろうか。

-参考文献『ヤマト国家の成立の秘密』-


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