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天日鉾の持ち物  (覚書)歴史の中の経緯・73

2023年10月30日 | 歴史の中の「経緯」

久しぶりに、歴女ならぬ歴婆になっております。

AUDIOのほうは、

立て続けにWADIA6SPIRIT(改)blueがはいってきていて、

リピーター様、快く追加改善を行われる・・・

やはり、性能が上がると音質も上がるという

OH~音質改善~改(アルミVRDS円盤換装=初期のころは音質改善後でも、換装していた。)

と、いうOH/改善・改造で、論より証拠・・

良くなった。と、実感されていらっしゃるのだと思う。

それが、さらに良くなる・・・と、なれば、

施工したいとなるのだろう。

すでに、初めにそれ相当の代金をだして、やってみようと思ってくださったのも

ありがたいことだけど・・

さらなる、追加をあっさり、行おうというその信頼が、

嬉しい。

 

と、AUDIOの話ではなかった・・・・

超古代ミステリー5:世界の謎の碑文は神代文字で読めるのだ!つまり日本語だった!

の、中の一文。

高橋良典氏は、日本探検協会の面々とともにまずエジプトのスダース王碑文の解読に出かけ、そこで予想通り見事に解読。その事実から(つまり、超古代アフリカ北部の岩窟文字が超古代の神代文字の応用で解読できたという事実から)、この民族である「超古代黄色人種のクル族」が超古代エジプト文明を生み出したと考えた。

 

クル族?

カラ族の文字でめざせ!世紀の大発見 カラ族とは原日本人!太古の地球を平和に治めた神々だった!!

カラ族?

わけがわからんというか、分類が????状態で探してみると

超古代ミステリー4:ヒエログリフの謎「神聖文字か神代文字か?」

(このタイトルのKARA族は紛らわしい。実際にはカル(CALU)族または クル(CURU)族である。現代の韓国人が韓国をカラ(KARA)、北朝鮮人が北朝鮮をコクリョ(KOKRYO)と呼んでいるため、古代の日本人をカラと呼ぶのは超誤解を生む。是非避けたい。そして、嫌韓の時代には不適切。このタイトルではこの本は売れないだろうナア。「クル族の文字でめざせ!世紀の大発見 クル族とは原日本人!太古の地球を平和に治めた神々だった!! 」とすべきだったヨ。)

 

ふむむ・・・

少し、理解したが(なにせ、脳みそ小さい)

カラ族で、考えたのは、現代でなく、

*******

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/4a36eddf70c38216c75e26f0b99bf3aa

「日本書紀」垂仁天皇2年の条に、「一書にいわく」、という形で次のような記述がある。

「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越の国に泊まれり。
彼、そこを名づけて“角鹿”(つぬが)という」

これによると崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって「越の国」に着いたという。

その人物に角が生えていたことから、この場所を“角鹿(つぬが)”→“敦賀(つるが)”と呼ぶようになったというのである。

どこからやってきたのかを問うと、「おお加羅国」の皇子で、名は「ツヌガアラシト」であったという。

日本に聖君がいると聞きつけて、こうして帰化しに来た、と語ったことが記録されている。

一説にはこの人物が王子であったところから、王家出身のしるしとして冠をかぶっていたのではないか、

あるいは「ツヌガアラシト」という名称が、“角のある人”と聞こえることから起こったとも言われるが、これは素直に“鬼”と解するべきであろう。

ツヌガアラシト個人だけではなく、「加耶」という国の有り方自体に“鬼”をめぐる問題が隠されていたためである。

******

気になるところで、ちょん切ってしまったが・・・

ここに、「おお加羅国」の皇子で、名は「ツヌガアラシト」であったという。

つまり、加羅族?

カラ族????

越の国にやってきた・・・

ここも、応神天皇とのかかわりがある。

気比神宮である。

敦賀に在る。

 

ホツマツタエだったと思うが

ウガヤフキアエズが敦賀に居た・・というくだりがあったとおもう。

そして、

人物でなくウガヤフキアエズ王朝の中で

饒速日の生まれ変わり?といわれる人がいたとおもう。

と、少しふっておいて・・・

つぬがあるしと、に、ついては

氣比神宮福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする。

また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社はその政所跡であるとし、

現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている。

ところが、この「つぬがあるしと」と全く同じような話がある。

天日槍である。

垂仁天皇3年条

日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、

  • 羽太の玉(はふとのたま) 1箇
  • 足高の玉(あしたかのたま) 1箇
  • 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
  • 出石の小刀(いづしのかたな) 1口
  • 出石の桙(いづしのほこ) 1枝
  • 日鏡(ひのかがみ) 1面
  • 熊の神籬(くまのひもろき) 1具

を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。

同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、

  • 葉細の珠(はほそのたま)
  • 足高の珠
  • 鵜鹿鹿の赤石の珠
  • 出石の刀子
  • 出石の槍
  • 日鏡
  • 熊の神籬
  • 胆狭浅の大刀(いささのたち)

を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守を儲けたという。

また、こうも・・・

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

  • 珠 2貫
  • 浪振る比礼(なみふるひれ)
  • 浪切る比礼(なみきるひれ)
  • 風振る比礼(かぜふるひれ)
  • 風切る比礼(かぜきるひれ)
  • 奥津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)

 

後述の『古事記』では、比売碁曾社(比売許曾神社)の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承として記述されるが、『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承として記述されている。

 

と、いうことは、つぬがあらしと と、天日鉾 は、同一人物で、

天日鉾の持ち物をみると、

なんとなく、饒速日の十種神宝を思い起こさせる。

十種神宝の内容は以下の通りである。

  • 沖津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)
  • 八握剣(やつかのつるぎ)
  • 生玉(いくたま)
  • 死返玉(まかるかへしのたま)
  • 足玉(たるたま)
  • 道返玉(ちかへしのたま)
  • 蛇比礼(おろちのひれ)
  • 蜂比礼(はちのひれ)
  • 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
少なくとも、二つは同じ名前。
  • 沖(奥)津鏡(おきつかがみ)沖と奥の津は同じ意味では?
  • 辺津鏡(へつかがみ)
*****
つぬがあらしと は、饒速日だった?
饒速日は カラ族だった?
 
そこで、ふったところに戻る。
 
ウガヤフキアエズ王朝の中に 饒速日が居た。
ウガヤフキアエズ王朝の人物 -ウガヤフキアエズ人?-は敦賀に居た。
あるいは、それが饒速日?
 
ウガヤフキアエズ人はカラ族だった。
 
これを、オオカラの王子というのを?
オオ加羅の王子とした。
 
と、いう名前を読み解くと
都が荒れて(恐ろしい事になって)私は心を痛めているがどうしようもない(だから逃げてきた?)
と異訳できる。
この都をカラ族・ウガヤフキアエズ王朝だと考えると
この恐ろしいことは、鬼界が島の大噴火?
あるいは、政権争い?
(海幸彦・山幸彦にあたるウガヤフキアエズ王朝の人物?)
九州の部族との抗争?
 
いずれにせよ、
もしも、そうならば、
饒速日とつぬがあるしと の話を
別々に書かなければならなかった意図はどこに在るのだろう?

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