氏は、崇神天皇の別名「御間城入彦」「御間城天皇」のミマキに注目し、「ミマキ天皇」とは、
「ミマ」の宮殿に居住した天皇であるとしている。
そしてミマこそ南鮮にあった「任那」だというのである。
即ち日本の天皇家の始祖は任那から来たということになる。
ここも引っかかっていたことを思い出した。
隠し言葉ではないか?
と。
みまきは、三輪大神 (大物主)の隠し言葉ではなかろうか?
若者(大物主)の正体を探ろうと、糸を付けた針を衣装にさしたところ、
三輪の糸がなくなった。と、いうことで
三輪=三巻=大物主
大物主に信心する。大物主への信仰に入る。
と、三巻入
音で読んで、一文字ずつを当てはまる音にするとなると
あるいは、
みわき入りだったかもしれない。
三輪の「気」(考え・精神)に入る
これをそのままの漢字にすると都合が悪いので
「御間城入」に替えた?
そうなると、卑弥呼の鬼道をよくし、人民を惑わし・・
の鬼道・・は、「キリスト教?」
*****
あ、
応神天皇は、いざさわけに
「ナをかえよう」と、言われていた。
これ、すなわち?
饒速日=いざさ
いざさわけ=分け=分霊的なもの
「なをかえる」=洗礼名をもらう?
ガド族の王「応神天皇」は、宇佐の地において、再臨したイエス・キリストから洗礼を受け、原始キリスト教徒に改宗したという。
違う点は
敦賀か宇佐か・・・
ガド族の王「応神天皇」は、宇佐の地において、再臨したイエス・キリストから洗礼を受け、原始キリスト教徒に改宗したという。
事実を隠蔽した?
いざさわけ(気比大神)に、なをかえようといわれた。
細かく紐解き、すっぱり、組み合わせると
応神天皇は、キリスト再臨(饒速日)から洗礼を受けた。
*******
とは、書けないよねえ。
そこで、投入したのが、
神功皇后と竹内宿祢
********
事実は良く語られている
素戔嗚と卑弥呼の夫婦説
(卑弥呼=神功皇后である説)
双方とも原始キリスト教徒だった?
で、あれば、
応神天皇がいざさわけから洗礼をうけたとしておかしくない。
**********
それも、書けないよねえ。
しかし・・・
大物主が饒速日であるのなら、
少なくとも、
天皇家(血筋ではなく)は朝鮮・中国系ではない。
が、ユダヤ系とみなしきるには
まだ、ウガヤフキアエズ王朝の経歴がどうなっているか
判らないところがある。
*******
日本書紀でなく、古事記を読めといわれたわけが少し、見えてきた気がする。
崇神天皇
- 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 御間城天皇(みまきのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 御間城尊(みまきのみこと) - 『日本書紀』
- 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
- 御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
- 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
御眞木を、御間城にしたのは、いかにも、崇神天皇が渡来系であると見せたかったと、いう事かもしれない。
では、御眞木とは?
御真木国は岡山県内にあり、崇神天皇・垂仁天皇は岡山県におられた。 | 千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
御真木国は岡山県内にあり、崇神天皇・垂仁天皇は岡山県におられた。
1 崇神天皇の和風諡号は古事記では御眞木入日子印恵命である。「御眞」は形容詞でありそれを取ると、木入日子となり、皇居は師木(東郷池周辺)にあるから、崇神天皇は御真木国の生まれで、御真木国から東郷池周辺「に来られた」、としていた。また、垂仁天皇も師木(東郷池周辺)玉垣宮に居られたのだから、和風諡号「伊久米伊理毘古伊佐知命」(イクメイリヒコ)より、岡山県の久米地方から東郷池周辺「に来られた」としていた。
しかし、この「入」の意味は御真木国に入る、あるいは、久米地方「に入る」という意味であった。皇居は東郷池周辺にあるが、出先は御真木国(岡山県)久米地方(岡山県)「に入った」、ということである。大国主が逃れた木国は鳥取県智頭町にあった。大国主は御真木国から根堅洲国(鳥取県倉吉)のスサノオを頼ってこられた。
2 崇神天皇は吉備津彦であったから、倭の大乱終結後もそのまま岡山県に居られたのである。姉の卑弥呼は三重県の志摩国を邪馬台国とし鳥羽の伊射波神社に居られたから、どちらからも行き来をするときは、奈良経由で、奈良で会われたり、神戸で会われたり、岡山で会われたりしておられた。
崇神天皇が大田タネコ(伯耆国の田中神社の祭神)をみつけてきて大物主を祀らせた三輪山は鳥取県北栄町の三輪山である。紀元192年頃で奈良の纏向はまだできておらず、後の奈良の三輪山もこの時はまだ祭祀は行われていなかった。出雲(殷王朝の末裔と秦王国の家来が建国した)・吉野ヶ里(殷王朝の末裔)の祭祀方法は、止めさせなければならなかった。崇神天皇は岡山県で新たな祭祀方法を考えられた。それは、始祖から伝わる道教に基づくものであった。
崇神天皇の時代(186年~)から、鳥羽との行き来が面倒であるので、奈良の纏向に祭祀場を築造したものと思われる。
吉備津彦(第10代崇神天皇)・吉備武彦(第9代開化天皇・崇神天皇の双子の弟である倭健命)関連の墳墓は瀬戸内の海岸近くにあるようだが、「御真木国」は津山市あたりではないだろうか。
3 第10代崇神天皇の活動拠点「御真木国」は津山市の中山神社周辺にあったものと思われる。
津山市に中山神社があるが、ここにいた猿は出雲出身の青銅器文化の一族と思われる。鬼と同じ一族である。卑弥呼、吉備津彦、吉備武彦たちはこの猿を平定した。平定した後、吉備津彦(崇神天皇)は中山神社に活動拠点を置いたのかもしれない。
*********
大田田根子(おおたたねこ)は『記紀』等に伝わる古代日本の人物。
『古事記』では意富多多泥古命。大神神社では大直禰子命としている。
「オオ」は「大」で美称、「ネコ」は尊称を意味し、難波根子建振熊命や古代天皇の和風諱号に散見される。
「タタ」は「田」の意味かと推測されている。
大田田根子(おおたたねこ)ー「オオ」は「大」で美称、「ネコ」は尊称を意味=田田
田は口中十内とも読む。
このことから、十=十字架ではないかと思えてきた。
崇神天皇は 原始キリスト教(とりあえず、そう呼んでおく)での祭祀をとりおこなったのではなかろうか?
なので、実際の人物をいうのでなく、
祭祀の方法を、大田田根子という名前に隠したのではなかろうか?
*********
そして、藤原氏が何のために改ざんしたのかというのが、まだ、見えない。
見えないながら、よく見てみると
『日本書紀』を編纂した中心人物・藤原不比等
不比等・・・この名前から妙である。
等しく比べない。(ゆがめてる)
こんな名前で、編纂してますと、するのが、変だと思う。
(文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある)
ーーこれは、むしろ、史(ふひと)が本来で
不比等・・・等しく比べない。(ゆがめてる)
と、誰かが揶揄したのではなかろうか?
文字にしないかぎり、音(声)だけなら、
どちらも、「ふひと」でしかない。
おかしなことをしている、と、感じた人間がいたということであり、
政治の面でも、そうだったようで・・・
日本書紀編纂の改ざんで、そう呼ばれたわけではなかろうと思うが・・・・
******
黒船が来た時も、
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」
上喜撰は、蒸気船とかけたものだが、
上喜撰は選りすぐった良いお茶のこと。
ペリー艦隊の黒船が横須賀・浦賀沖に来航した嘉永6(1853)年6月当時の江戸幕府の混乱ぶりを風刺した狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」が、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡がこのほど、東京都内で見つかった。この狂歌は関連史料が明治時代までしか、さかのぼれなかったことから「明治人の作ではないか」との説が10年ほど前から出され、最近ではほとんどの教科書から消えていた。発見者は、新史料によって旧来の説が正しかったことが裏付けられたとしている。
教科書から消えた風刺狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰」、黒船来航直後のものと裏付ける書簡発見 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)
落語などもそうだが、日本人は、どうも、狂歌じみた言葉のやりとりを日常にしている。
侍と喧嘩した町民が切る啖呵。
「二本差しが怖くて、田楽が食えるか!!」
民衆?の中から
史(ふひと)? 冗談じゃないぜ。不比等の間違いだろ。
の声がでてきて、通称になり、不比等になったんじゃなかろうか?
が、そうだとしたら、
不比等と書記の中に書かれていたら(調べ中)
不比等(もしくは、その支持者)から、訂正しろといってきてもよさそうである。
と、なると
書記を編纂した者(改ざん?)が他にいると考えられる。
**********
とりあえず、藤原氏が改ざんしたとして、
元になった「話」がどこかにあると思う。
その元になった話を、探し当てることにより
どこが、改ざんされて、どう改ざんされたか
みえてくることで、
逆に、藤原氏が何を目的にして、
改ざんしたかが判る。と、思う。
だが、その元の話が、つかみきれない。
************
そして、藤原氏が改ざんしていく目的のひとつに、
藤原氏が
ウガヤフキアエズ王朝の血筋をもっているからかもしれない。
と、おもえたのが、
別途、邪馬台国は、人口爆発が起こった場所。 - 卑弥呼と魏志倭人伝 (xhimiko.com)
ここを読んでいると、藤原氏が曽我氏を呪っているようなwww
その理由は判らないけど、なにか、訳あり・・と見えてくる。
すると、
小野田寛郎さんのルーツから判明した海部氏の正体 - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
その中に、
◆東遷から約100年後の2世紀(倭国大乱)、この平和な和歌山に、秦氏が擁立した渡来人の神武天皇(ヒダカサヌとは別人)が攻め込んで来ます。
むむむ?
曽我氏でなく、秦氏?
景行天皇が滅ぼした「土蜘蛛族」とは、ウガヤ王朝の本体だった。 - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
さて、日本書紀を編纂したのは藤原不比等ですが、彼は自分の祖先である中臣氏が滅ぼされた経緯を、涙を流しながら綴ったに違いありません。
あまり詳しく書けば、ときの天皇ににらまれてしまいますから、ごくごく短く、さらりと後代の人に伝わるように、暗号として残したのではないでしょうか?
あるいはこのとき既に、帰化人のニセ藤原氏が「日本書紀」を書いていたのかもしれません。
(藤原氏に関する私の考察はこちら)
********
帰化人のニセ藤原氏が「日本書紀」を書いていたのかもしれません。
*********
不比等と書記の中に書かれていたら(調べ中)
不比等(もしくは、その支持者)から、訂正しろといってきてもよさそうである。
と、なると
書記を編纂した者(改ざん?)が他にいると考えられる。
これは、大当たりだったということになるか。
**********
藤原氏のルーツがウガヤフキアエズ王朝・九州ととれるところもあり
妙に、帰化人(アジア系・朝鮮・中国)に肩入れするし
さっぱり、判らなくなっていたところがあった。
**********
が、
さて、日本書紀を編纂したのは藤原不比等ですが、彼は自分の祖先である中臣氏が滅ぼされた経緯を、涙を流しながら綴ったに違いありません。
あまり詳しく書けば、ときの天皇ににらまれてしまいますから、ごくごく短く、さらりと後代の人に伝わるように、暗号として残したのではないでしょうか?
あるいはこのとき既に、帰化人のニセ藤原氏が「日本書紀」を書いていたのかもしれません。
********
ならば、さっぱりわからない部分を、真・不比等編纂と偽・不比等編纂に識別して考えられる。
************
だが、ここは、判らない。
崇神天皇が大物主を祀ったのを、快く思わなかったのは
二手に考えられる。
中国系帰化人が蛇神を祀った。
と、とった。
もうひとつは、
饒速日を祀ったので面白くない。
**********
中国系帰化人が蛇神を祀った。
これは、真・不比等編纂であろう。
饒速日を祀ったので面白くない。
偽・不比等編纂。
どちらにも取れる部分で、ある。
**********
ガド族の王「応神天皇」は、宇佐の地において、再臨したイエス・キリストから洗礼を受け、原始キリスト教徒に改宗したという。
違う点は
敦賀か宇佐か・・・
ガド族の王「応神天皇」は、宇佐の地において、再臨したイエス・キリストから洗礼を受け、原始キリスト教徒に改宗したという。
事実を隠蔽した?
いざさわけ(気比大神)に、なをかえようといわれた。
細かく紐解き、すっぱり、組み合わせると
応神天皇は、キリスト再臨(饒速日)から洗礼を受けた。
*******
とは、書けないよねえ。
そこで、投入したのが、
神功皇后と竹内宿祢
********
これは、偽・不比等編纂だろう。
一方で、
卑弥呼を神功皇后で隠しているようにみえるのだが・・・
実際、魏志倭人伝、どこまで信ぴょう性があるのだろうか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます