☆Lorosae(太陽が昇る)ブログ☆

ロロサエという言葉は、東ティモールで使われているテトゥン語で、つまりは「日の丸」です。

たかたのゆめちゃんの陸前高田市に行ってきました6

2014-10-06 14:19:00 | 旅行
たかたのゆめちゃんの呟きで知ったカップラーメンがあります。

それは、陸前高田市の坦々麺と大船渡市のサンマ出汁のラーメン屋さんが融合したラーメンでした。

盛岡に遊びに行ったときは必ず3つは買って帰りました(持って帰られる最大量でした)

すごく美味しいけど、お店の場所もよく分からないし、いつか行けたらいいなとしか思えていませんでした。

でも、今回、行けます。

街の中でも外食できる場所はまだ少ないのと元からの人気店ということで混雑が予想され、早目に時間をとってくれました。

大きい駐車場に、スーパーがあって、ゆめ商店街という、バラックやコンテナ(?)を店舗にしているお店が並んでいます。

道路をはさんだ先に、目的の坦々麺屋さんはありました。

黒坦々麺と、水餃子を食べて、それから、文房具店に行ってみました。

たかたのゆめちゃん関連、奇跡の一本松関連のお土産も売っていたのですが、並んでいる商品どれも可愛くて、
市民の方になりきって、普通の文房具を買うことにしました。

来年のカレンダーと、小さいキイロイトリのヌイグルミです。

それから、しばらくぶらぶらして、お土産屋さんに移動したとき、また葉菜さんが来てくれました。

このツアーに参加して、すごく迷ったのが午後2時には解散しているのですが、足をのばせば大船渡にも行ける、
うまくいけば南リアス線にも乗れることでした。

主催されてる方に相談したら、行き方を教えてくれました。
そうしたら、偶然、葉菜さんが里帰りしていました。

この場所でゆめちゃんは撮れなかったけど、このあと、みてみたかった場所をいっきに駆け抜けることになります。

つづく
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たかたのゆめちゃんの陸前高田市に行ってきました5

2014-10-06 14:09:57 | 旅行
話を聞いている途中、前回、あまちゃんサミットと連動した久慈ツアーと、
更にその前、大阪は梅田あまロス展でのあまちゃんオフ会で出会った葉菜さんが連絡をくれて、気仙大工左官伝承館まで来てくれました。

葉菜さんは陸前高田市の御出身で、青春時代を気仙エリアで過ごされたそうです。



葉菜さんは一度ご実家に戻られて、そして、ここにもゆめちゃんが来てくれました☆

穏やかな広田湾が見える風光明媚な空間のなか、ゆめちゃんが好きで集まった人と、ゆめちゃんと、
それから偶然訪れた観光の方とで、記念写真を撮ったり、お土産を買ったり

そして、ゆめちゃんに見送られて、次の場所へ。



すぐそばは海なのですが、道の駅があって、この文字のそばまで津波の波が届いたそうです。







追悼施設はこの道の駅の駐車場にありました。

そばには、岩手県の歌人、石川啄木の歌碑が建てられています。

このあとは、オレンジのたかたのゆめちゃんグッツ入手やお昼を食べるため、商店街に移動します。

つづく
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たかたのゆめちゃんの陸前高田市に行ってきました寿

2014-10-06 13:49:51 | 旅行


話がだいぶん前後していますが、この、気仙大工左官伝承館に行く途中、マスカットサイダーの工場、みました!
マスカットらしき植物が育っているのも、バスの窓から見ました。

で、伝承館で飲んでみました。初めてです。

ちょっと強めの炭酸でおいしいです。
キラりんサイダーももちろん売ってます。

語り部の方のお話をきいて、行政の重要さ、任務の重さを強く感じました。

陸前高田市は、何度も津波の被害に遭ってきた地域なのだそうです。
チリ沖で発生した地震による津波を想定した防災と、その前の地震による津波を想定した防災とで、
街づくりに対する考えがかわって、防波堤ができたことで、海の間際に街ができあがっていったこと。

みんなの声を行政にいかしたことで、高齢者や足の不自由な人が集まりやすい海辺の公民館が避難所になっていたこと。

学校そのものに台所などの調理場がないのに、避難所になっていて、お湯をわかすこともできなかったこと。

学校のマニュアルでは、保護者に連絡をとって、迎えが来るのを待つという対策ができていて、その為親子で被害に遭った例が多発したこと。

校庭に集められたまま被害にあった学校もありました。

また、学校によっては、校長先生の判断で、高台に避難したところ、海洋関係の仕事経験がある方に、「この高さだと子どもたちに波しぶきがかかるかもしれない」と言われ、更に高いところに避難しなおしたことで無事だったこと(津波の二度逃げと言うそうです)

子ども達を山に避難させるとき、高学年から先に行かせて、山道を整備し、低学年を迎え無事だった例。(※この話はバスの中で岩手県交通の方から聞いた話だったと思います。)

それとは別に、子ども達が、山で怪我をするかもしれない、大地震のあと、土砂が崩れるかもしれないと、川沿いに海の方の避難所に向かって被害に遭ったこと。

海の真横の高台に逃げた方が無事であったのに、波から遠くに行こうとして波にのまれる方が多かったこと。

それまでの消防団の規則に「撤退せよ」という文字がなかったため、職務遂行のため、水門をしめに行きほとんどの方が犠牲になったこと。

まだみつかっていない200人という数字ひとりひとりが、知り合いで辛いという言葉。

先日沖縄の人がきて、科学の進歩というけれど、毎年来る台風の進路すら変えられないのだ(同じように津波を止められることもできないから、うまく付き合うしかない?)と言われたという話。

この日はとても晴れていて、蝶々は蜂がごきげんでした。

綺麗に掃き清められている庭園には、阪神大震災を経験した神戸からの灯が、灯篭の中で揺れています。

つづく
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