21日の早朝に叔父から電話をもらって知った。
故郷の一人が天国へ行かれた。
母の兄の奥様だから、80歳近い。
長生きをしたといえばそう。がん治療をされていたようだが、入浴中に亡くなったらしい。
死について意識をもっているので、先に天国へ行かれた、という感覚なので、さよならという気持ちは無い。
親に対しても、昔お世話になった方でも、もし寿命がきて天国へ行かれても、また会えるよね、この世でお会いできてよかったというような、あっさりとした気持ちでいる。
とは言っても、友人で多くの人たちに尽力されて疲労が原因のような亡くなり方をされて、育ち盛りの家族を残されて無念だったろうなあという方のお通夜では、号泣した。
もっとお話して、「無理しないでくださいね」と言うくらい、しておけば良かったという後悔が涙を大量に流させた。
昨日のこのブログでも書いたが、いつ死ぬか、最終的な老いをどんな形で迎えるか、わからない。老いの状態は、ある程度どんな生き方をしたか、が影響するかもしれない。
アルツハイマー認知症の母は、手先が器用で多くの友人と明るく交流して仕事もよくしてきたが、糖尿病が悪化して現在の病気になったようだから、やはり気をつけないといけない。
おっと、今日は、おばの思い出話をしたいのだった。
母の実家というか、母の父は、九谷焼の絵師だったようだ。
私が物心ついた時には、引退して静かに居間でタバコをふかしていた。
でも芸術の仕事をしていた風情ある姿だったとフラッシュバックする。
遠い親戚に九谷焼の窯元らしいから、由緒ある家柄だった。
大きな屋敷で、日本の芸術品の置物や高価な欄間がふんだんに盛り込まれていた。
そんな家柄にふさわしいおば。
乳母に育てられたお嬢様だったらしい。
家事はしたことなかったようなので、家事をしているのを見たことがない。
私たち親戚が、お盆とお正月にその家に集まって一泊宿泊するが、夜は仕出し屋さんからの料理、朝は母たちの女性陣が朝食を作って食べるのが常だった。
そんなお嬢様のおばでも、私たちには優しくよく笑っておられた。
母は個性が強くアネキタイプで、親戚中の発言リーダーで親戚が集まると母の強気の発言を皆で笑って、とても良い兄弟姉妹の間柄だった。
そのおばには、息子ふたりがいて、その下に私が成長していき、少女から女性になっていくファッションを見ては、目を細めて嬉しそうにしていた。娘が欲しかったと言っていた。
可愛がってもらった記憶に感謝している。
私は東京へ上京し、学生時代、好きな分野に就職をしていた。
ある時、毎年夏休みに日本中をオートバイで旅行している話をしていた時、そのおばから一言「うらやましい」と小さい声が聞こえた。
昔は、女性が上京したり、職を選ぶこと、そして、オートバイに乗ること、それも一人で旅行すること、など想像しないことだっただろう。
それに、その家では、母の兄の一人が、通勤途中のオートバイ事故で亡くなって、オートバイに乗ることは厳禁だったのだった。それを知らず事後報告でオートバイ免許を取ってオートバイで帰省した際の母の驚きと狼狽は、今になってわかる。
おばもこの娘はオートバイを乗り回し、別世界に行ってしまったと思ったことだろう。
今なら、おばの気持ちが少し想像できる。
子供をもったから、心配はするよね。
でも、自由にさせてくれた、母に感謝だし、オートバイでおばに会いに行ったときも、驚きながら「気をつけて」と見送ってくれた思い出を大切にしたい。
おばの育ちの良さからくる、優しい笑顔の姿を忘れないでいよう。
おばさん、優しくしてくれてありがとう。
感謝
故郷の一人が天国へ行かれた。
母の兄の奥様だから、80歳近い。
長生きをしたといえばそう。がん治療をされていたようだが、入浴中に亡くなったらしい。
死について意識をもっているので、先に天国へ行かれた、という感覚なので、さよならという気持ちは無い。
親に対しても、昔お世話になった方でも、もし寿命がきて天国へ行かれても、また会えるよね、この世でお会いできてよかったというような、あっさりとした気持ちでいる。
とは言っても、友人で多くの人たちに尽力されて疲労が原因のような亡くなり方をされて、育ち盛りの家族を残されて無念だったろうなあという方のお通夜では、号泣した。
もっとお話して、「無理しないでくださいね」と言うくらい、しておけば良かったという後悔が涙を大量に流させた。
昨日のこのブログでも書いたが、いつ死ぬか、最終的な老いをどんな形で迎えるか、わからない。老いの状態は、ある程度どんな生き方をしたか、が影響するかもしれない。
アルツハイマー認知症の母は、手先が器用で多くの友人と明るく交流して仕事もよくしてきたが、糖尿病が悪化して現在の病気になったようだから、やはり気をつけないといけない。
おっと、今日は、おばの思い出話をしたいのだった。
母の実家というか、母の父は、九谷焼の絵師だったようだ。
私が物心ついた時には、引退して静かに居間でタバコをふかしていた。
でも芸術の仕事をしていた風情ある姿だったとフラッシュバックする。
遠い親戚に九谷焼の窯元らしいから、由緒ある家柄だった。
大きな屋敷で、日本の芸術品の置物や高価な欄間がふんだんに盛り込まれていた。
そんな家柄にふさわしいおば。
乳母に育てられたお嬢様だったらしい。
家事はしたことなかったようなので、家事をしているのを見たことがない。
私たち親戚が、お盆とお正月にその家に集まって一泊宿泊するが、夜は仕出し屋さんからの料理、朝は母たちの女性陣が朝食を作って食べるのが常だった。
そんなお嬢様のおばでも、私たちには優しくよく笑っておられた。
母は個性が強くアネキタイプで、親戚中の発言リーダーで親戚が集まると母の強気の発言を皆で笑って、とても良い兄弟姉妹の間柄だった。
そのおばには、息子ふたりがいて、その下に私が成長していき、少女から女性になっていくファッションを見ては、目を細めて嬉しそうにしていた。娘が欲しかったと言っていた。
可愛がってもらった記憶に感謝している。
私は東京へ上京し、学生時代、好きな分野に就職をしていた。
ある時、毎年夏休みに日本中をオートバイで旅行している話をしていた時、そのおばから一言「うらやましい」と小さい声が聞こえた。
昔は、女性が上京したり、職を選ぶこと、そして、オートバイに乗ること、それも一人で旅行すること、など想像しないことだっただろう。
それに、その家では、母の兄の一人が、通勤途中のオートバイ事故で亡くなって、オートバイに乗ることは厳禁だったのだった。それを知らず事後報告でオートバイ免許を取ってオートバイで帰省した際の母の驚きと狼狽は、今になってわかる。
おばもこの娘はオートバイを乗り回し、別世界に行ってしまったと思ったことだろう。
今なら、おばの気持ちが少し想像できる。
子供をもったから、心配はするよね。
でも、自由にさせてくれた、母に感謝だし、オートバイでおばに会いに行ったときも、驚きながら「気をつけて」と見送ってくれた思い出を大切にしたい。
おばの育ちの良さからくる、優しい笑顔の姿を忘れないでいよう。
おばさん、優しくしてくれてありがとう。
感謝
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