ありがとうのブログ

毎日、家族や仕事関係の人たちとのふれあいで感謝していることをつづります。

自分の過去を振り返る16

2008年10月10日 19時45分50秒 | Weblog
仕事の調子といっても、仕事の話が来たから、それに乗って仕事が出来るようになったというのが、正直な気持ちだ。
準備が出来たから、さて仕事にとりかかるという優秀な仕事人がおられるかもしれないが、私の場合は、目の前に仕事が来たから、やるんだという、山登り的な発想・モチベーションだ。

その仕事はWEB。前から注目していて、自分もプログラムを書いてやれるきっかけになるかもしれないと思ったが、得意な企画を活かすことに集中した。というより、学習する元気気力が沸かなかったというのが事実だ。得意な面をどんどんやるが、苦手な面を得意な人にまかせたい、というので人生やってきているように思う。

ところで、目の前に来た仕事というのは、壮大で、ある大手の会社から、そのまた大手の会社のWEB構想でミニゲームの世界を創って、全世界を巻き込もうという企画だ。そのミニゲームの企画制作をまかされるプロダクションの1つにうちの会社があるプロデューサーによって選ばれたのだった。

そのプロデューサーとは、前の仕事で喧嘩に近い意見を伝えたことがあって、当時所属していた会社の役員や社長はドギマギしていた。商品を期日通りに納品するために、技術者など私たち制作者は、ギリギリのスケジュールで動いていた。納品間じかにそのプロデューサーはちょっとした駄目だしをした。ちょっと手を加えれば良いくらいの要求だったと思うが、全てのプログラムを見直して手直しする余力や気力は、技術者にはない。そういう時にプログラムをいじると、全てが壊れてしまう危険性が高い。そこまでリスクをかけて手直しする要求ではなかったので、次の号でやりますので、今回はこのような理由で見せ方をこうしますから、と伝えさせてもらった。その大プロデューサーに物申す人、特に女性ではいなかったので、周りが心配したのだった。
しかしその大プロデューサーも出来ている人間なので、その意見を受け取ってくださったのだった。しかし、私が技術者の状態を見ての意見だったので、その技術者が重箱の隅を突付くような作業を一晩してくれたお陰で、そのプロデューサーの要求は納期に間に合うように作業された。

そんなことがあった6年後に、北海道までその大プロデューサーはスタッフ3人とやってきた。私の企画の元、ゲームのグラフィックデザイナーが集まっているプロダクションへ挨拶に行き、本格的にその大プロジェクトがスタートしたのだった。

その大プロジェクトは、評判は良かったが、それは壮大過ぎて、スポンサーがなかなかつかなかったようだ。その構想を理解するには、人材を投入する必要があったと思うが、とにかく私たちが作ったミニゲームは公開されて、子供や大人たちには評判が良かったのだが、お金の成る木にな、当時は成らなかった。

息子は、一通り、保育園で皆がかかるようなりんご病、おたふく、風邪などをひいて、免疫力を高めていった。元気いっぱいで、運動会も文化祭にも活躍していた。

しかし、息子3歳の時、父が胃がんで倒れた。急遽手術となって、石川の実家に帰った。母は驚きと不安で一杯で、車の運転免許をもたない母は、病院に通うのもバス便なので、疲れていた。老いに二人が直面していたのに、子育てと仕事で目一杯だった私は、両親の老いへの不安に対して、どうすることもできなかった。
私たちと一緒に住むことも、どちらか一人になったら、お願いね、という口約束をしていたので、私もそのつもりでいた。

父は胃を全摘した。その手術の直前、この父を楽しませていない、孫を抱かせてあげたが、それだけで父は満足していないだろう。まだ父を喜ばせたいので、生かせてくださいと祈った。

父の術後の経過は良かったので、1ヶ月の実家滞在では、息子は実家近くの保育園に臨時に入れてもらった。4歳の息子は、すぐに環境に慣れて、保育園でも保育士に可愛がられていた。ありがたい環境にいた。

実家から北海道のマンションに帰って、前夫に留守と実家手伝いをさせてもらったことの感謝の気持ちを伝え、まだ夫婦として修復できるかとさぐっていた。

息子がまだハイハイをしていた時、夜中に酔って、自分で作ったインスタントラーメンの鉢を廊下で投げて割った後、息子が起きる前に片付けた夜中は、忘れられない。当時、仕事がうまくいかなく、イライラを私たちに向け、お酒の量も多くなってきた。それで体調も良くなく、息子が出来てからは、休日も息子の鳴き声や声が室内にすると怒鳴るので、休日も朝からミルクをもってどこかに外出して夕方近くに帰宅するのが、習慣だった。腫れ物に触るような生活をしていた。
夕方は、少し気分が良いのだろう、4時から5時が、息子との触れ合いの時間にしていた。夕食を終えると、ビールを飲み始め、夜中まで毎日500Ml缶6本、焼酎のお湯割りを相当飲んでいた。これで身体を壊し依存症にならないのが不思議だ。
一言でも身体を心配するようなことを言えば、何かが飛んでくるような状況なので、ビクビクしながら、お酒も用意せざるを得なかった。

私も息子も風邪で調子が良くなくて、買い置きのビールが無くなった時に、吹雪の中、夜の11時に息子を背負ってビールをコンビニに買いに行かざるを得なかったときは、こういう時をご先祖様も神さまもご覧になっていることだろうから、きっと良いことが起きてくれるだろうと忍耐で買いに出かけた。
私が何を言っても聞かない前夫だった。しかし、そういう人を夫として選んだのも自分で、そういう夫にしてしまったのも、半分は私の責任だと思っていた。

息子の笑顔と仕事で得る人間関係に癒しを求めて、外面は平気に見せていたが、心の中は闇の中だった。

息子が3歳の時だったと思う。夜中に私の口答えが悪かったようで、胸倉をつかまれて服はびりびりに破れて、蹴られていたように記憶している。私の悲鳴で息子が起きてきて、「お父さん何をしているの、お母さんをいじめちゃダメだ」と向かってきた。その3歳の息子を前夫は部屋の奥まで投げた。息子を布団の上に投げたのはわかったが、それでも頭を打ったかもしれない、心も傷つけたかもしれない、と泣いている息子を抱きかかえて見ると、前夫は、息切れをさせながら自分の部屋に去っていった。

当時、別々の部屋にいて、TVも自分の部屋用を購入していた。夕食のときだけ、リビングダイニングに来て、食べて、朝昼兼用の食事を前夫の部屋に運び、家庭内別居状態だった。

息子との触れ合いに時間は、夕方のその時間と、私が仕事などの会合で外出するときは、面倒をみてくれていたのが、不思議だった。

前夫は自分の仕事がうまくいかないのを誰かにぶつけたかったが、友人たちは近くにいない、飲み屋のお姉ちゃんしかいなかったのだろう。私は蝋人形のような、ただいるだけの前妻だった。孤独だっただろうと今、思う。しかし、暴力をふるう前夫をどうやって尊敬したり話したりできるだろう。

ドメスティックバイオレンスについての情報を得て、区役所に相談したが、担当者は、精神科の病院に連れて行けという。それも妻の愛情だから、という。
精神科の病院に行くような、それも妻の言うことを聞かないから、バイオレンスになるのだ。この担当者は何もわかっちゃいない、と肩を落としてまた暗闇の生活に戻っていた。

明日は、ある仕事のきっかけで前夫の爆発が起きた事件を書きます。
感謝


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