出版社では、辞める直前まで他の編集部が引っ張るような動きがあったらしいが、英語力も大学中退という劣等感を当時は否めなかった。
上司の編集局長も、私がこの出版社にいても可能性を開拓するのは厳しいと判断したと思う。それほど管理されたくない人間だと観ていたのだろう。
辞める日に、システム手帳をプレゼントしてくれた。有名なメーカーのしっかりとした手帳で、10年位愛用させてもらって、今でも大事に保管している。
送別会も盛大で、他の編集部の意外な先輩たちがしんみりと参加されていて、辞める自分が申し訳なく思った。尚更、自分で決意した、コピーライターとして人々に温かさと愛情を分けて行きたいという夢をかなえたいとぼんやりと考えていた。
さて、次に移る編集プロダクションは、知り合いが通っていた写真の専門学校の教師の写真家が運営するプロダクションで、ちょうどちょっとしたライターを探していたので、面接してすぐに決定したのだった。
前の出版社では、商品を撮影する写真家や雑誌を飾るイラストレーターとの交流も楽しく、その延長で、その方が撮影した写真画像も叙情的で良いなあと感じたので、学ぶことを学ばせていただこうと肯定的に、転職したのだった。
当時は、宣伝会議というコピーライターの専門学校に夜通うことを条件にしていたので、給料は最低生きていける金額だったが、うれしい条件に感謝していた。
コピーライターの学校は、講師が現役の有名CMプロデューサーやコピーライターだったので、CMを制作する有益な生の情報を知りえることができて、何がなんでも通って皆勤賞をいただいた。自分の書いたコピー文も採点されて、講評されることも、授業料との費用対効果は高かった。
忙しい仕事の合間に講師として授業をして話していただいているのに、脂ぎった苦しそうな講師はいなくて、みな、おしゃれで颯爽としていた美男子ばかりで、華やかなモデルがいたりクリエイティブな仕事をしていると、そういう点も洗練されるのだろう。
仕事のほうは、公共事業体の広報誌が多かった。
町をPRするのも、いろいろな観方を学んで、雑誌編集の経験も活かすことができた。
しかし、上司であるプロの写真家と上手にコミュニケーションがとれず、厳しい精神状態が続いた。
社員は私一人で、芸術家にあるいろいろな葛藤を私にぶつけたかったようだが、私は大人ではないので、受け止める器も無く、お互いにストレスを溜めていたと記憶する。
仕事の受注も厳しくなって、愚痴も多くなってきた上司に、元いた出版社の仕事を提案し、一緒に会社訪問したが、その芸術家の写真家のプライドに影響するような対応だったようで、ますます上司と私の人間関係は厳しくなってきた。
私の心身も厳しいので、もう辞めると伝えて、いろいろあったがフリーライターとして自立することにした。
さて、フリーライター時代からマルチメディア編集プロダクションに入社するまでのいきさつを明日、語ります。
感謝
上司の編集局長も、私がこの出版社にいても可能性を開拓するのは厳しいと判断したと思う。それほど管理されたくない人間だと観ていたのだろう。
辞める日に、システム手帳をプレゼントしてくれた。有名なメーカーのしっかりとした手帳で、10年位愛用させてもらって、今でも大事に保管している。
送別会も盛大で、他の編集部の意外な先輩たちがしんみりと参加されていて、辞める自分が申し訳なく思った。尚更、自分で決意した、コピーライターとして人々に温かさと愛情を分けて行きたいという夢をかなえたいとぼんやりと考えていた。
さて、次に移る編集プロダクションは、知り合いが通っていた写真の専門学校の教師の写真家が運営するプロダクションで、ちょうどちょっとしたライターを探していたので、面接してすぐに決定したのだった。
前の出版社では、商品を撮影する写真家や雑誌を飾るイラストレーターとの交流も楽しく、その延長で、その方が撮影した写真画像も叙情的で良いなあと感じたので、学ぶことを学ばせていただこうと肯定的に、転職したのだった。
当時は、宣伝会議というコピーライターの専門学校に夜通うことを条件にしていたので、給料は最低生きていける金額だったが、うれしい条件に感謝していた。
コピーライターの学校は、講師が現役の有名CMプロデューサーやコピーライターだったので、CMを制作する有益な生の情報を知りえることができて、何がなんでも通って皆勤賞をいただいた。自分の書いたコピー文も採点されて、講評されることも、授業料との費用対効果は高かった。
忙しい仕事の合間に講師として授業をして話していただいているのに、脂ぎった苦しそうな講師はいなくて、みな、おしゃれで颯爽としていた美男子ばかりで、華やかなモデルがいたりクリエイティブな仕事をしていると、そういう点も洗練されるのだろう。
仕事のほうは、公共事業体の広報誌が多かった。
町をPRするのも、いろいろな観方を学んで、雑誌編集の経験も活かすことができた。
しかし、上司であるプロの写真家と上手にコミュニケーションがとれず、厳しい精神状態が続いた。
社員は私一人で、芸術家にあるいろいろな葛藤を私にぶつけたかったようだが、私は大人ではないので、受け止める器も無く、お互いにストレスを溜めていたと記憶する。
仕事の受注も厳しくなって、愚痴も多くなってきた上司に、元いた出版社の仕事を提案し、一緒に会社訪問したが、その芸術家の写真家のプライドに影響するような対応だったようで、ますます上司と私の人間関係は厳しくなってきた。
私の心身も厳しいので、もう辞めると伝えて、いろいろあったがフリーライターとして自立することにした。
さて、フリーライター時代からマルチメディア編集プロダクションに入社するまでのいきさつを明日、語ります。
感謝
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