出版社時代の先輩に誘われて、あるTVゲーム機対応ソフトのゲームPRコンテンツを担当することとなったが、TVゲームはほとんどプレイした経験がない。
ビジネスソフトでデータを入力するくらい、ワープロ打ちは得意ぐらいのお転婆姉ちゃんに、ゲーマーの気持ちがよくわからない。いや、ゲーマーに近づきたくないくらいの偏見の持ち主だった。
しかし、担当するからには、ゲームを知ろうと、同じ会社の先輩技術者たちにゲームソフトの操作を教わり、ゲーム雑誌とゲームプレイの毎日。
プロデューサーはいつ私から企画書が出来てくるのか、スポンサーとの会議もどうやって言い訳していたのか。
しびれをきらした上司のプロデューサーは、辞めるか明日までに企画書を出すか決めてくれというので、翌日提出した。
すぐにスポンサーが喜んでくれて、制作GOサイン、私の元に東京理科大学生の技術サポートと制作管理の女の子のサポートがついた。
東京芸大卒のデザイナーとゲームオタクが大きくなったプログラマーとのチーム編成だ。
制作進行は難航した。だれも作ったことがないソフトなので、やればやるほど壁が出てどうすれば良いかチームで考えていくようにした。
しかし、まだ心の通い合いがないチームなので、コミュニケーションがうまくいかない。納期が近いのに、進み具合が亀の動きのようだった。
他のもうひとつのチームも同じような状況で、よく徹夜をしていた。
椅子を並べて眠るデザイナー、仕事机の下に頭を入れて脚を折り曲げて眠るプログラマー、私は会議室の長いテーブルの上に新聞紙をかぶって仮眠した。
音楽を作る技術者は、雑音がしない夜中に音源を作るので、一人黙々とコンポーザーと闘っていた。
明け方コーヒーを入れ、音源をソフトに組み入れ、ソフト自体が適度に動いて音が鳴るように調整してもらい、それをディレクターの私が検証するという作業を1ヶ月ほど続けて、制作期間は全6ヶ月くらいか。
全てのコンテンツを同梱し、調整したときには、心身ともに疲労困憊していて、胃痙攣をおこして1週間ほど自宅休養し、その後、オートバイで単身旅行に出かけて、瀬戸内海の春の海を観に、東京のアパートから出かけた。
どんなコンピュータソフトも制作は大変だ。体力、集中力、コミュニケーション力、仲間に恵まれることが必要だ。
1号目のマルチメディアソフトは、出版社の協力も得てPRされ、売れた。評判も良かった。すぐに2号目の企画と制作が始まっている。
1号目のアンケート結果を活かしたアイデアも投入する。
そうやって好評のまま、6号を制作し終えたときは、いっぱしの制作ディレクターのようになっていた。
次は、そのソフトをPRした出版社が権利を買い取って、その味付けを入れて制作することになった。担当は引き続き自分だ。
その出版社でも6号まで制作。各号、公称10万部売れたという。実質8万部かなあ。
書店でそのマルチブックが並んでいるのをみて、充実した数年だった。
その仕事のほかにも、大手電機メーカーのマルチメディア部門向けのニュース配信を毎週編集担当していた。当時のその会社は、ブランド志向が高く、大手の会社ばかりと研究開発の先陣を切っていた。
世に無いソフトを企画開発するので、いろいろな技術的な問題ばかりおきていた。
しかし、この世の中にないソフトを創っているんだという自負で、長時間のクリエイティブな仕事もこなされていたように思う。
20歳代後半の元気いっぱいの制作修行時代だ。
しかし、プライベートは、ほとんど無かった。
そこで元夫と出会った。
その話は明日。
感謝
ビジネスソフトでデータを入力するくらい、ワープロ打ちは得意ぐらいのお転婆姉ちゃんに、ゲーマーの気持ちがよくわからない。いや、ゲーマーに近づきたくないくらいの偏見の持ち主だった。
しかし、担当するからには、ゲームを知ろうと、同じ会社の先輩技術者たちにゲームソフトの操作を教わり、ゲーム雑誌とゲームプレイの毎日。
プロデューサーはいつ私から企画書が出来てくるのか、スポンサーとの会議もどうやって言い訳していたのか。
しびれをきらした上司のプロデューサーは、辞めるか明日までに企画書を出すか決めてくれというので、翌日提出した。
すぐにスポンサーが喜んでくれて、制作GOサイン、私の元に東京理科大学生の技術サポートと制作管理の女の子のサポートがついた。
東京芸大卒のデザイナーとゲームオタクが大きくなったプログラマーとのチーム編成だ。
制作進行は難航した。だれも作ったことがないソフトなので、やればやるほど壁が出てどうすれば良いかチームで考えていくようにした。
しかし、まだ心の通い合いがないチームなので、コミュニケーションがうまくいかない。納期が近いのに、進み具合が亀の動きのようだった。
他のもうひとつのチームも同じような状況で、よく徹夜をしていた。
椅子を並べて眠るデザイナー、仕事机の下に頭を入れて脚を折り曲げて眠るプログラマー、私は会議室の長いテーブルの上に新聞紙をかぶって仮眠した。
音楽を作る技術者は、雑音がしない夜中に音源を作るので、一人黙々とコンポーザーと闘っていた。
明け方コーヒーを入れ、音源をソフトに組み入れ、ソフト自体が適度に動いて音が鳴るように調整してもらい、それをディレクターの私が検証するという作業を1ヶ月ほど続けて、制作期間は全6ヶ月くらいか。
全てのコンテンツを同梱し、調整したときには、心身ともに疲労困憊していて、胃痙攣をおこして1週間ほど自宅休養し、その後、オートバイで単身旅行に出かけて、瀬戸内海の春の海を観に、東京のアパートから出かけた。
どんなコンピュータソフトも制作は大変だ。体力、集中力、コミュニケーション力、仲間に恵まれることが必要だ。
1号目のマルチメディアソフトは、出版社の協力も得てPRされ、売れた。評判も良かった。すぐに2号目の企画と制作が始まっている。
1号目のアンケート結果を活かしたアイデアも投入する。
そうやって好評のまま、6号を制作し終えたときは、いっぱしの制作ディレクターのようになっていた。
次は、そのソフトをPRした出版社が権利を買い取って、その味付けを入れて制作することになった。担当は引き続き自分だ。
その出版社でも6号まで制作。各号、公称10万部売れたという。実質8万部かなあ。
書店でそのマルチブックが並んでいるのをみて、充実した数年だった。
その仕事のほかにも、大手電機メーカーのマルチメディア部門向けのニュース配信を毎週編集担当していた。当時のその会社は、ブランド志向が高く、大手の会社ばかりと研究開発の先陣を切っていた。
世に無いソフトを企画開発するので、いろいろな技術的な問題ばかりおきていた。
しかし、この世の中にないソフトを創っているんだという自負で、長時間のクリエイティブな仕事もこなされていたように思う。
20歳代後半の元気いっぱいの制作修行時代だ。
しかし、プライベートは、ほとんど無かった。
そこで元夫と出会った。
その話は明日。
感謝
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