*国営木曽三川公園!
住所=岐阜県海津市海津町油島2553
展望タワー
フラワーパーク パーク内
*千本松原堤・治水神社!
*宝歴治水!
昔この地方は木曽三川に囲まれ、木曽川より・長良川・揖斐川と、
それぞ1メートル余りの川床の差があり、低くなっていました。
その為土地の低い美濃側は絶えず水害を被り、徳川時代、
特に慶長から宝暦にかけては、毎年氾濫して治水工事の嘆願が続き、
ついに幕府は宝暦三年(1753)十二月二十五日、西国の雄藩「薩摩藩」に、
お手伝い方を命じました。
*治水神社!
当時、借財に苦しんでいた薩摩藩ではあるが藩の存亡を掛け、
その命に従うことととなった総奉行に「平田靭負正輔(ゆきえまさすけ)」を任じ,
年が明ける一月二十一日,江戸より次いて二十九日には,
薩摩より総勢九百四十七名を出発させた。
途中大阪で工事費を調達し、二月二七日に四の手にわかれて、工事に着手。
水との苦闘は難工事の連続、その上度重なる洪水に工事費ははるかに超過し、
幕府側の迫害や屈辱、工事の邪魔等に耐えかねて、自決した者五三名、
疫病の流行で病没三十三名にも及んだ。
説明板 犠牲者名碑
*総奉行は藩主・重利公に工事竣工の報告を副奉行に託し、
全責任を負って宝暦五年(1755)五月二十五日、享年五十二才で、この世を去った。
幕府の命令とはいえ三百里も離れた異郷の地を、水害苦難から救った薩摩藩の
人達の血と汗と涙の結晶は、今もこの地に語り継がれて薩摩義士の偉業として、
称される大治水工事であった。
この治水神社は「平田靭負正輔(ゆきえまさすけ)」を祭神として、
その時、亡くなられた八十余名の方々をお祀りして感謝の誠を捧げ、
願望成就の神として崇敬されている。
*宝暦治水由来書より!
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