富田一里塚東側 一里塚西側
一里塚碑 説明板
*国指定史跡! 富田一里塚!
住所=一宮市立石778
*一里塚は、道路の両脇に一里(約4Km)ごと目印として木を(榎の木)植
えた塚を言います。日本では「織田信長」や「豊臣秀吉」が一里塚を築いた
記録があり、制度として確立させたのは、江戸幕府でした。
徳川家康は秀忠に命じて、慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として、
東海道・東山道(中山道)・北陸道に榎を植えた一里塚を築かせ全国に普及
させました。東海道の宮(熱田)宿と中山道の垂井宿とを結ぶ「美濃路」に
は13ヵ所の一里塚が設置されていました。しかし今では街道の両側に原形
とどめるのは、ここ富田一里塚のみとなりました。
人柱観音碑 観音堂
人柱観音説明板 木曽川堤
*人柱観音縁起!
住所=一宮市小信中島字宮浦780-1
*人柱観音縁起!(おこし東の 中島西に 人のとぼさぬ 火が見える)!
慶長の昔、伊奈備前之守の官命により、小信中之坊に宿泊し、
起堤の小信川口を突止め、木曽本流の築堤の難工事に逢著した際、
中之坊の門徒にて、小信の篤信の念仏行者なる「与三兵衛」は、
報謝の一命より、慶長16年(1611)盆夏中の第4日、自から進んで、
渦巻く濁流に身を沈めて、人柱となり、遂に堤防堰止めを完成せしめた。
以来雨の夜な夜な、この辺りから青白き怪火飛んで、小信川を南に下り、
西五城「信行寺門前」に消えた。
信行寺は右の工事完成と共に、小信中之坊が移転改称したものである。
人々この怪火を目撃して「与三兵衛」の魂魄が、中之坊の御本尊を思慕するあまり、
霊火と現れ小信から参詣するもの、世にこれを「与三の火」と言い伝えた。
此度之が菩提を弔う為、「人柱与光観音菩薩」を、現地に建立し、
永遠に彼が投身の大業を後世に伝えんとするもの、与光は彼の法号である。
*「南 無 大 悲 与 三」 「鎮 も る や 青 田 風」
*追記!
ちなみに、濃尾大橋架設の犠牲者!
*長野県人=岡庭金吾
*宮崎県人=望月盛次
*秋田県人=樫尾義雄
の三聖魂を小観音として建立合祀し共に、
昭和32年(1957)9月28日開眼した。
(説明板より)
宮河戸大明神社前碑 大明神社
境内大銀杏 説明板
福島正則駒繋ぎ跡 木曽川堤渡船場跡
*関ヶ原合戦と起(おこし)宮河戸渡し跡)!
住所=一宮市起字堤町138-1(大明神社)
*東軍(家康軍)、木曽川を渡る!
慶長5年(1600)8月21日、「福島正則」等は徳川家康の、到着を待
たずに行動を開始しました。
軍勢を二手に分け、福島正則、黒田長政、細川忠興などの軍勢1万6千は美
濃路を南下し、
起から木曽川を渡り竹鼻城を攻め、池田輝政、山内一豊、一柳(ひとつやな
ぎ)直盛などの、軍勢1万8千は清州から北上し、一宮、黒田を通り河田か
ら岐阜に向かいました。起(おこし)の大明神社に「福島正則」が馬を繋い
だとされる巨木が昭和20年代まであったそうです。
現在その巨木はなくなり、石碑のみが残っています。
福島正則の軍勢は起から渡ろうとしましたが、木曽川の砂浜に足を取られて
思うように、前進できず、対岸から銃撃を受けました。そのため、下流の
「加賀野井」から渡りました。
この時に「福島正則」を道案内したのが、後の「起本陣」となる「加藤家」
とされています。竹鼻城は慶長5年(1600)8月22日の、
午後4時頃、落城しました。
尾西史料館 象行列展示
象行列再現 象行列2
象行列行程表 案内板
象船再現 説明板
起宿ジオラマ 象船渡り場跡
*江戸時代の像!
住所=一宮市起字下町211
*川を渡る像!
江戸時代の中頃、8代将軍「徳川吉宗」は象を大陸では軍用しているとい
う話を聞いて、興味を示し、象を見てみたいと言いました。
そのことを知った清国(今の中国)の商人「鄭太威」は、ベトナムから牡牝
一頭ずつ、合わせて2頭の象を連れて享保13年(1728)に長崎にやっ
てきました。牝象は長崎に唐人屋敷で死んでしまいましたが、牡象は翌年
享保14年(1729)3月13日に、長崎を出発し、江戸までの長い旅が
始まりました。長崎街道・山陽道を通り、京都で天皇に拝謁しました。
その後草津宿から中山道に入り、垂井宿経由で美濃路に入りました。
木曽川を船で渡り起宿に到着したのは5月3日の事でした。
起の本陣屋敷地内には象小屋が建てられ、そこに象が一泊しました。
翌4日、次の宿泊予定地である清州宿に向かいました。
象行列は象使いをはじめ、30数人の役人、村役人が同道した記述が、
起宿にも残されています。 その後、象は5月25日に江戸に到着、
将軍・吉宗にお目見えして、その役目を果たしました。
*「馴象茶屋町通行」(小治田之真清水)
象が名古屋城下の茶屋町を通行する姿が描かれている。
*川を渡る象!
①佐渡川(揖斐川)!
あらかじめ象船が用意されていましたが、川の水が比較的
浅かったので象は気持ちよさそうに歩いて渡りました。
しかし、残りわずかなところで、象は深みにはまってしまい、
沈んでしまいました。 その後象は自力で這い上がり、
何とか渡りきることできました。
②墨俣川(長良川)!
墨俣川(長良川)は、水量が多く、佐渡川(揖斐川)のように、
歩いて渡ることができないので、象船が用意されました。
しかし、象は機嫌が悪く、なかなか船に乗ろうとしません。
足に網を巻きつけて、20人がかりで象を引っ張り船に乗せたものの、
渡りきったところで、対岸の大勢の見物客の歓声に、
驚いて逃げ出してしまいました。全力疾走した象は村の外れまで来て、
ようやく捕らえる事が出来ました。
③小熊川(境川 )!
この川にも象船が用意されていましたが、水が少なかったので、
浅瀬を選び歩いて渡りました。墨俣川のような事件もなく、
4つの川の中で一番楽に、渡ることができました。
④起川(木曽川)!
今までの河川とは規模が異なり、墨俣川の二の舞にならないように、
細心の注意が払われました。墨俣川での経験を活かし、
象使いの「てんてんほんほん」の掛け声に、あわせて像を船に乗せ、
落ち着いた象は川を無事渡りました。
こうして、美濃路最大の難所を超えることができました。
(説明板より)!
一宮市尾西資料館前 資料館内
船橋再現2 船内部1
御座船 案内板
船橋掛け跡地前 船橋掛け跡地碑
船掛け跡碑 案内板
*船橋跡!
住所=一宮市起字下町211~168-1
*将軍・朝鮮通信使・八代将軍「吉宗」の生母の通行にさいして、
船橋を架けました。長さ855メートルという日本最大の船橋です。
延享5年(1748)朝鮮通信使通行のおりには、延べ7578人の人足、
大小277隻の船を近郷の村々から集めて架設と撤去の作業をしました。
この年5月16日の渡橋にそなえ、2月19日から架設作業の開始、
6月16日一行の帰路通過後、7月4日に撤去を終り、約4ヶ月半余の日数
をかけました。
*御召船の屋形!
起渡し場には常時3隻の定渡船のほか、鵜飼船17隻馬船14隻がおかれ、
20人の船頭がいて尾張藩より扶持米が与えられました。
渡し場は藩の御舟手奉行のもとに船庄屋と船方肝煎がいました。
藩と関係の深い通行者には、船2隻の上に屋形を組み、御召船としました。
内部は畳3枚分の広さです。 大名などが船に乗り降りのさいには,
船がゆれないように船押し人足が川中から背中で船の両側を押さえました。
*史跡! 起渡船場跡~船橋跡!
舟橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。
美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、
将軍といった特別な通行のためにのみ、船橋が架けられました。
木曽川の起の舟橋河戸に架けられた船橋は、全長850m前後、
船数は270艘を越える日本最大の船橋で、当時は起川船橋と呼ばれた。
宝暦14年(1764)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることは
無くなったものの「尾張名所図会」は、起川船橋を「海道第一の壮観」と
称し、また朝鮮通信使の一行も、舟橋の壮大さを記録している。
一宮市教育委員会(説明板より)