美濃路沿い中島宮碑 宮内長隆寺
長隆寺碑 山門前
説明板 境内
中島蔵人光敏親王供養塔碑
*長隆寺本堂・山門!
*住所=一宮市萩原町
*長隆寺は、平安時代創建と伝えられる古刹である。
本堂は、一重寄棟造、主屋の梁の側面に「宝暦八年(1758)戌寅四月二十二日上梁」
の墨書があり、また本堂内押入れ扉の裏書きに「現住杲貞誌之」とある。
更に鬼瓦には「宝暦七年(1757)」のヘラ書き銘もあり、建築から見ても、
「宝暦八年(1758)の建立が確実視されるものである。
前述の押入れ扉の裏書きによれば、中嶋郡中嶋村護摩塚出身の、
「名護屋末広町」の「伊勢源兵衛・水野氏」が、宝暦四年(1754)から八年(1758)
にか けて長隆寺の殿堂を造立したとある。
*木造・阿弥陀如来及び両脇侍像!
本尊の阿弥陀如来坐像(高さ百五十cm)は、上品下生の來迎印を結び、
両脇には右に木造・観音菩薩立像、左に木造・勢至菩薩立像(共に高さ百七十八cm)
を配している。
平成元年(1989)・二年(1990)に本尊、平成三年(1991)
に両脇侍の保存修理を行い、両脇侍から元亨三年(1323)の制作銘が発見された。
長隆寺所蔵の文化財は、いずれも「一宮市博物館」に寄託され、収蔵・展示されている。
*一宮市教育委員会 説明板より。
尾張中島宮鳥居前 中島宮
中島宮前 碑前
中島宮本殿 本殿
説明板 宮跡説明板
*中嶋宮(旧八釼社)の由来!
*住所=一宮市萩原町中島字森下
*伊勢神宮の禰宜、五月麻呂が、神護景雲2年(768)撰録したと伝える。
「倭姫命世記」は、鎌倉時代になってから、伊勢外宮の度会氏が編纂したと
も言われています。その「倭姫命世記」には次のように伝えています。
「皇女倭姫命」は、皇祖「天照大神」を奉じて十余か所の諸国巡廻を行う。
垂仁天皇十年に美濃国伊久良河宮(本巣郡川崎村大字居倉・現岐阜県瑞穂
市居倉)の「天神神社」と伝えられる)に、4年滞在、その後、
尾張国中嶋宮に遷座、3ヶ月逗留。
のち、伊勢国桑名野代宮(桑名郡野代村)を経て五十鈴川のほとりに遷座。
これより、皇大神宮としての伊勢神宮となる。
尾張中島城跡 中島城碑
*中島城!
*住所=一宮市萩原町中島城跡37
*中島城は、尾州中島城主・本居山城守・源氏孝(戦国時代)
承久3年(1221)6月5日に、嵯峨源氏の流れをくむ「中島氏」が当地
に土着したと伝えられる。
城主は中島左衛門尉宣長を名乗り、子孫は歴代「中島蔵人」とも号した。
戦国時代中期以降、近隣の「斯波氏・織田氏(織田信長)」などの勢力に所
領を奪われ、一時没落、一族は全国に四散した模様。
落城後、中島氏は、「豊臣秀吉」の家臣となり、中島式部周少輔氏重(のち
中島氏種)は、大坂城に移り大坂七手組頭に任じられた。
*中島城址碑・文書!
「尾張ノ豪族中嶋氏ノ城址ナリ 中嶋氏ハ嵯峨源氏ノ末流 平安末期コノ地
ヲ領シテ勢アリ 城主の子滅宗 妙興寺ヲ創建スルヤ百町歩ヲ寄進ス
城ハ室町末期廃サレ 一族全国二散在ス」
*一宮市長・記書!
高木一里塚跡 一里塚公園
高木一里塚碑 説明板
*一宮市・高木一里塚跡!
*住所=一宮市萩原町高木字中道58
*高木一里塚跡は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ「美濃路」に設けられ
た、十三ヶ所の一里塚の内の一つです。 慶長9年(1604)に、
江戸幕府は、江戸日本橋を起点とし、一里(約4k)ごとに一里塚の施置を
命じました。その後、一里塚は、全国に普及し、旅人たちの旅や運賃の目安
となるとともに、榎や松などの大木が植えられその木陰では、
旅人が休息をとることもできました。
高木一里塚にも、明治初年頃まで街道の両側に塚が設けられ、
そのう上に榎が、植えられていたと、つたわっています。
一宮市内には、高木一里塚の他、岐阜街道の一宮一里塚、美濃路の富田一里
塚が設けられました。明治時代になると各地の一里塚は徐々に姿を消し、
高木一里塚も、昭和37年(1962)に建立された記念碑を残すのみとな
っています。
*一宮市教育委員会・説明板より。