土田宿・碑 「土田城麓」!
(左・土田宿に至る! 右・尾張に至る!)
*土田宿・本陣跡!
*住所=可児市土田2402-1
*土田宿本陣跡(止善殿・しぜんでん)!
中山道の宿駅としていつ設置されたかは不明であるが、幕府が中山道を整備する以
前から存在したことは、天正10年(1582)に、「織田信長」が「武田氏」を
攻略、慶長5年(1600)「徳川秀忠」が関ヶ原合戦の際、
ここに(土田宿)宿泊していることからもわかる。
東山道の名残として、土田→善師野→犬山という経路があったようだ。
又、初代「尾張藩主・徳川義直」も土田宿本陣に宿泊し、この一館を「止善殿・し
ぜんでん」と名付けた。
元禄7年(1694)伏見宿の新設に伴い、土田宿は「中山道」の宿としての使
命を終えている。以後の土田宿については「濃州徇行記・じゅんこうき」に次のよ
うに、記されている。「本郷(土田)」は宿町、二組にて百戸ほどあり、近来漸々
に衰耗せり、宝暦年の頃までは、邦君木曽路へ御通行の時、御家中宿札打べき家も
数多ありて御同勢の御間も合しが、
今は頽れ家多出来、宿内に屋敷跡又は古井戸などのこれり」と記されている」。
*可児市教育委員会・説明卯版より。
土田宿本陣跡碑 説明板
地図 後方土田城に至る
土田宿本陣跡 土田公民館
本陣跡 土田宿・本陣跡遠景
土田御前誕生地碑 誕生地碑
御前碑 信長・土田御前像
系図 土田御前の経歴
(土田御前の経歴) 説明板!
*土田御前誕生地・碑!
住所=可児市土田4823-1
土田御前は、当地土田城主「土田政久」の息女とされ、縁あって尾張の「織田信秀」
の正室となり「信長・信行・秀孝・信包・市(お市の方)・犬(お犬の方)の生母と
して戦国の世の定めに従いました。
土田御前は、「うつけ」と呼ばれていた「信長」よりも、その弟である「信行」を可
愛がりったと言われます、
信行の死後は信長と共に暮らした時期もあり、信長やお市の子ども達(信忠・信雄
(のぶかつ)・信孝・茶々・初・江(ごう)の面倒を見たと言われています。
信長は天下布武の過程で、家臣であった「木村村重」に謀反の噂が立った際には、
村重に「母(土田御前)を人質として差し出すので出仕せよ」と言い、噂の真相を確
かめた逸話は有名です。晩年は孫の「信雄(のぶかつ)」子の信包のもとで暮らし、
文禄三年(1594)1月7日に安濃津(現在の三重県津市)で、
亡くなっています。逝去した年齢は不詳ですが、当時としては大変長寿であったよ
うです。墓所は三重県津市栄町の四天王寺にあります。
2017年4月 記 (可児市説明板より)。
土田城碑 説明板
土田城碑 説明板碑
説明板碑 麓五輪塔
本丸東御嶽山 本丸東
山頂本丸跡 本丸跡
本丸跡 本丸跡
*(土田城址・説明板)!
*美濃可児・土田城!
住所=岐阜県可児市土田4778-1
土田城跡は文明年間(1469~1487)頃に、土田氏によって築かれたと伝え
られています。弘治二年(1556)土田源太夫が「明智城」において討死したのち
は、丹羽郡小折城(愛知県江南市)の生駒氏に養子となっていた「親重・親正」が
城主となり、親正は「織田信長」に仕え、天正二年(1574)には土田城を去っ
たとされています。後には「豊臣秀吉」に仕え各地を転戦し、天正十五年(158
7)には、「讃岐・丸亀城主となりました。
城は、約十メートル四方の小規模な曲輪が南北にそれぞれ二面配されています。
土田氏や生駒氏は、山麓の居館に居住し、合戦の際には、土田城に立て籠つてた、
と考えられます。 又、「織田信長」の生母である「土田御前」が生まれたとも言わ
れています。
*江戸時代の記録に見る「土田城」!
尾張藩士の松平君山(秀雲)が宝暦六年(1756)にまとめた「濃陽志略」に、
「生駒甚助(親正)が、天正年間に居城したと記されている。
又同じく「尾張藩士」の「岡田敬」が天保期以降まとめた、「新撰美濃志」には、
「生駒氏城址」を天正期に「生駒道寿(親重)」同「甚助」が住み、
俗に「土田の城山」と呼ばれ、地元の人は「生駒三吉の城山」と言っていたと、
記されています。
可児市・説明板より。
はね橋跡・至可児兼山城へ 現はね橋
中央山頂土田城 可児川渓谷
はね橋跡 現はね橋
はね橋より土田城 はね橋跡
*森武蔵守長可(ながよし)の首・通行不可! 「刎(はね)橋」!
*岐阜県可児市土田4683-2
小牧・長久手の戦いで敵方の流れ弾が「鬼武蔵長可(ながよし)」の眉間に当たり討死。
家臣達は、遺体を居城の兼山(美濃)に運んで、手厚く葬ろうと決定。
しかし長久手から北え向かうには、家康の本陣がある小牧の下を通らねばならなかった。
この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けて、まず胴を埋め首を大切に抱えて、
犬山から石原土田へ間道を抜けようとした。処が、土田城主「生駒氏・(徳川方)」が、
ここを通るに違いないので、それを横取りして、徳川家康に差し出そうと待ち伏せていました。
遺体は木曽川手前の土田の、刎橋(はね)の見える所までやってきたとき、見張りが
飛んできて「刎橋」(はね)に、敵の一団がいるために通れない事を知らせた。
*「刎橋(はね)」とは?
*(必要なとき以外は、綱で吊り上げて通れぬように考えた橋!)
小牧山の難関は胴を捨てて、首だけにする事によって通れたが、刎橋(はね)を、
落とされては兼山へ帰ることが不可能。そこで涙をのんで「石原の真禅寺」に戻り、
首を浦山に丁寧に葬った。この後「森忠政(長可(ながよし)弟(後・備中・津山
城主・森忠政公)が跡を継ぐと、長可(ながよし)の妻は、自ら二児を連れて、
「真禅寺」のある「石原地区」に、移りすんだと言われている。
(可児市教育委員会)説明板より。
真禅寺前 真禅寺参道
真禅寺駐車場 真禅寺参道
真禅寺山門碑 本堂前
真禅寺本堂 森長可首塚入口碑
森長可首塚入口碑 長可首塚
森長可墓 長可・墓
(真禅寺門前・森武蔵守長可「ながよし」説明・碑)①
(真禅寺門前・森武蔵守長可「ながよし」説明・碑 ②
*森武蔵守長可(ながよし)の首塚由来!
住所=可児市西帷子490-1
兼山城主・森武蔵守長可(ながよし)は、織田信長の死後、豊臣秀吉に味方して、
小牧・長久手の戦いに加わったものの、流弾が眉間に当たり、
天正12年(1584)4月9日に、27才で果てました。
家臣達は長可の遺体を居城の「兼山城」に運んで手厚く葬ろうと決意しました。
しかし、長久手から北え向かうには、敵の大将「徳川家康」の本陣のある小牧の、
下を通らねばななりません。この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けてまず、
胴を埋め、首を大切に抱いて犬山から石原土田へ間道を抜けようとしました。
ところが土田城主「生駒氏(徳川方)」は、前年に自分の城を焼いた「森武蔵」の遺体が、
ここを通るに違いないので、それを横取りして「家康」に差し出そうと、待ち伏せし
ていました。遺体は木曽川手前の土田の刎(はね)橋の見える所までやってきました。
遥か東方に兼山城も見えます。その時見張りが飛んできて刎(はね)橋に敵の一が、
いる為に通れないことを知らせました。
*刎(はね)橋とは? *必要以外は綱で吊り上げて、通れぬように考えた橋です。
小牧山の難関は、胴を捨てて首だけにする事によって、通れましたが、
刎(はね)橋を落とされては、「兼山城」へ帰ることが不可能です。
そこで涙をのんで石原地区の「真禅寺」に戻り、主君「森武蔵守長可(ながよし)」
の首を真禅寺の裏山に丁寧に葬りました。
*森武蔵守長可(ながよし)の死後、森武蔵守長可(ながよし)が出陣前に書き残し
た「遺言状」が見つかり、それには「武士はいや、吾が跡目くれぐれもいやにて
候・・・」と書いてありました。
そこで森長可の妻は次の城主を末弟「忠政」(後の・津山城主)に譲り、
自らは二児を連れ、ここ「真禅寺」のある「石原地区(西帷子490-1)」に、
移り住んだと言うことです。(可児市教育委員会)説明板より。
(森家家系図)
「森武蔵守長可(ながよし)」鉄砲で撃たれ、
落馬した森武蔵守長可(ながよし)」
「小牧・長久手合戦・屏風図」より。
(大須・清寿院の柳下水)
(大須・清寿院の柳下水・説明板)
*大須・清寿院の柳下水!
住所=名古屋市中区大須2丁目16-22
大須・清寿院の柳下水は、尾張名古屋の三名水で、亀尾の清水と蒲焼町風呂屋の、
井とここ、清寿院の井と言われていた。 清寿院は、修験道当山派・富士山観音寺と
もいったが、寛文七年(1667)藩命により清寿院と改め、明治の廃仏棄釈により
廃寺となった。当時境内では芝居・見世物小屋なども出て大賑わったと伝えられる。
柳下水は、清寿院の中門前にあり、当院の供水として、また将軍家上洛のときには、
その飲用水として用いられたとも言われる。
(名古屋市教育委員会)説明板より。
(大須・総見院山門)
(大須総見院・説明板)
*大須「総見院」
住所=名古屋市中区大須三丁目23-38
大須・総見院は、景陽山と号し、臨済宗。
初め伊勢国大島村にあって、西明寺といったが、天正年中(1573~)、
織田信雄(のぶかつ)が父信長の菩提のため、清須(現在・愛知県清須市)に移し、
僧・忠嶽を開山として今の寺号に改めた。
慶長十六年(1611)清須からこの地へ移建した。
寺宝に信長公ゆかりのものが多く織田信長公画像はじめ九点が県指定文化財である。
なお、明治四年(1871)ここで、わが国初の博覧小会が開かれた。
(名古屋市教育委員会)説明板より。
*信長塀(熱田神宮境内)!
*信長塀(説明板)
*熱田神宮! 境内・信長塀!
住所=名古屋市熱田区神宮
*信長塀は、永禄3年(1560)に、織田信長が、桶狭間出陣の際、
当神宮に願文を奉し、大勝したので、その御礼として奉納した塀である。
土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。
三十三間堂(京都市)の太閤塀・西宮神社の大錬塀と並び、
日本三大塀の一つとして名高い。(説明板より)