*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *名古屋城!     *名古屋市編!

2018-03-29 | Weblog

    

大手門前碑          大手門

 

     

西南隅櫓&天守     本丸御殿復元

 

   

本丸御殿表書院        表書院

 

   

御殿対面所            対面所

 

障壁画・重要文化財

 

障壁画・重要文化財

 

名古屋城天守!

*慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって「徳川家康」は、「加藤清正・

福島正則」ら、西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。 

これを天下普請と言います。天守や櫓の作業(建築工事)は「小堀遠州・

中井正清」らに命じられ、慶長17年(1612)にほぼ完成しました。 

尾張初代藩主として「徳川家康」九男の、「徳川義直」が入り、以後「名古屋城」

は、御三家筆頭尾張家の居城として栄えました。

*明治維新後も「名古屋離宮」としてその美しいたたずまいを誇った。

「名古屋城」は昭和五年(1930)城郭建築における初めての、

「国宝」に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲によって、

「天守・本丸御殿」のほとんどを焼失しました。 しかし、名古屋のシンボルと

 して天守の再建を望む市民の、声は日に日に高まり、

 昭和34年(1959)ついに天守が再建されました。

*名古屋城「本丸御殿」は、文献や古写真、実側図、障壁画など多数の、

  豊富な資料が残されており、史実に忠実な復元が可能であるため、

  平成21年(2009)に復元工事に着手しました。

  全体の公開は平成30年(2018)を目指しています。

*名古屋城案内パンフレット! より!

 

                                                                                                

金シャチ実物大    金シャチ・レプリカ

 

       

 清正石      清正石説明板

 

 天守石垣刻印名・(北東角石)・「加藤肥後守」

*石垣工事は天下普請として、西国・北国などの「豊臣系大名」二十名に割り当て

られたため石に担当武将の目印が刻まれ天守の石垣は「加藤清正」の担当であり、

「加藤肥後守」などの文字が彫られている。

    

加藤肥後守説明板   天守石垣

  

 天守石垣強度調査中 

 

(名古屋城天守炎上)

(名古屋空襲・昭和20年5月14日)

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *美濃伊木山城! *岐阜県各務原市編!

2018-03-01 | Weblog

伊木城・北側・登り口

 

     

伊木山登り口   登り口説明板

 

   

説明板         登り口

 

    

登り口            説明板

*伊木山城跡!     

住所=岐阜県各務原市鵜沼1492-1

  木曽川の北岸に横たわる「伊木山」は、別名「夕暮れ富士」とも呼ばれ、

  川面に映える美しい山容で有名です。

  山頂(標高173m)からは木曽川を眼下に濃尾平野を一望し、

  西方は岐阜城を遠望する戦略的に重要な地でもあります。

  この伊木山には、戦国時代の永禄八年(1565)、

  「織田信長」が美濃攻めの際に城を築いたとも言われていますが、

  江戸時代に書かれた「美濃雑事記」には、「伊木長門守正久」が、

  天正年間(1573~1591)に居城していたとされ、あるいはまた、

  濃陽志略」という書物では、「池田信輝」の家臣「伊木清兵衛(正久の子)が、

  城を築いたと記されています。

  こうした伝承・記録から、築城や廃城の時期は不明ですが、

  伊木城は江戸時代に「池田家の家老をつとめた「伊木氏」の、

  伊木城あったことがわかります。

*伊木氏は、木曽川を基盤として活躍した一族で、

  こうした豪族たちは「川並衆」と呼ばれていました。

  木曽川の水運と多くの配下を掌握して勢力を振るった伊木氏は、

  のちに「織田家」に属して各地に戦い、戦国時代を生き抜いて行きました。

  現在、城跡と推定される遺構は明らかではありませんが、

  かつて頂上には東西六間(約11m)南北四間三尺(約八m)の、

  石垣台形(天守台)がありました。 

*各務原市教育委員会 説明板より。

 

*伊木山城(伊木山ガーデンより遠望)!

*美濃伊木山城! 

 住所=岐阜県各務原市鵜沼丸子町3-15(各務原森の駅・伊木山ガーデン)

     伊木山にあった「伊木山城「砦」も対岸の犬山城(国宝)と鵜沼城(城山)

 とのつなぎの城として、重要な働きをもつていました。  

 永禄七年(1564)織田信長は、東美濃へ攻め込むための足掛かりとして、

 この地に攻撃し、勇将・「大沢次郎左衛門(鵜沼城主)を中心とする

 「斉藤(美濃戦国大名)方の抵抗にあい苦戦しました。

 そこで「織田信長」は策略家であった家臣「木下藤吉郎・(後の豊臣秀吉)」に、

 鵜沼城と、伊木山城(城主・伊木清兵衛」の攻略を命じました。

 松倉(川島町)から「摩免戸・(前渡)」へ進軍した「木下勢」は、

 摩免戸(前戸)で二手に分かれ、一隊の「蜂須賀隊」は木曽川ぞいを

 通って伊木城へ向かいました。

 この隊の「蜂須賀小六」は「伊木清兵衛」と親しい間柄であっため、

 木下藤吉郎の書状を見せて、本意を伝えることで、戦わずに伊木勢を木下勢に、

 引き込むことに成功しました。摩免戸(前戸)から内陸道を通って進軍していた木下隊は、

 幅上(鵜沼羽場町)で、この知らせを受けたとされています。 

 その後、勢力の衰えた大沢勢は木下勢に攻め落とされました。

 この地域を制した「織田信長」は、伊木山山頂(173m)を、

 美濃や尾張地域の見張り場としていた。