*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史街道!     *清須市編!     *美濃街道・総見院(織田信長公・菩提寺)!

2016-10-30 | Weblog

   

清洲市総見院碑   本堂

 

  

織田信長公

&徳川義直公供養塔  

 

      

供養塔    塔婆

 

       

信長公肖像画   焼け兜信長所用

 

       

焼け兜復元    総見院前説明板      

*美濃街道・総見院(織田信長公・菩提寺)   

 住所=清須市大島1丁目5-2

*総見院(信長公菩提寺)は、清須市の北端にあるこの寺は、最近まで、この美濃街

道から、「織田信長公・由緒地」の石柱碑と参道が見られた。

この寺は清洲城主時代の織田信雄(のぶかつ)が父・「織田信長」の菩提寺として、

桑名大崎の安国寺を引取り、「総見寺」を建てたのが始まり。

清洲城越しで、名古屋大須に移った後、江戸時代の正保元年(1644)

総見寺和尚の、隠居所を兼ねて尾張藩祖「徳川義直」が清洲の旧地に、

「総見院」として、建てさせたものである。 信長・義直の位牌や、

信長・義直の墓碑祭る。本能寺の変後に、信雄(のぶかつ)が探し当てたという

「信長着用・焼兜」が、保存されている。

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *清須市編・美濃街道!     *清洲城!

2016-10-28 | Weblog

   

清洲城天守遠景     清洲天守 

 

  

清洲城碑前     天守前

 

    

信長公敦盛舞      古城碑

 

  

清洲城碑前     信長公碑

 

  

本丸跡信長像   信長公像

*清洲城・美濃街道!    

住所=清洲市古城479-1(ふるさとのやかた)

*清洲城は、織田信長の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ、

天下平定を目指す武将が重要拠点していた「清洲城」。

平成元年(1989)に現在の場所に「清洲城天主閣」として再建整備されました。

*美濃街道は、熱田宿(宮の宿)で東海道か分岐し、

名古屋・清洲・稲葉・萩原・起宿を経て、木曽川(起こしの渡し)、

境川(岐阜県小熊の渡し)、長良川を渡り更に、墨俣宿を経て、

揖斐川(佐渡の渡し)を船で通過し、大垣宿から垂井宿に至っ中山道に

合流するまでの、十四里二十四町十五間(五十七,五キロ)里程であった。

街道には十三ヵ所の一里塚を設けて、里程を明らかにし、宿場と宿場との間には、

休憩所として十二ヶ所の立場が置かれており、通行には二日間を要した。

*慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時、東軍の先鋒を務めた「福島正則」は、

 出陣にさいして、清洲城から美濃街道(美濃路)を西進している。

 また、この合戦において勝利を手にした「徳川家康」が凱旋にあたり、  

 美濃街道(美濃路)を通ったため、美濃街道は「吉例街道」とも呼ばれた。

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *岐阜街道・美濃街道・四ッ家追分!

2016-10-26 | Weblog

  

岐阜街道・碑      美濃街道・直進

 

  

四ッ家追分・碑      長光寺前碑 ・道標

*岐阜街道・美濃街道・四ッ家追分碑!   

 住所=稲沢市井ノ口町5165

*四ッ家追分は、「岐阜街道・美濃街道」を起点として、

 下津・赤池・一宮市・木曽川町を経て、一宮市北方町から、

 木曽川を渡って岐阜県に入り、笠松町を経て、「岐阜市内」に至る道です。

 *美濃街道(美濃路)は、四ッ家追分を西に進み、JRの踏切を渡り、

 長束・稲葉宿を経て、一宮市の高木に入り、萩原宿・起宿となり、

 起の渡船場で木曽川を越えて、岐阜県側に入り、正木輪中を通り、

 大浦・不破一色・墨俣宿に至る街道です。

*道標は文政二年(1819)にこの場所に建てられていた。

 現在は長光寺山門前建てられている。

  右 岐阜道浅井道

  左 京都道大垣道

  文政二年己卯十二月立

  施主 港屋源九郎

          中屋源左エ門

   「右 ぎふ道浅井道」とあるのが岐阜街道で、

   「左 京都道大垣道」とあるのが美濃街道(美濃路)である。

   四ツ家は美濃街道と岐阜街道の岐路にあたり、立場があった。

*「尾張徇行記」

  美濃街道ト岐阜街道ノ巷二アル出町ヲ四屋ト云、八戸アリ、

  ココは饂飩(うどん)ノ名物ニテ立場ナリ と記す。

*尾張名所図会」

 四ツ家井ノ口村と六角堂村の堺にあり起街道(美濃路)一宮街道(岐阜街道)の、 

 岐路なる故俗に追分ともいふ休茶屋数軒ありて人をもてなす、   

 温飩(うどん)を此茶屋の名物として商ふ「四ツ家うどん」として

 人々美せりと記す。 四ツ家のうどんは、つとに有名であった。

*この四ツ家を江戸時代全国を踏査して日本地図を作製した、

「伊能忠敬」が通っている。「伊能忠敬」は第七次測量の帰途、

 文化八年(1811)三月二一日に、一宮方面から下津・井ノ口・四ツ屋に入り

「起街道(美濃街道)一里塚(起・富田村)」まで計測し、四ッ半ニ終り、

「中食」を「中屋源左衛門」でとったとある。

(尾三測量日記)

 

   

 


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *岐阜街道・下津城!

2016-10-25 | Weblog

   

下津城跡        下津城跡2

 

  

下津小学校西側    下津城碑

*下津城跡・碑!    

 住所=稲沢市下津高戸町14-1付近

*下津小学校横に設置された歩行者用西側にある。

 碑文には、尾張守護代「織田敏広(織田一族・信長・祖)」の居城であって、

 永享四年(1432)足利義教(よしのり)も宿泊したと記されている。

 文明八年(1476)織田敏広は弟(異説あり)織田敏定に敗れ、城が焼かれて

 滅んだと書かれている。

  

 


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *岐阜街道・頓乗寺・芭蕉句碑!

2016-10-22 | Weblog

  

岐阜街道下津頓乗寺前  頓乗寺前

 

  

寺前碑(曹洞宗)  本堂

 

  

芭蕉碑      芭蕉句碑拡大

*頓乗寺・芭蕉句碑!    

 住所=稲沢市下津片町211

*頓乗寺伝によれば貞和3年(1347)僧明貞が自ら淨財を喜捨して開基となり、

 現在の住吉神社の東、鎌倉街道に沿って創建したという。

 旧字名で「旧跡」と呼ばれていた。

   当時は時宗の寺であったが、後に荒廃して寛永七年(1630)正眼寺一六世、

「天山和尚」に, よって再興され、禅宗(曹洞宗)となった。 

  その後、享保元年(1716)に火災にあって焼失。

 これを機に翌年、現在地に移転したものである。

 元中五年(1383)足利義満が関東館管領の状況を探るため富士遊覧を行っが、

 その往路で当寺に宿泊している。

*(明治の寺子屋)!

*この寺は幕末の頃、下津村の代表的な寺小屋であった。

 明治に入り学制発布されると、下津村義高「第八番不朽学校」として引き継れ、 

 

 

 

明治10年(1877)まで、本堂が仮校舎となっていた。

*芭蕉句碑!

「芭蕉句碑」=「雲折々に 人を休ます 月見哉」

 この石碑は寛政5年(1793)芭蕉の百年忌に句会を、

 開いた記念に建てたものである。


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *岐阜街道・赤池一里塚・昭和天皇御巡幸!!

2016-10-20 | Weblog

   

赤池一里塚跡碑     一里塚跡

 

  

昭和天皇御巡幸地  一里塚碑

 

  

陛下御巡幸地碑   赤池御巡幸地

*赤池一里塚・天皇御巡幸・碑!    

 住所=稲沢市赤池町中町52

*稲沢市四ツ家追分から下津、一宮、黒田を経て岐阜へ向かう「岐阜街道」の     

一里塚であった。この街道は「十六夜日記」や「源平盛衰記」などにも出てくる。

同所には昭和天皇の「御巡幸之跡」碑もある。

*昭和天皇の愛知県御巡幸の、赤池で農業御視察!

昭和二十一年(1946)十月、昭和天皇は戦災復興や地方産業御視察のため、

愛知県に行幸され、二十三日稲沢では大同毛織、旧国鉄稲沢操車場を、御視察の後、

赤池へおいでになった。 その後天皇は次の目的地「一宮市」へ岐阜街道をお召し、

自動車で向かわれた。

現在「岐阜街道」筋に「御巡幸之跡」と刻まれた記念碑が建っている。

*追記!

 朝堀り甘藷(いも)で有名な赤池の「大根畑と藷(いも)畑」の中で、

 早くから「むしろ」をしいてお待ちしていた群衆がお姿が見えるや総立ちとなり、

 

 

 陛下を取り囲み殿下いちいちお帽子をとられ、泥で靴やズボンの裾が汚れるのも、

 おいといひなく堀出した「甘藷(いも)」の前で「玉田好章(53才)・山崎正二

(35才)らに、「よくできているね!」と微笑まれたり、お腰をかがめて「稲穂」

 をお手にとり、御満足そうに側近を振り返りになるなど、明るいお姿であった。

 と当時の新聞は記している。

  


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *岐阜街道・一宮一里塚跡碑!

2016-10-15 | Weblog

   

岐阜街道一里塚跡   岐阜街道

 

  

一里塚跡      一里塚碑

*一宮一里塚跡・碑!     

住所=一宮市公園通4丁目26付近

*一宮一里塚は、富士神社(真清田神社・御旅所)境内の南西角に、

  「岐阜街道一宮一里塚跡」の、碑が立つ。


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *岐阜街道・一宮城!

2016-10-14 | Weblog

 

   

尾張一宮城跡     一宮城碑 

  

碑         城説明板

 

    

一宮城跡全景      全景2

 

  

伝馬通り祠     通り説明板

*岐阜街道・一宮城!     

住所=一宮市本町3町目

  一宮城は、「織田信長」に仕えた「関十郎右衛門」が築いたとされ、

  真清田神社の門前から続く街道沿いに位置した。

  堀が巡っていたと言うが、江戸時代には埋め立てられ、田になったという。

*伝馬通・秋葉神社の由緒!

この地に秋葉神社が祀られたのは、明治42年(1909)伝馬通りが開通して、

一宮城跡に隣接する由緒深いこの地に、大正8年(1919)

一宮初の木造洋館建築の尾西毛工組合の建物が竣工した頃ではないかと思われます。

以来この地は日本貯蓄銀行・協和銀行・あさひ銀行と幾多の変遷を経てきましたが、

神社を祀って街を守っていこうとした人々の心は変わりませんでした。

御神助のほどは定かではありませんが、ここ50年周辺の町々には、結構火災が、

ありましたが、この地域はありませんでした。      

*説明板より!

  

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *岐阜街道・真清田神社!

2016-10-10 | Weblog

       

尾張真澄田神社   神社碑

 

         

山門前         本殿

 

             

織姫神社碑     境内

 

    

七夕祭り     本殿

*真清田神社!(一の宮)   

 住所=一宮市真清田1丁目

*真清田神社は、国司が一番初めに参拝するお宮を「一の宮」といい、

  真清田神社は尾張の国の「一の宮」であった。

  大変由緒も深く、信仰も厚い神社として広く知られている。

  ご祭神は、「天火明命」で、天照大神の孫にあたる。

*一宮市民の守り神として崇敬されている「真清田神社」の祭神は、

 「天火明命(あめのほあかりのみこと)の母神「萬幡豊秋津師比売命」

 (よろずはたとよあきつしひめのみこと)は、太古から織物の神様ちして知られ、

  そのご加護により当地方の織物業が発達したと言われています。

  織物と因縁の深い牽牛・織女にちなんだ、おりもの感謝祭、一宮七夕祭りは、

  毎年7月にお最終日曜日をフィナーレとする木曜日から4日間、

  全市をあげてくり広げられる。

  昭和31年に始まった「一宮七夕まつり」は今では市民の最大イベントとして、

  根をおろしその飾り付けのけんらん豪華さは、仙台・平塚の七夕まつりと並び、

 「日本三大」七夕まつりの一つとして、称賛されるほどで

 130万人もの人出で賑わう。


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *岐阜街道・石刀神社!

2016-10-09 | Weblog

   

石刀(いわと)神社碑  神社碑

 

  

石刀神社本殿    境内全景

 

   

狛犬1         狛犬2

*石刀神社(いわと)!(岐阜街道沿い)!  

住所=一宮市今伊勢町馬寄字石刀2

*石刀神社は、今伊勢町(旧尾張国中島郡)に祀られる式内社で、

  旧社格は県社の神社である。毎年四月に行われる「石刀祭り」では、

  三輌の山車が曳かれる。「石刀祭りは、関ヶ原の戦い(1600)に向かう、 

 「徳川家康」が参拝した際に、社殿の破損と建物の一部が取り壊されてしまうが、

  慶長十三年(1608)に再建され、それを祝って始まったとされる。

  

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *岐阜街道・酒見神社!

2016-10-07 | Weblog

  

酒見神社前       神社碑

 

  

酒見神社説明板   境内

 

   

狛犬1         狛犬2 

  

神馬銅像      境内社務所

 

   

説明板       栄の井戸

 

  

説明板       碑 

*酒見神社!(岐阜街道沿い)     

*一宮市今伊勢町本神戸

*酒見神社は倭姫命が滞在した「中嶋宮」の跡とされ、元伊勢の一つとなっている。

 天照皇太御神のほか、酒造の神でさる「酒弥豆男神・酒弥豆女神」を祀る。

 本殿の裏に倭姫社があり、「倭姫」が祀られている。


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *岐阜街道・宝江の渡し跡!

2016-10-05 | Weblog

     

宝江渡し船跡碑     渡し跡碑

 

    

説明板       渡し跡碑2

 

      

岐阜街道        追分道

 

  

岐阜街道碑    宝江の渡し跡碑

*宝江の渡し跡!(岐阜街道)   

 住所=一宮市北方町河原屋敷字4

*宝江の渡しは、慶長5年(1600)8月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際、

 東軍の先鋒「池田輝政」は、一万八千の軍勢を率いてこの地に到着。

 木曽川の川越え遅々として進まず、北方の住人「高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門の、

 の機転により滞留なく渡河し、両名は恩賞を受ける。

 次いて、同十二年(1607)「徳川義直」藩主の時、岐阜街道を改修し、

 この地点から対岸への渡船を官道とした。

*岐阜街道(別名)鮎街道!

 慶長八年(1603)「将軍・徳川家康・秀忠」に鮎鮨を献上。

元和元年(1615)からは、毎年六月から九月まで、月六回鮎鮨を江戸城へ届た。

岐阜町のお鮨元から「加納問屋」を経て笠松問屋で受け継ぎ一宮問屋へと送られた。

*岐阜街道(別名・鮎街道)とは!(一口メモ)

 将軍の口に入る時に、食べごろ迎えるため、

 岐阜~江戸間の「鮎鮨献上」のルート旅!

  ①岐阜を出るのは夕方で、木曽川を午後六時半ごろ。

   夜中に尾張を(名古屋)を通過し、岡崎で最初の朝を迎える。

  ②二日目の朝は「日坂宿」

  ③三日目の朝は「蒲原宿」

   三島ー箱根ー小田原の十二時間に及ぶ、箱根越えをして、

  ④四日目の朝は「小田原宿」 その後、江戸城へ。  

   江戸までの所要日時は五日間であった。

 

       

 


 

 

   

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *お成り道・北方の渡し跡!

2016-10-04 | Weblog

   

北方舟渡し船跡    木曽川堤より岐阜城

 

  

渡し跡説明板   渡し跡説明板

*北方の渡し跡・お成り道!    

住所=一宮市北方町北方東本郷

*北方の渡しはかっては、対岸の円城寺へ渡る「清州・岐阜」間の幹線道路であた。

 関ヶ原の合戦の際、「徳川家康」率いる東軍の軍勢がここを渡って、

 「美濃」に向かった伝えられている。

 その後に、公の渡船は下流の「宝江の渡し」に移った。


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *徳川家康・お成り道!

2016-10-03 | Weblog

   

お成り街道       山門

 

  

お成り道      説明版          

*徳川家康・お成り道!   

 住所=一宮市北方町北方字宝行寺廻り82-1

*お成り道は、関ヶ原の合戦の時、「徳川家康」が通った往時をしのび、

尾張藩主は、交代するたびに「岐阜お成り」と称して、この道(曽根~北方渡しを、

通ったことに由来する!

慶長5年(1600)9月の関ヶ原の合戦の際、「徳川家康」が通った往時を偲び、

岐阜お成り道と称して岐阜を訪れることは歴代尾張藩主の重要な行事となつていた。

このお成りの行列が通った黒田で「岐阜街道と別れ、曽根東橋から「狐塚」を通り、

北方の渡しから対岸の「円城寺」に渡り、伏屋、三宅、上印食を経由して、

中山道までを「御成道」と呼んだ。


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *御陣屋道・道標!

2016-10-02 | Weblog

       

岐阜街道道標      道標2 

 

    

道標場所      道標

*江戸時代の道標!    

 住所=一宮市北方町曽根2-3付近

*代官所(陣屋)へ行く道と一宮へ行く道の分岐点にあり、「右」、ご陣屋・

 円城寺道、「左」、一ノ宮道と書かれている。

*黒田の旧字子新田で「岐阜街道」と分かれ、真っ直ぐに奥村用水を渡り、

 曽根の郷中に入って約100m行った所に曲りまた右に曲がる「鉤の手に、

 造られており、当時の戦略的な意図がうかがえる。その後、

 青塚神社横を通り妙性坊の前から代官所(陣屋)のある堤防が、

「御陣道」である。