豊中市ブログ「マチカネくんのとよなか草子」マチカネくんと魅力文化創造課職員が、豊中のさまざまな魅力を紹介していきます!

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明智光秀からの禁制を初公開!

2020年10月21日 | ちょっととよなか自慢

10月16日、17日、18日の3日間、文化芸術センターにて「明智光秀と豊中-古文書によむ和平への道のり-」

の展示を開催しました。

  

明智光秀といえば、現在、NHK大河ドラマで放送されていますね。本能寺の変で織田信長を倒したことで有名な、あの明智光秀です。

「その光秀と豊中が、どういう関係が・・・?」と思いますよね。なんと、光秀の古文書が、豊中市若竹町の渡邊家(江戸時代に村役人をつとめた家)に伝わっていたのです。そして今回、所有されている渡邊さんのご協力により、本能寺の変から5日後の天正10年(1582年)6月7日に出された、光秀からの「禁制」や、徳川家康、豊臣秀頼など、有名な武将が書いた古文書の“実物”を展示し、より多くのみなさんに見ていただこう!豊中との関りを知ってもらおう!とこの企画が実現しました。

 

この3日間は、豊中の歴史をよくご存じだけれど「まさか明智の書状が本当にあるの?」と興味を持って来てくださった人をはじめ、「明智光秀」に惹かれて友達どうしで来てくれた小学生(「本物があるん?やば~っ!!」と歓声を上げていました)、おじいちゃんとお孫さん、ご家族そろって・・・などなど、展示室がとても賑やかになりました。多くの子どもさんが見に来てくれて本当に嬉しかったです。光秀が大好きで2日間連続で見に来てくれた熱心な子もいました。

みなさん、ガラスに額を寄せ、400年以上も前に書かれた文書に見入っていらっしゃいました。

  

当日、子どもたちから質問をいただきましたが、すぐにお答えできなかったのでここで紹介しますね。

(社会教育課・文化財保護係の橘田(きつだ)さん、濱田(はまだ)さんに答えてもらいました~)

 

(質問1)禁制(きんぜい)は、本人の直筆ですか。最後の 花押(かおう)って何ですか。

(答え) 右筆(ゆうひつ:秘書・書記官のような人)が本文を書き、最後の名前および花押、または花押のみ、本人が書きました。花押は、平安時代から見られ、普通の文字・名前とは筆順・形状が異なり、花模様に見えるため「花押」と言います。花押は、その人物ごとに様々な形となります(明智光秀の花押、森忠政の花押など)。

若い時の花押、年を取った時の花押というように、同じ人物の花押の形が変化することもあります。また、武士用・公家用で、同一人物が異なる形の花押を使い分けることもあったようです。

花押の形から、その文書は誰が書いたのか、年代はいつごろか特定するヒントにもなるので、とても大事なサインといえます。


(質問2)用紙の、上半分にだけ文字が書かれているものと、用紙いっぱいに書かれたものがありました。何が違うのですか。

(答え) 紙を切ったり折ったりせずにそのまま使用するものを「竪紙(たてがみ)」、紙を横に二つ折にして折目を下にして書いたものを「折紙(おりがみ)」といいます。折紙は竪紙よりも、略式的、礼儀作法として低い形式となります。親しい人、身分的に下にある人に向けて書く場合に使われることが多いです。また当時紙は貴重なものだったので、折紙の何も書いていない部分を切り取って、返信用として使うこともあったようです。

文書の形からも、手紙を出した人・受取った人の上下関係・親密さが伺うことができます。


(質問3)禁制だけではなく、「豊臣秀頼の手紙」もありました。この手紙には何が書かれていたのですか。また、「黒印」が押されていましたが朱印とは何が違うのですか。

(答え)石蓮寺村(せきれんじむら:現在の若竹町)に、兵隊を募集する手紙です。なお、軍隊に加わるとあとで褒美をとらせる、と書いています。石蓮寺村には、大坂冬の陣の際に徳川家康からも禁制が出されていることから、豊臣秀頼も石蓮寺村を味方にしようと誘っていたのでしょう。

朱印が正式なもの、黒印は略式的なものという違いがあります。戦国時代から黒印が使われるようになり、私的な文書(手紙やお礼状)が多かったようです。

また、印判状(ハンコを押した書状)は戦国時代、幼くして大名になり「花押」が書けない子どもなどが使いはじめ、そのうち「花押」を書くのを面倒くさがった東日本の大名たちに広がったのが、ブームの始まりだそうです。



質問4)今西春房と結婚した「美津」のお母さん(明智光秀の妻)は、なんという名前ですか。またガラシャのお母さんは誰?(「麒麟がくる」を見ている女の子からいただいた質問です)

(答え) 「美津」のお母さんの名前は、残念ながら分かりません。南郷目代今西家の文書に、「南郷今西家譜」という家系図があります。この家系図は、江戸時代(享保15年・1730年)に書かれたものです。その家系図の「春房」の所に「婦美津 明智日向守之女」とあり、明智光秀の娘だったことが分かりますが、それ以外のことは不明です。

光秀の娘ガラシャの母親は、(木村文乃さんではなく)、妻木煕子(つまきひろこ)という女性で、光秀の正室です。煕子に関しては残っている古文書がとても少なく、生まれた年、いつ光秀と結婚したかなど分らないことが多いです。

 

いかがでしたか。「花押」って、今でいうサインだったんですね。同じ人でも年齢によって形が変わるとか、「黒印」「朱印」の違いや、ブームで広がっていった、なんておもしろいですね。長い年月を経て、現代にのこされた史料から、いろんなことがわかるんですね~。初めて知ることばかりです。

「禁制」のことも、もちろん初めて知りました。実物をまのあたりにして、はるか遠い昔、戦乱の時代に、自分たちの村を守ろうとした豊中の人に想いを寄せることができました。

 

3日間で686人もの人が見に来てくださいました。展示室がそんなに広くないので、並んでお待ちいただくこともありました。

こんなにたくさんの人に、たいへん貴重な史料である「禁制」を見ていただき、古文書をとおして、戦国時代の豊中の様子をかいま見ていただけたのではないでしょうか。

今後も、このような豊中に残る貴重な史料を紹介し、豊中の歴史に触れていただく機会やきっかけを少しでも多く創っていければなあと思いました。

                    

 

まだまだ、聞きたいこと、新たに湧いてきた疑問などあるかもしれませんが、その時はご遠慮なくお電話ください。

なお、文化芸術センターでの展示は12月20日まで続きます。今は、写真(複製)展示になっていますが、なんと、なんと

12月19日(土)、12月20日(日)の最終2日間、再度、”実物”を展示します

興味を持っていただいた人、もう一度見ておきたい人、どうぞお誘い合わせの上、文化芸術センター特別展示室にお越しくださいませ。