@Hidetoshi44 「日本人に合った動き」というものがあると僕も思います。体型とか体捌きの特殊性ということにとどまらず、表情とかボディランゲージとか音韻とか、あるいは集団に固有の死生観や宇宙観が「その集団にとっての最適な動き」を要求するということはきっとあると思います。
教育者としてまた武道の指導者としての長い経験から言えることは、「努力する能力」は恫喝や脅迫によっては決して成長しないということです。指導者に求められるのは「いつか『何だかわからないけどすばらしいもの』が発芽するに違いない。それまで待とう」という忍耐と期待です。
世の中には、「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がいます。この差異は個人の資質だけでなく、社会環境ともリンクしている、というのが苅谷さんの論のポイントです。「努力できない子ども」を「努力が足りない」と殴るのは「背が低い子ども」を「背を伸ばせ」と殴るのと変わりません。
メリトクラシーというのは、努力するものに報いる制度です。それは「誰でもその気になれば努力することができる」ということを前提としています。しかし、「その気になれば」というところに落とし穴があります。
問題は、体ではなく心である。人を責め、追求し、他人の過ちのために自分の労力を消費するが如きのことをなさず、自分を楽しくし他人を快くすることの空想を、いつも心の中に拡げて生きることが養生というものである。
松本市公民館運営審議会委員の一人として、3月に答申を提出します。3部会に分かれて、それぞれの答申をまとめていくのですけれど、僕は第二部会長。あらら、大丈夫かしら‥。文書、苦手なのです。
それとは別に、松本市長or副市長へのプレゼンもあります。これは松本市政策課からのご依頼で、松本市で『地域づくり活動』をおこなっている5人がピックアップされ、その中に入っています。別々の活動をしている5人が、どのようにプレゼンすることになるのかわかりませんが、またとない機会。
赤ん坊の声を聞いていると、大人の声とはずいぶん違うものだと痛感します。大人は『話す?読む?歌う』ために声を使用していますが、赤ん坊は『声で伝える』ことをしています。自分のしてほしいことを、声でしか伝えられない。その泣き声たるや、大人のように生ぬるい感じがないんですね。
赤ん坊の声を聞いていて、とっても参考になることがあります。明らかにわかったこととしては、赤ん坊の声は、『話す?読む?歌ううえでの声の参考にはならない』ということです。
赤ん坊の声は、『泣くための声』といっても間違いではないかもしれません。
大人の声を変えていくうえで、『言葉から声を離してあげる』ということが大切だということは、再認識しました。
『歌声』を変えていくのならば、『歌』と『声』というように離してあげてからでないと、歌声は変わりにくいでしょう。
多くのヴォイストレーニングが、歌の練習の中に入れられてしまっていることに問題があるのではないかと思います。
『歌声(歌う)』ならば‥?歌 ? 音楽?声 ? 体育ヴォイストレーニングとは、体育であるはず。声がより良く出てきてくれる『身体操作』を知り、身につけていくことが必要でしょう。
意識は、脳にあります。無意識を含む心は、身体にも広がっています。そして、他人とのつながりも、心の大切な要素です。私は、そうやって広がって行く。 RT @ZION0918 ずっと考えてもわからないのですが、「こころ」は身体のどこにあるのでしょうか?
そうかもしれない^ ^大人も理解してもらえる表現をしていく必要がありますね。“@yuntsjima: 表現力は赤ん坊の方が優れてるかも。言葉で伝えられない分、表情や泣き方、動きで頑張ってる!!親はちゃんと理解する(*´∇`*)”
たとえば小学生で高等学校へ行ってもおかしくないような数学の能力がある人間は、どんどんやればいいんです。それは絵が上手な人間がどんどん絵を描くのと同じでね。それはやってもらったらいいんですね。平等にする必要はないんですよ。amzn.to/nL6yXu
インフルエンザ陽性、はい抗インフルエンザ薬みたいな条件反射的医療をしている医師が多すぎる。我が愚妹もインフルエンザですぐに抗インフルエンザ薬を処方されてた。リスクが少ないのんだから葛根湯だけで経過を見ればいいのに
お疲れ様です。乾杯^ ^“@teruhikosaigo: 2Hドラマ終了。いろんな意味で勉強させてくれた仕事だった。ちょっと呑もか!”