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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

雪風ハ沈マズ   強運駆逐艦 栄光の生涯

2021年01月14日 08時05分24秒 | 読書・戦争兵器
東京:光人社
1983年06月

4連装61センチ発射管2基。
8門から発射される93式酸素魚雷は、3発命中すれば戦艦といえども倒す力を持っていた。

世界に冠する93式酸素魚雷の射程は3万2千m、米は8千、英は9千5百mで、しかも無気泡で走る。

駆逐艦では、砲撃を続けながら魚雷を発射することは難しいとされている。
振動が魚雷の調定を狂わせるおそれがある。

89式12.7センチ高角砲の最大射程は14,600mであるが、仰角をかけて飛行機を狙った場合、最大射高は9,440m、有効射高はせいぜい6,000mとされている。

駆逐艦では、砲戦は魚雷戦の後と相場が決まっている。

このとき「翔鶴」艦橋にあって、声をからして操鑑の号令を発していたのは、南雲忠一長官自身であった。25ミリ機銃の曳航弾が、赤や青の光の筋を曳いて米機に吸い込まれてゆく。しかし、そのアイスキャンデーの束を冒して、敵機はつぎつぎと急降下し、高度200mまで肉薄し、投弾すると、キューンという金属をかき切るような音を残して引き起こし、南の空へ去ってゆく。
最初の三弾は、長官必死の操艦によって回避し得たが、第4弾はついに中部発着甲板に命中、つづいて三弾が、高角砲台、飛行甲板、格納庫等に命中し、「翔鶴」は火災と白煙に包まれた。

4発の爆弾は、発着甲板後部、格納庫中部、後部高角砲台および機銃砲台全部を破壊し、修理に数ヶ月を要するものであったが、奇蹟的にも、爆弾はすべて機関室にいたる手前の装甲鈑で食い止められたので、機関長は速力31ノットを艦橋に報告していた。

米空軍は、最新の爆撃法によって日本軍を痛撃した。
それは「スキップボミング」という妙な爆撃法であった。
文字通りに訳すれば「はね返り爆撃法」ということになる。
最初、見張員たちは「敵機は海面に爆弾を落としてゆきます」と報告していた。

海面すれすれに近い30mくらいの低空で、226キロ爆弾を投下する。
爆弾は目標の手前10mくらいで水平に海面を打ち、飛び魚のように、ジャンプして輸送船の胴腹に当たって爆発するのである。これは、輸送船のように低空で接近する機に対抗する機銃の少ない船には非常に有効であった。

魚雷を近距離で発射すれば、深度調整の時間がないために艦底を潜ってしまう。
そこで反跳弾が考えられた。

午後は休業、音楽許可となり、レコードの流行歌が艦内を流れる。
また戦時給与も渡され、ビール2本、タオル、石鹸、菓子等も配給される。
近く手紙が出せるというので、夜、涼しくなってから、郷里の両親などに5通書いた。
いつも遺書の積りだが、何べん書いても死なないので近況報告に止める。

なお、この海戦に参加した「天霧」はこの後、アメリカ大統領・ジョン・F・ケネディ中尉の魚雷艇と衝突、ケネディらを漂流させることになる

敵機雷を考慮し、水深40mの所を航行する。
磁気機雷のため、海底に敷設された機雷の上に艦がくると、電流が通じ、大爆発を起こすのである。

今日は大きな魚が手荒く釣れる。
とうとう道具を切ってしまった。
あれが上がれば艦長賞は間違いなしだったのに残念である。

61cm、3トンの93式酸素魚雷は生き物の如くに暗黒の海に躍りこむ。
各連管4本、計8本が「死の使い」になって敵艦隊に肉薄してゆく。

見よ!遠ざかりつつある敵艦から、パアッと大火焔が吹き上がる。
鋭い閃光と巨大な火焔が漆黒の宙天に向かって噴き上がったではないか。
その光が消えぬうちに、また噴火口の爆発のように大火焔が宙に舞い上がる。
「命中!命中!」
次発装填も一時中止で、各員この戦果に見とれ、93式魚雷の威力に、いまさらの如くに感嘆。

敵の駆逐艦には次発装填装置がないというから、2回目の一斉電撃を加えたら驚くことであろう。別の艦隊だと思うかもしれない。

「神通」は宿命の艦で、昭和2年8月24日、島根県美ヵ保沖で、夜間戦闘訓練中、駆逐艦「蕨」と衝突して艦首を破損し。「蕨」は艦体が二つに折れて沈没し、多くの死傷者を出し、「神通」艦長・水城圭次大佐は責を負って自決した。「美ヵ保事件」と呼ばれる事件である。

あの駆逐艦の墓地ソロモンへ・・・。
いずれの艦が、また帰投できず、骨を海底に埋めるのだ。
今晩は各科全員、先日の戦いの慰労会である。
水雷科は、斉藤水雷長がビール2箱をおごってくれたので、大いに飲む。
酒保からはどしどしビールと日本酒の一升瓶が運ばれ、歌え躍れ、しばしの狂演、明日を知れぬ命だ、やれるとき大いにやろうというわけだ。

ここで「雪風」は、激化する対空戦に備えて三度目の対空装備を行った。
後部の三番砲塔を撤去して25ミリ三連装二基を装備し、待望の電探も二基とりつけた。
「うむ、これで本艦も、夜戦時に敵の電探射撃で闇討ちを喰らうこともないし、飛行機も早めに発見できるなあ・・・」
14門の25ミリ機銃(艦橋前部二門、中部6門、後部6門)
とくに、12.7センチ主砲が6門から4門に減ってしまったことも、巡洋艦や駆逐艦が相手のときは心細い感じであった。

航海科員は見張りのために、いつも眼を皿のようにして通称3.0といわれる視力に物いわせて頑張ってきたのであるが、やっと米軍並みに、「雪風」にも電探が備え付けられるようになった。

電探は、低高度に対しては効力が弱いという。
ノースアメリカンB-25のように低空で潜入してきた場合、果たして開発されたばかりの13号電探で探知できるものであろうか。

心配を吹き飛ばすような快事が「雪風」に巡ってきた。
それは、水雷界きっての豪傑艦長「寺内正道少佐」が「雪風」艦長に発令されたことである。
寺内艦長は「雷(いかずち)」時代からすべて強運であった。
「『雷』はタマを喰っても沈みゃせん。なぜかというと、ワシが艦長をしておるからじゃ


「それみよ。アメちゃんのタマは、ワシの艦には、よう当たらんだんべえ」
と、栃木弁で、平然と艦橋から空を見上げていた。
酒豪で体重は90キロあって、見事な髭。

小沢艦隊
グラマンF6Fヘルキャット
『マリアナ沖の七面鳥狩り』と言われるほど、ばたばたとわが攻撃隊を撃ち落した。
その上、敵艦の対空火器は、飛行機の近くで炸裂するVT信管という新兵器を登場させて日本機をさんざん悩ませた。

「機銃、撃ち方はじめ!」
14門の25ミリ機銃が火を吐く。
敵機はカーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機である。
グラマン・ヘルキャット戦闘機も同行している。

してやったりと、こんどは戦闘機4機が「雪風」を襲ってきた。
このとき、艦橋から「照射用意!」という号令がかかった。
おや、まだ明るいし、敵艦も見えないのに・・・。
すぐに探照灯の光で、敵機のパイロットに目つぶしを喰わせる戦法であるとわかった。

すでに1,000mくらいに迫っており、25ミリ機銃の曳航弾が面白いようにグラマンに吸い込まれてゆく。二番機がパッと火をふいて錐揉みになって海面に落ち、3番機も同じ運命を辿る。

「それにしても『あ』号作戦という名前がよくない。
あっ!あっ!といっているうちに、空母が沈んで、あっけなく終わってしまった」

因島から呉に戻った「雪風」は、再び対空兵装の強化を行なった。
25ミリ単装機銃10門を両舷の前中後部に、13ミリ単装機銃4挺を後部両舷に増備し、これで総計25ミリ24門、13ミリ4挺ということになり、空に毛を逆立てたハリネズミのような姿となった。

このとき来襲した米機動部隊ぼ第一波は、ボーガン隊のグラマン・ヘルキャット戦闘機21、カーチス・ヘルダイバー急降下爆撃意12、グラマン・アベンジャー雷撃機15.
北東に進む栗田艦隊に対し、米機は太陽を背にして90度方向から接触し、距離2万mで3隊に分かれて急降下で突入してきた。

「大和」が、距離15,000mで高角砲の砲門をひらいた。
米機は、第一部隊の熾烈なアイスキャンディーの間をくぐって、3隊がそれぞれ「大和」「長門」と「妙高」を狙って突っ込んできた。

まず「大和」の右後方にいた「武蔵」がやられた。
爆弾一発が一番砲塔の天蓋に命中して跳ね返り、2発が至近弾、ついでに雷撃によって1本が右舷後部に命中したが、速力を減じるほどではなかった。

「どうもでかいフネは、タマが当たりやすい。
ところで本艦の方にはいっこうやってこんな」

「武蔵」には16機が来襲し、爆弾2個の直撃をうけ、5個が至近弾となった。
つづいて雷撃隊が6本の魚雷を発射した。
このうち3本が左舷中部に命中、「武蔵」は速力を20ノットに減じ、艦首が少し下がり、落伍しはじめた。手負いで速力の減じた「武蔵」は、今回も攻撃の目標にされ、5本の魚雷と4発の命中弾を被り、被害は甚大となり、艦首は水面近くまで沈み、速力はさらに低下していった。

続く攻撃で、「大和」は、前甲板に水線下に達する徹甲弾のような爆弾の直撃をうけ、浸水が3,000トンに達した。そのため左舷3.5度に傾斜したが、注排水によってほぼ復原し、航行に支障はなかった。

「武蔵」の防空指揮所の右舷に命中した爆弾が、第一艦橋で爆発した様子であった。
この一撃で猪口艦長は重症、航海長・仮屋実大佐、高射長・広瀬栄助少佐、側的長・山田武男大尉らは戦死している。

武蔵を案じながら、ブルネイ湾での1つの情景を思い浮かべた。
「なんで前線にゆくのに塗装をするんだ?」
「どうせやられるんだから帰ってからやればよいのに・・・」
「それとも死に化粧というのかなぁ・・・」
それも、いまとなってみれば、猪口艦長が、死を決しての覚悟を示したものかもしれなかった。

それにしても、なぜ米機は来なくなったのか・・・?
東へ進む「大和」の艦上で、東の空を見上げながら、栗田長官は不審の面持ちを隠しきれなかった。

ハルゼー大将の意向は次のとおりである。
「よし、明日はオザワのズイカクと決戦だ。
もうヤマト型もやっつけたし、クリタの艦隊は退却しつつある。
わが機動部隊は、全力をあげてオザワの空母を攻撃すべきだ」
この判断のもとに、彼は第三艦隊の全空母と戦艦等に北上を命じたのである。

「大和」は前部砲塔6門が距離3万2千mで初弾を発砲した。
6発の46cm砲弾が唸りを生じて敵空母のほうへ飛んでいった。
続いて「長門」「榛名」「金剛」の順で発砲した。
水雷戦隊は、3万mではとてもタマが届かない。
ひたすら前進するのみである。

「大和」の司令部は、敵空母は全部で6隻であることを確認した。
「大和」が敵艦に対して主砲を撃つのはこれがはじめて(そして最後)であるが、初弾の弾着は残念ながらよくわかっていない。
とにかく、でかいタマが、付近に水柱をあげたので、米空母群が驚いたことは事実である。

敵駆逐艦が必死になって空母を護ろうと煙幕を展張し、その間から砲撃してくる。
そのさまは敵ながら見事であった。
敵弾はわが隊に集中し、各艦の周囲には、美しく、赤、黄、緑などに着色された水柱が昇った。まるで海中からアイスケーキを突き立てたように、ニョキニョキと立ち上った。

93式魚雷1発を喰らったら、ブリキ張りの駆逐艦ではひとたまりもない。
射点確保のため直進した。
「魚雷のは馳走時間は、ちょうど10分だ」
駆逐艦の魚雷で空母に止めをさすなどということは予想もしてなかったので、嬉しさでいっぱいであった。

110号艦:「信濃」
搭載機47、乗員2,400、速力27
世界最大の空母、空母に改造
東京湾内で試運転を行ない、21ノットの速力を記録した。
これは罐(かま)が予定の三分の二の8罐しか完成していなかったためである。

マリアナは奪われ、東京空襲は必至と考えられ、「信濃」の東京湾在泊を危険と考え、瀬戸内海に回航するのを至当とし対策を練っていた。
阿部艦長はどのようなコースをとって米潜をまくか、各駆逐艦長と会議をもつことにした。

護衛駆逐艦:「浜風」「雪風」「磯風」
阿部大佐は、考えに考えぬいた秘策を告げて、みなの意見を仰いだ。
「夕刻、横須賀を出撃して、夜の間に、潜水艦の多い遠州灘南方を、南寄りに航行して、翌朝、潮岬に達するようにしたい」
一方、駆逐艦側は、沿岸コースを強く主張した。
まず、お鬚の「雪風」寺内艦長が大声で言う。
「艦長、夜の航行は危険です。われわれ直衛駆逐艦は、レイテ沖で水中聴音器等を破損し、いまや肉眼による潜望鏡発見により見張りの方法がない。ぜひ、早朝出撃、昼間航行で米潜を避けるコースにしていただきたい」
阿部艦長はひとつうなずいたあとで答えた。
「しかし、昼間は敵機動部隊の空襲を受けるおそれがある。軍令部では、飛行機の護衛はつけないと決定しておるのだ」
「そんな無茶な・・・。世界一の大空母に一機の直衛機もつけず、駆逐艦3隻だけで外洋に出すなんて・・・」
「阿部艦長!ここは、昼間航行にしてください。昼間ならば、われわれの見張りの能力で、なんとか敵潜を発見して叩き伏せてみせます」
寺内中佐が、再度、力説したが、もう阿部艦長の肝は決まっていた。
「私も水雷屋だ。諸君の意見はよくわかる。しかし、敵機動部隊が接近する可能性が大である以上、夜間航行のほかはないのだ」

こうして「信濃」は、松山沖に向けて運命の海に船出することになった。

筆者は、昭和53年8月、ボストンに、「信濃」を撃沈した米潜「アッチャー・フィッシュ号」の艦長、「ジョセフ・エンライト少佐に会って詳しく話を聞いたが、この時刻、彼の艦は浮上して懸命に「信濃」を追っており、追った艦影は同号であった可能性が強い。

午前3時17分。後部にドスンという衝撃を感じた。「やられたか!」
最初の一発は、後部右舷冷却室で、他の三発はいま少しく艦橋よりで、計4発が「信濃」に命中した。わずか4本の魚雷であるが、水深3mでいずれもバルジの上端の少し上に命中したのが「信濃」にとっては不運であった。

「信濃」は徐々に右に傾きはじめた。
応急処置として必死の左舷注水を行なうが、まずいことに「信濃」は、完成を急いだため、各防水区画の気密が不十分で、浸水はつぎつぎに他の区画におよんだ。
夜明けごろに機関が停止してしまい、ようやく巨艦の運命は定まってきた。

三隻の駆逐艦で「信濃」を潮岬まで曳航する案がだされた。
しかし、7万トン近い巨体は、2隻の駆逐艦が全力をふるって引っ張っても、ほとんど動きをみせない。このときワイヤーロープが切れ、首を斬られ死亡する兵がでた。

「信濃」は断末魔の巨象のように、右に横倒しになり、艦尾から沈みはじめた。
水深下にとりのこされている機関科員の運命であり・・・
ついに残っていた艦首を大きく空中に突き上げ、急速に水中に没していった。

「信濃」が沈むと、三隻の駆逐艦は、乗員の救助に忙しくなった。
「おい、艦が沈むと、あのように若い兵隊は助けてくれ、助けてくれ!とわめくが、泣き叫ぶ弱虫は拾っても役にたたん。平然としているなるべく生きのよい、使えそうなのから拾ってやれ」
お髭の艦長も厳しいことをいう・・・。
と考えながら、後甲板に戻り、遭難救助にあたった。
たしかに泣かんばかりに叫ぶものと、平然としている二種類があった。

「信濃」の戦死者791名、生存者1,080名。
阿部艦長、中村航海長、安田少尉らは艦と運命をともにした。

特攻兵器「回天」は、93式魚雷にヒントを得て、19年3月に試作されたものは
「⑥金物一型」と呼ばれた。
排水量8.1㌧、全長14.5m、直径1m、速力30ノットで2万4千、20ノットで4万3千、10ノットで7万8千m、頭部炸薬1,600キロ。

三式弾は、対空用の砲弾で、弾丸の中には直径25ミリ、長さ70ミリの鉄管多数を内蔵し、その中には特殊焼夷剤を充填し、時限信管作動と同時にこれが点火され、飛散する。弾子(鉄管)は5秒間、高温で燃焼し、飛行機に損害を与える。弾体は弾子放出後、炸薬によって炸裂する。この三式弾は、「大和」の46センチ砲から駆逐艦の12.7センチ砲まで多くの砲に装備され、レイテ沖その他で大きな戦果をあげていた。

1232、「大和」の50キロに、ヘルダイバー急降下爆撃機、アベンチャー雷撃機、ヘルキャットを含む200機編隊がチャッチされた。
「対空戦闘!」
各艦でラッパが高々と鳴り響く。

この日の米軍の攻撃は、「武蔵」で戦訓を得たのか、なかなか鮮やかなものであった。
これは、シブヤン海のとき、「武蔵」の両舷から魚雷を当てたため、「武蔵」は平均して浸水し、なかなか転覆しなかったので、今回は、「攻撃正面は左舷」とあらかじめ戦法を決めてきたものらしい。
1241、450キロ爆弾2発をうけ、後部射撃指揮所、2番副砲等を破壊された。

「浜風」は火災を生じ、まもなく艦体が2つに折れて沈没した。
艦首が日本刀のように天を指した形になって沈んでゆく。

1320、30キロから第二波50機がやってきた。
1337、左舷中部に魚雷3発が命中し、左舷に8度傾斜したが、右舷に3,000トン注水して復原した。
1334、さらに魚雷2本が左舷後部に命中し、「大和」は鯱の群れに襲われた巨鯨のように咆哮した。この雷撃で、「大和」はまた左に15度傾斜したが、速力はなお18ノットが可能であった。
1415、最後の魚雷が左舷中部に命中、(計10本)これ以後、急に左舷への傾斜を深め、1420には20度、1423、前後部砲塔内の弾薬が誘爆して、大爆発を起こし、ついに沈没した。

第二艦隊司令長官・伊藤整一中将、艦長・有賀幸作大佐をはじめ、2,498名の乗員は、艦と運命をともにした。位置は、北緯30度22分、東経128度4分であった。
不沈といわれた巨艦「大和」が、第一波開始から、わずか1時間50分で沈没したのであるから。これはシブヤン海の「武蔵」よりかなり早く、この日の攻撃がいかに激しかったかを物語っている。

1450、「初霜」が「浜風」の生存者救助をはじめた。
「冬月」「雪風」も、「大和」の生存者を救助はじめた。
米軍の空襲はなかったが、飛行艇が2,3機やってきて着水し、米機の不時着搭乗員の収容をはじめた。米機は、海面に一面に浮いている日本兵を狙撃することもなく、日本の駆逐艦も米機を撃たなかったというから、そこには、赤十字の精神のようなものが流れていたとみてよかろう。

特別輸送艦「雪風」が誕生した。
「雪風」の艦側には、長い間、太平洋の波に洗われた「ユキカゼ」の代わりに、YUKIKAZEのローマ字が塗りつけられていた。いよいよ復員輸送である。

21年いっぱいで輸送艦の仕事を終わった「雪風」は、「特別保管艦」に指定された。
いよいよ賠償のために連合国側に弾き渡されるのである。

22年6月、「雪風」は、ついに中華民国へ引き渡しと決まった。
中華民国艦隊に入った「雪風」は「丹陽」(タンヤン)と改名された。

「雪風」の舵輪は、江田島の元海軍兵学校教育参考館に、多くの将士の遺品とともに保存され、錨はその庭に安置されている。




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