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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

銀の夜  角田光代/著

2021年01月23日 16時08分36秒 | 読書・文学


イラストレーター井出ちづる。夫は若い女と浮気をしている。嫉妬はまるで感じないがそんな自分に戸惑っている。早くに結婚して母となった岡野麻友美。自分ができなかったことを幼い娘に託し、人生を生き直そうとする。帰国子女で独身の草部伊都子。著名翻訳家の母のように非凡に生きたいと必死になるが、何ひとつうまくいかない。三人は女子高時代に少女バンドを組んでメジャーデビューをした。人生のピークは十代だったと懐かしむ。三十代となったこれからの人生に、あれ以上興奮することはあるのだろうか…。『対岸の彼女』直木賞受賞時に書かれた、女たちの物語。14年間埋もれていた傑作が、今、私たちの魂を揺さぶる。著者5年ぶりの長編小説。

女子高時代に少女バンドを組んでメジャーデビューをした三人は35歳となった。自分の人生に確かなものをつかみたい。生きる手応え、深い充実を求めてあがく女たち。14年間埋もれていた傑作が、今、私たちの魂を揺さぶる。著者5年ぶりの長編小説。

ルナの手を握り、足元に落ちている雑誌や新聞を踏みつけてリビングを出ようとした。
服を踏んだつもりが、その下にある何かかたいものを踏んでしまい、
「いたっ」と思わずよろける。
服をめくってみるとセラミックの大根おろし器が落ちていた。
「ちょっと信じられない!なんでこんなところに大根おろし器が落ちてんの!
踏んじゃったじゃないのっ」

「強い色をひとつ使うと、もっと強くなるかもね。いや、そういうことじゃないかな。
なんかこう、タイムセールで肉のパックをつかみ取るみたいに描けばいいかもね」
「はあ?」つづるは不快をあらわにした声を出した。
「主婦なんでしょ?主婦の人って、タイムセールで肉のパックをつかみ取るように群がったりするじゃない。ああいう感じよ。おれが言っているのはね」
「つまりタイムセールで肉のパックを奪い合うような気持ちで描いてみたらいいと、アドバイスしてくださってるんですね?」
つづるは笑みを浮かべず、できるだけ冷ややかに聞こえるように言った。
しかし泰彦はまるで動じず、
「あっ、タイムセールとか縁のない奥さん?だったらなおさらだなあ。ほんと、今度、対象商品を奪い合ってみ。わかるから、あのわけのわからんパワー」

この本での写真はハンバーグに添えられた人参グラッセほどの意味もない。

「詩人の詩集ならともかく、『貝殻に耳をあてて思い出す人魚だったころ』だもんなあ」
タレントの詩集の言葉は稚拙で、手垢にまみれていて、浮ついていて、無個性で、大げさで、ときに支離滅裂だった。
『私を愛していると 何度も言った あなたのやさしいその声』
決まりごとにならって詩の続きを諳んじてみせた。

看護師はアンケート用紙を伊都子の前に置いた。
「わかる範囲でいいので、書いてください」
わかることだけ書き入れていくと、「どんな性格ですか」という質問があり、長所と短所を書き入れる空欄があった。鉛筆を握ったまま、伊都子は宙を見据える。
わがままで、自己中心的で、すべて自分の物差しではかり、他人を許容しない、見栄っ張りで底意地が悪く、嫌なことがあるとすぐ根に持つ。人を平気でこき使い、それを当然だと思っている。欠点はいくつも思い浮かぶが、それをそのまま書いていいものかどうか伊都子は迷う。
迷った末、「わがまま、自己中心的、怒りっぽい、人の価値観を認めない」にとどめておいた。
入院生活を円滑に送るために必要な項目なのだろうから、やはり「人を平気でこき使う」も書いたほうがいいかと、考えていると、白衣を着た医師が入ってきた。

長所である。短所はいくらでも思い浮かぶが、長所を言葉にすることができない。
伊都子は背を丸め、長所の下の空欄に「強いこと」と一言書いた。

生きていなければ、私に「いなくなってくれればいい」と思わせることはできない。
自分は憎んでいたいのだ。嫌っていたいのだ。
憎み、嫌い続けるためには、母は生きていなければならない。

口からでまかせが勝手に出てくる。
そして出てきてしまえば、ずっと前から考えていたことのように、麻友美には感じられる。
「感受性の豊かな、やさしいお子さんなんですね」
浜野先生はそういってルナに笑いかけるので、麻友美はびっくりしてしまう。
引っ込み思案で内弁慶を、感受性豊かでやさしいなどと、翻訳されたのははじめてだったのだ。

千駄ヶ谷にる聞いたこともないギャラリーであること。
印刷された絵の魅力が、ちっともわからないこと。
安心しかけた自分に気づいて、麻友美は強く恥じた。
ちづるのことは好きだし、数少ない友だちだと思っている。
その友だちを見下して安心しようとするなんて。
それじゃなんだか、自分が退屈な女みたいじゃないか。
退屈で、無能で、人を妬むことばかりに力を費やす、馬鹿主婦みたいじゃないか。

伊都子は写真集を出版すると言っていたが、それとは少々趣の異なった本だった。
タレントの詩集で
「初の詩集!あなたを癒す、新鮮で清冽な言葉のかずかず」
伊都子の名は、タレントの名前の下に、ずいぶんちいさく印刷されていた。


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