N ’ DA ”

なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

スターリンの銀塊  ジョン・ビーサント/著 大蔵雄之助/訳

2021年01月27日 14時23分59秒 | 読書・戦争兵器
第二次大戦末期、Uボートに撃沈された米商船はなぜ「4億ドルの銀貨・銀塊」を積んでいたか?深海の財宝を引き揚げその謎に迫る。沈没船の財宝に取りつかれた男たちの夢と冒険を描く海洋ノンフィクション。

第1章 「沈船熱」
第2章 海洋グループ
第3章 お恵みください
第4章 ロウズヴェルトの隠れ蓑
第5章 ジョン・バリー号の謎
第6章 帰還なき処女航海
第7章 食い違う「証言」
第8章 マラッカ海峡の地獄絵
第9章 深海での捜索
第10章 銀貨ざくざく!
第11章 沈黙の海

イギリスは過去の記憶がなかなか消えない国である。
1939年9月にしぶしぶ戦争に参入したが、この国の政策立案者たちは軍事的に勝利できるかどうかもさることながら、長期戦の軍費に政府が耐え得るかどうかに苦慮していた。
第一次世界大戦にドイツとの死闘をまかなうためにアメリカから借りた莫大な資金のおかげで危うく経済的な独立を失いかけたことをはっきり憶えている者が多数いた。

例えばイギリスは1920年のワシントン軍縮会議で、アメリカの圧力によって海軍力の優位を放棄し、日本との長く続いた同盟関係を解消させられた。日英同盟は1914~18年の大戦の間にも日本海軍がインド洋と地中海でイギリスに代わって警戒行動をとってくれるなど実益があったのである。

第二次世界大戦開戦時に、イギリス政府は金・交換通貨準備は3年程度ならば十分で、アメリカに財政的援助を仰がなくても済むと考えていた。この予測に基づいてイギリスは国内で生産できない武器を大量にアメリカの業者に発注した。
しかし、1940年夏のフランスの降伏に先立って、ダンケルクの撤退で多くの戦車や火砲を失ったことと、アメリカ製の武器弾薬の消費が画期的に増大したことなどのために、蓄積外貨は急速に流出した。1940年夏に、イギリスの外貨準備はあと12ヶ月が限度だと推定された。
(皮肉なことに、この武器発注がアメリカ経済に「活」を与え、ほぼ10年続いた不況から脱した)

1940年7月にイギリス大蔵省のサー・フレデリック・フィリップスはワシントンを訪問して、ルーズベルト大統領およびヘンリー・モーゲンソー財務長官と会見した。
「この調子で武器を消耗すれば、今後1年以内にドル準備を使う果たすことになるでしょうから、イギリスが単独でナチスと戦いを続けるためにはアメリカの借款が必要です」

アメリカ政府は「使いきったか、またはそれに近い状態にあること」を立証しない限り、大型の借款協定を延長する用意がないことを伝えた。

開戦から1年後の1940年9月までに武器購入の総額は100億ドルに達した。
12月までに情勢は極めて重大となったために、チャーチルはフランクリン・ロウズヴェルト大統領に手紙を書いて、イギリスが一段と耐えがたい事態に直面していることを訴えた。
1940年12月8日付けのこの手紙は、イギリスの財政が破局に達していて、アメリカから供与されている物資の支払いができないことを率直に述べたのち、
「イギリス政府の処理可能の外貨保有総額の限度をしばしば超過しております。
いよいよ現金払いができなくなる時期が迫っています」と告げている。

全西ヨーロッパ世界を脅かしている独裁主義に対してイギリスが懸命に闘っているときに、借款を得たいのなら海外の資産を全部処理せよというアメリカの要求は理不尽である、とチャーチルは主張した。だが、哀願と身勝手なこの手紙もロウズヴェルトを動かすにはいたらず、チャーチルには返信は届かなかった。

これより1ヶ月前、イギリスの駐米大使ロウジアン卿はアメリカの記者団と会見してイギリスの立場を説明した。
「諸君、イギリスは破産しました。みなさんの資金を必要としています」
1ヵ月後、彼はイギリス大使館で倒れて急死した。

12月17日にロウズヴェルト大統領は初めて武器貸与法の構想を示したが、それは火事の隣人に消火用のホースを貸すようなもので、火が消えたら貸したものは返してもらうのだという例えを挙げて、大いに自国民の利益になることを説明した。
この武器貸与法案の名称は「合衆国防衛促進法」となっていた。法律が成立するまでの数ヶ月間に、イギリスは軍需物資を現金で調達せよ、というアメリカの圧力は容赦がなかった。

10月にチェコスロヴァキア政府(ロンドン亡命政府)から価格で750万ポンド相当の金の援助があった。続いてカナダ政府も援助を行なった。やはりロンドンに亡命していたベルギー政府が6,000万ポンドの価値の金を貸してくれて危機をやっと乗り切ることができたのは、1941年2月のことだった。

12月、ロウズヴェルト大統領はチャーチルに対して、イギリス政府が南アフリカに蓄えている金5,000万スターリング・ポンドを回収するために、アメリカの巡洋艦が現地に向かっていると緊急通報した。チャーチルは怒り心頭に発して、アメリカの行為は「無力な債務者から最後のひとかけらの財産までむしり取る保安官の仕打ち」に例えられるという電報を起案させたが、この抗議電報は結局発信されなかった。
それから、同じくロンドンに亡命していたオランダとノルウェー政府に金魂の借り受けを申し入れたが、両政府とも拒否した。

ロウズヴェルト政権はイギリスがアメリカ国内およびカナダと南アフリカの会社に投資している債権を売却することを熱望した。つまりこれによってアメリカ国民はそれらの株式を叩き売りの値段で買い取ることができるのだった。
1941年の初めにロウズヴェルトはこう友人に語っている。
われわれはイギリスという財務牛からミルクを搾っている。
かつてはこの牝牛はたくさんの牛乳を出したものだが、今では枯れたも同然だ


「イギリス市民がアメリカ国内に所有する動産、不動産、証券はすべて、現在イギリスが発注している製品の支払いにあてるために、今後12ヶ月以内に売却されることで合意が成立した。
売却対象は全資産である」
この声明のあとにも先にもチャーチルには相談がなかった。

1941年3月11日に武器貸与法が成立すると、イギリスがアメリカに借りていた100億ドルとこれ以降戦争終了までの間の発注分はすべてこの法律の保護の適用を受けることになった。

ロウズヴェルト・アメリカ大統領は戦争の最初の18ヶ月間はイギリスに対してまったく同情の色をしめさず、ひたすらアメリカの主義に基づいて行動し、自分をホワイトハウスに送り込んでくれた国民の経済的利益を擁護した。

武器貸与法が有効になった時点で、南アフリカの金鉱からイギリスが掘り出した金を回収するためにロウズヴェルトが別の巡洋艦をケープタウンに派遣したのもこの動機によるものだったであろう。

戦争が終わってイギリスの武器貸与勘定をしめてみると、なんと270億ドルという巨額に達していた。

武器貸与法が機能する半年前にチャーチルはロウズヴェルトとの「共通の橋造り」作業として、ドイツのエニグマ暗号機の解読に成功した実績を持つイギリスの高度に秘密の暗号解読センター、ブレッチリー・パークの先進技術をアメリカに自由に利用させるよう命令していた。
1940年の夏にイギリスの科学者サー・ヘンリー・ティザードはたった一度のワシントン訪問で、ハフダフとして知られる高周波方位測定システムとその他のレーダー技術、新しい爆破方法、磁性地雷の原型、ジェット・エンジンの開発に関する前人未到のデータを手渡した。

間単にいえば、武器貸与法は南北アメリカ大陸を超えた世界におけるアメリカという政治的、経済的な帝国の始まりを記録した。

==第四章 ロウズヴェルトの隠れ蓑==

「ロウズヴェルトは戦争の最後の2年間をソ連との特殊関係の構築に費やした
1995年3月19日、ジョン・チャームリー教授

「飛行機、戦車、火砲、艦船がわれわれの工場や造船所から流れ出し始めました。
この流れは日ごとに加速し、やがて川となり、激流となり、世界征服をもくろむ全体主義的独裁を飲み込んでしまうのです」

1917年にポリシェヴィキ革命がロシアを飲み込んで以来、歴代のアメリカ政府はソヴィエト社会主義共和国連邦の建設者、レーニン、トロツキー、スターリンを、「世界征服をもくろむ全体主義的独裁」というまったく同じ用語で一くくりにしてきた。
「赤の脅威」ということをアメリカ政府が述べるときの公式表現だった。

1941年6月にヒトラーがソ連を攻撃したあと、アメリカ政府は「敵の敵は味方」という考えを大急ぎで取り入れた。
アメリカが参戦するまでまだ5ヵ月半あったが、これを契機に武器貸与法によってモスクワに軍需物資を供与することになった。
「それらの国が敗北していれば・・・
われわれは自らを防衛するために武器貸与援助を与えたのです」

最も凶暴な敵さえもたちまち味方になった。
ロシアが「大祖国戦争」と呼ぶナチスの侵略に対して、ソ連国民が展開した英雄的な抵抗は、ロウズヴェルトの称讃を受けた。

「赤軍はベルリンまでの距離の半分以上に達しています。
1941年6月22日から1944年6月22日までの3年間にソ連軍は530万人という恐るべき数の戦死者と行方不明者を出す一方で、敵兵780万人を殺害または捕虜にしたと、ソ連政府は発表しています。アメリカが1941年10月から1944年6月30日までの間にソ連に送り出した15億ドル以上の工業製品や設備の援助の力で、ソ連は、軍隊のますます増大する要求に応じるために、生産力を強化しました」

「われわれは30万台のトラックおよび軍用車両をソ連に送りました。
1944年6月30日までにわれわれはソ連に339台の機関車と1,640台の無蓋貨車を輸送しました。
また45万トン以上の鉄道用線路と付属品、車両と機関車用の車輪および車軸をソ連の鉄道の再建と拡張とを援助するために発送しました」

「ソ連の通信システムのためにわれわれは150万メートルの野外電話線と325,000台の野外電話機を送りました。アメリカ軍事使節団随行の供給担当官はソ連の前線から、アメリカの輸送通信設備が東部戦線の成功に計り知れないほど貢献していると報告してきています」

「1941年10月1日から1944年6月30日までに11,000機以上の飛行機が飛行または海上輸送の形でアメリカからソ連に届けられました。主な飛行機は、
ベル・エアコブラP-39
カーティスP-40戦闘機
ダグラスA-20攻撃機
ノース・アメリカンB-25爆撃です。
連合軍戦闘機乗りのエース、ソ連空軍のアレクサンドル・ポクルイシュキン中佐はナチスの空軍機59機を撃墜しましたが、そのうち48機はベル・エアコブラによるものでした。
武器貸与の飛行機を操縦するソ連の飛行士に撃墜されたドイツの飛行機は、ヒトラーがフランスでわが軍に敵対されることはできなくなりました」

「ソ連への食糧の輸送は1941年10月1日以降で約300万トン、9億ドル以上に達しています。主なところでは、小麦と小麦粉58万8千トン、牛肉の缶詰51万トン、植物油35万6千トン、練乳と粉乳6万2千トンです。この食糧によってソ連は赤軍の給食を維持することができました」

アメリカ政府がソ連国民に対して与えようとしていた重大な援助の性格と規模に関するロウズヴェルトの演説は、半世紀以上を経過した今日でも驚くべきものである。

別添の報告書にはソ連向けに船積みを待っている豊富な産業資材がアルファベット順に一覧表になっている。アルミニウム、自動車部品、真鍮、青銅、ベアリング、薬品、建設資材、銅、切断工具、鉛、ニッケル、紙、プラスティック、ゴム、鋼鉄、ブリキ板と亜鉛板、その他。

連合軍がインド洋で潜水艦撃沈に成功した物語の主役は、童話の主人公のような暗号名「ハフダフ」という、潜水艦探知方式だった。奇妙な名前ながら、これはドイツの海軍戦略の強敵だった。ハフダフは「高周波方位測定」方式の頭文字をとったもので、船舶搭載の装置でUボートの電波を補足し、その正確な位置をブラウン管に映し出すものだった。そして、潜水艦を探知すると、破壊に必要な手段が動き出す。

U859の士気は高かった。
3万里の航続距離と24の魚雷発射管を持つ最新鋭の艦。

U859は「率直に言って、積荷過重だった」
「居住区でも兵隊は四つん這いでしか動けず、寝ころんで食事をしなければなりませんでした。まっすぐ立てるようになったのは、この長くて厳しい旅が終わりに近づいた頃でした」

U859は53人の下士官・兵とイェプセンのほか5人の将校を乗せていた。
この艦は、本国との連絡を維持する無線装置や敵の艦船の位置を探知する測定器などの最新の技術を備えていた。

北大西洋の冷たい海の中に23時間潜航していなければならず、毎晩11時に1時間だけ浮上することが許された。毎日長時間潜航状態で過ごす結果、兵員の健康は急速に悪化しはじめた。しばしば急激に気圧が下降して艦内は高度4,000mと同じように空気が薄くなり、鼓膜がおかしくなったり吐き気をもよおしたりした。
「呼吸する空気は汚れていて、一酸化炭素の毒性さえあったのです」
U859で唯一の生き残り将校:クラット機関長中尉

一方、温かい海域に移動するにつれ、兵員居住区で40℃、機関室で70℃、湿度95%となった。
シャワーは機関室で浴びたが、海水だったから当然垢は落ちず、その結果、皮膚がただれた。
喫煙は厳禁であり、これも相当な苦痛だった。

イタリアの降伏以降、ベニト・ムソリーニの将校団の大多数が、ドイツとの共同作戦中に得た情報を進んで連合軍に提供した。デーニッツ元帥は先に、アフリカ水域のUボートの司令官一同に対して、喜望峰を回航する連合軍の艦船を見かけた場合は、その情報を特別の暗号無線で報告するように命令を下達していた。ジャヌッチ大佐がイギリス軍に渡したのはこの暗号帳だった。このために、ドイツの潜水艦が特定の周波数で暗号を送信すると、イギリス軍は何のおとがめも受けることもなく、「盗聴」することができた。これを整理していくと、電波を発信している潜水艦の番号とだいたいの位置を確認することができた。

U859の優秀な位置探知機は空中の敵機だけでなく、水中の潜水艦につきまとう敵艦をも認識するようになった。イタリアの降伏後、スエズ運河が再開するにいたり、連合軍の軍艦は大西洋から喜望峰を経由するという長くて厄介な航海をする必要がなくなり、大量にインド洋に進出した。

われわれは24時間以上潜航を続けていたために、バッテリーはほとんど上がっていました。
各3,200馬力以上のディーゼルエンジン4基を点火し、速力を15ノットに上げて、同時に4台のバッテリーの充電に入りました。
目標は国際緊急周波数によるSOS信号を発信していません。
船長の秘密暗号帳は布袋に錘をつけて海中に投棄され、無線暗号帳は無線室の防水箱に入れたまま船とともに沈んだ。

ジョン・バリー号は1944年8月26日にアバダンに向けてアデンを出港した。
同船は、一般貨物のほか2,600万ドル相当の銀を輸送中だった。
アメリカのソ連向け援助物資は通常アバダンに荷揚げされて、ここから陸路か鉄道で輸送された。

==第八章 マラッカ海峡の地獄絵==

ASV:対潜感度

「哨戒行動に入ってから166日目であり、この間の航海距離は40,744キロに及んでおり、しかもその大部分の時間を極めて苦しい状態で過ごしたのです。22,000海里のうち、実に18,000海里は潜航状態で過ごしたのでした」

「水銀を入れた多数の金属容器があることを、まったくの偶然により私は知ることになりました。これはシマレーシア・ペナン到着と同時に日本側に引き渡さなければならないことになっていましたが、日本はこれを緊急に必要としているようでした。それぞれの容器は中身の重みで35キロありました。1つの容器の容量は、2.5リットルで、水銀は特に重いので1リットルが14キロに相当することを知りました」

クラット機関長は、この潜水艦の竜骨に日本向けの水銀の秘密の容器を発見してから不安が強まっていた。というのは、連合軍が諜報機関を通じてこの積荷のことを知っているとしたら、なんとしてもこのUボートが目的地に到着するのを阻止する努力を注ぐに違いないからだった。

マラッカ海峡の水面下をイギリス軍艦トレンチャントが獲物に迫りつつあった。
T級潜水艦はペナンに向かうU859を追尾していた。
ドイツの潜水艦が日本側に送った無線はすべて電波探知機で捕捉されていた。
イギリスは長い間インド洋のドイツⅨD2型潜水艦に特別な関心を持っていた。
300m足らずの距離で、トレンチャントの獲物はもう視界内にあった。
一発の魚雷をU859に発射した。
魚雷は速力15ノットで、喫水下3m弱で舷側に命中し、Uボートの司令塔の後部を破壊した。

「ものすごい音がしました。電気が一斉に消えて真っ暗になりました。U859号は身震いせずにはおれないほど嫌な音を立てて、ほとんどたちまち2つに折れました。潜水艦の内部から爆発音が起こりましたが、それはまるで兵員の叫び声のようでした。真っ暗で、溺れかけた兵士の叫び声が耳に轟きました。まさに地獄絵でした。激流が頭の上で荒れ回り、私は廊下に沿って泳ぎはじめました。」

U859の運命といえば、イェプセン艦長とその部下49人を閉じ込めたまま2つに折れて50mの海底に沈んだ。遺体と残骸は、祖国から遠く離れたこの海に今も眠っている。

だが、ドイツ政府が枢軸(すうじく)同盟国の日本を援助するためにこの潜水艦を投入した理由は、アーサー・ヘズレットはまったく知らなかった。
「1944年ごろに日本はある種の軍需品を製造する資材がまったく不足しているという話を耳にしたことがありますが、それがどういう種類のものだったかは知りません」

「左舷20度、距離2,500mに、護衛なしの敵潜水艦がいました。われわれは90度のコースをとっており、近すぎて雷撃が成功する見込みはありませんでした。その位置からだと魚雷は敵潜水艦の下を通過してしまうことになるのでした。後部から魚雷を発射することを決意しました」

この積荷のことは今でははっきりしているが、これは戦争の流れを有利に巻き返すために必死の努力を続けていた日本が緊急に必要としていた品だった。
1970年代にロンドンの『サンデータイムズ』紙が、第二次世界大戦中にペナン島の沖で撃沈されたドイツ潜水艦の残骸から30トンの水銀を引き上げようとしているイギリス人のグループの活動を伝えた。この新聞によれば、水銀は50万ポンドの値打ちがあるとのことだった。

1973年に、推定31トンの水銀のうち、およそ30トンを回収してドイツに持ち帰った。
クラットはなぜ日本はそんなに水銀を必要としていたのか、なぜ艦長は水銀をU859に積んでいることを将校団にも教えないほど極秘にしたのかを不審に思った。

「欲しいのは1枚のリヤル銀貨です。1つあるということは、まだ下に299,999枚残っているに違いないからです」
遠隔操作が活発化し、2,600mの深海から「爪」は6時間を要する浮上を開始した。

「爪」が開いて宝物の銀貨がこぼれ落ちると、ハドソンは叫んだ。
「大当たりだ!」
50年の歳月を経て銀貨は白日の下にさらされた。
重さ170トン、140万枚の銀貨が引き上げられた。
銀貨は甲板で音を立てた。
この衝撃の瞬間は船上のドキュメンタリー斑のカメラに収められ、この光景は数日後に世界中のテレビ視聴者を驚かせた。

残りの160万枚の銀貨は回収不能であり、作業の予算は使い果たした。

==日独「深海の使者」秘話==
1944年以降、戦争の流れが枢軸側に著しく不利になるにつれて、日本政府は戦闘を有利に展開するのに役立つ見込みのある物資を提供してくれるようにドイツにますます強く働きかけた。

水銀は日本が求めていた唯一の物資ではなかった。
日本はドイツの高度の科学技術の雛型を要求しはじめた。
日本側はドイツに対して、戦争を好ましい結果に導くためには、「特別な技術」は要ると通告したらしい。その目的を達成するためには、大量の水銀が必要だったのである。
Uボート859号一隻だけでも31トンもの水銀を輸送中だった。

連合国の諜報機関はこの要求を十分に察知していた。
彼らは物資がUボートで運ばれていることも知っていた。
これを妨害するために、イギリス海軍に対して可能な限り多数のUボートをインド洋で撃沈するよう強い要請があった。しかし、日本に到着するのを常に阻止できたというわけではない。
新型ロケット推進戦闘機
メッサーシュミットME163の部品を輸送中Uボート1隻が撃沈されたが、ドイツ政府は再度設計図を日本に届けることにした。この図面に基づいて日本は三菱J8M1(この飛行機は陸海軍共同開発で、海軍が先行して「秋水」と命名したが、終戦までには実用には至らなかった)
を開発し、降伏したときには5機を完成していた。

その積荷の一部ははっきり文書に残っている。
1944年8月20日にU195がボルドーを出発して、日本占領下のジャカルタを目指した。
同艦の250トンの積荷は、水銀、レーダー技術機材、光学器具などのほかに、最も重要なものとしてロケット推進「飛行爆弾」V2号があった。分解して箱詰めにされたうえ、日本で組み立てて実際に使えるように指導する指導員とともに送りだされた。

日本がV2ロケットを大量生産する時間的余裕を持っていたとしたら、アメリカが保持していた太平洋の島々に対する長距離攻撃兵器として、主要な目的に限定して使用することによって、連合軍に大打撃を与えたかもしれない。

ロケット推進兵器の弾頭の起爆に利用するためと思われる「スイッチ装置」の開発と製造には水銀が基本的な役割を果たしたようである。

すなわち、戦争の末期の数ヶ月間、日本は原子爆弾の製造に専念していた。
日本が原爆を開発しようとしていたという最も劇的な証拠は、U234の高度に秘密の航海記録に見られる。このUボートは1945年3月24日に日本に向けてキール軍港を出た。
240トンの貨物は、レーダー設備、燃料注入ポンプ、高度無線システム、信管ヒューズ、光学機械、真空管、および戦車兵器だった。

最も興味あるものは6本の敷設管の中の材料だった。
水銀のほかに、原子爆弾の製造に不可欠の素材、放射性酸化ウラン(ウラン235)の容器が10個あった。原子兵器計画がないとしたら、ウランは何のためだったのか。
あらゆる状況証拠は、ドイツの降伏のわずか1ヶ月半前に始まったU234の航海が、敗北の瀬戸際で勝利をつかむための、破れかぶれの最後の試みだったことを示している。

結局、連合国の勝利によりU234は日本への途中で目的を断たれた。
大西洋を航海中に艦長ヨハン・ハインリッヒ・フェーラー大尉は無線で祖国の降伏を知り、それに伴って5月10日付けで、すべてのドイツ潜水艦はその位置を報告して、最寄の連合国の港湾に入港せよ、との命令を受信した。

フェーラー艦長は59人の乗組員と数人の大事な便乗客を乗せていた。
その一人、空軍大将ウルリッヒ・ケストラーは東京のドイツ大使館の駐在空軍武官に任命されていた。また、優秀な航空設計技師の庄司元三と著名な潜水艦建造技師の友永英夫の2人の海軍技術中佐がいた。

フェーラーが位置報告命令に従って当然連合軍の指揮下に入ると決断した結果、2人の日本軍人は睡眠薬を大量に服用して自決した。
放射性物質ウランを含むUボートの貨物はアメリカ当局に引き渡された。
ドイツ側が大いに驚いたことに、アメリカ政府は積荷は162トンだったと発表した。これは2ヶ月前にキール軍港で積み込んだ量より78トン少なかった。
アメリカ側はこの食い違いについて論評すること、すなわちウランを何に使用したかを一貫して拒否した。














読者登録

読者登録