津波に呑まれながらも濁流の中を自力で泳ぎ、人々を救助した隊員たちがいた! みずからの家族の安否も確認できぬままの災害派遣、遺体と向き合う日々、そして原発処理…。大震災下の自衛隊員たちの緊迫と感動のルポ。
第1部 千年に一度の日(水の壁
別名なくば
救出
最後の奉公
白いリボン
長く重たい一日)
第2部 七十二時間(戦場
「ご遺体」
落涙
母である自衛官)
第3部 原発対処部隊(正しくこわがった男たち
偵察用防護衣
海水投下
四千八百リットル)
中隊の隊旗を掲げ、連隊長や中隊長を先頭に150人からの戦闘服に身を固めた隊員が一列縦隊をつくり、市街地や住宅地はもとより沿岸部や山間部など毎回コースを変えて20キロ程度の道のりを歩きつづけた。体力練成のために行進ではない。途中、災害時の避難所に指定されている体育館や学校、あるいは病院などの位置をたしかめた上で、いざというとき自分たちが真っ先に駆けつけ、住民の救助にあたる地域がどんな場所でどんな地形なのかを眼に灼きつけるようにしながら、活動する場合どういう点に留意しなければならないのか、どんな装備が必要なのかといったことを実地に歩いた経験をもとに検討を始めた。少なくとも災害派遣で乗り込む地域が隊員にとってはじめての土地でなくなったことの意味は大きかったはずである。
大きな揺れがとりあえず収まると、国友連隊長は携帯を取り出し、彼が直接仕える上司の番号をプッシュした。すでにこのときふつうの携帯は災害時の通信規制がかかって、つながりにくくなっていたはずだが、連隊長の持っている携帯は、任務の必要上、非常時でも通話ができるような優先回線が設定されているものだった。
通話の相手も当然、優先回線の携帯を手にしていた。
22普通連隊の上級部隊、山形県東根市に司令部をおく第6師団の師団長、久納雄二陸将。
肩に金の桜を3つのせた、旧軍でいえば中将にあたる将軍である。
「部隊を出します」と連隊を動かすことの許しを求めると、師団長直々に「出動せよ」と災害派遣命令が下された。
実は村井嘉浩宮城県知事は国友連隊長の防衛大の一期先輩に当たっていた。
ただ、県のトップが、かつて自分たちと同じ自衛隊の一員として災害派遣の現場に立ち、自衛官なりのさまざまな苦労や問題点について身をもって感じ取っていると思われることは、自衛隊が災害時にすぐ動ける即応態勢をつくることの必要性を国友連隊長らが県に訴えるときに何にもまして心強い存在に感じられた
遺体の収容が相次ぐようになった頃から、目に見えて口数が少なくなった隊員が、ひとり、またひとりと眼にとまるようになった。上官が気遣って、「どう、眠れてる?」と話を向けると、「夢に遺体が出てきます。捜しても捜しても、遺体が湧くようにどんどん出てくるんです」とか、「ひとりでいると、ふっと遺体の顔が浮かびます」と洩らす隊員の数が増えていた。
このため、その日の作業を終えたあとに毎日、「解除ミーティング」と呼ばれる隊員の集まりをひらくことにした。
なかでも、子供や親子の遺体は、「こたえた」
「かわいそうで、持てば軽いんです」
ふたりの女の子の場合、シートが半分近く余ってしまい、二重三重に包むとかえってその小ささが際立った。作業を無言で進める隊員の中に眼を潤ませていない者はいなかった。
こらえようとしてもこらえきれず、すすり泣く声があちこちから洩れてくる。やがて、シートにくるまれた大小の三体の遺体が運びだされるとともに、男たちの嗚咽が調べのようにつづいた。
「自衛隊の迷彩服を着ていたから、できたんだと思います」
無人のコンビニや酒店から被災住民がカートにさまざまな商品を詰め込んで持ち去る光景。
津波の被害をさほど受けていない地域で、無人となった電器店や洋服の大型店、古着屋、さらにフィギュアなどのレア物をおいている店の中が荒らされ、ショーケースが壊されたりして、商品がなくなっていた。
「5つになる娘と同じくらいで、ぱーッと涙が出てきました」
たまらず、いったん家の外に出て、気を落ち着かせるために、「深呼吸」とした。
津波に呑みこまれ、建物の中で発見される遺体はなぜか、たいていうつぶせになっている。
その顔を仰向かせ、顔に付いている土砂などの汚れを家の中にあるタオルや布団の端などで拭いとるのも隊員の役目だった。「ご遺体はきれいにしてご遺族にお返ししよう」と遺体収容に携わる隊員たちは申し合わせていたのだ。
「いま出してあげるからね」
と声をかけながら、女の子の顔についた泥を丁寧に拭きとっていった。
タオルを動かしている間にも、涙は、制御を失ったようにとめどなくあふれて頬を伝わってゆく。
それを眼にした瞬間、涙が止まらなくなった。
流れるのではない。
「ぼろぼろ」落ちてくるのである。しゃくりあげる隊員もいた。
自衛官に任官するときに読み上げる宣誓
「事に臨んでは危険を顧みず」
「身をもって責務の完遂に務め」
介護施設の若い男性がおばあさんを抱きかかえたまま亡くなっていた。
「助けるために必死だったんだな。仕事を全うしようとしてたんだな」
別命なくば駐屯地に急行せよ、という震度6以上の地震が起こった際の行動基準に従って駐屯地に駆けつけようとしていたことがほぼ明らかになった。
3.11における第22普通科連隊のただひとりの殉職者、S2曹は特別昇任びより1等陸曹となった。
享年36歳だった。
陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊、略して「中特防」
特殊武器とは、核・生物・化学兵器、いわゆる大量破壊兵器である。
そうした大量破壊兵器が引き起こす非常事態に対処する専門部隊は、旭川の第二師団や名古屋の第十師団、福岡の第四師団と、師団に属する形で全国に九個展開しているが、その他に、放射能や有毒ガスの除染のノウハウを訓練を通じて徹底して叩き込まれてきた、えりすぐりの隊員を揃え、いざというときには最新の装備で全国どこにでもすぐに駆けつけられるような機動部隊として、2008年に大宮につくられたのが、中央特殊武器防護隊だった。
被害の全容が攫みきれていないいない東京電力福島第一原子力発電所の緊急事態に対処するため、自衛隊に対して原子力災害派遣命令が政府から発出されたのは、震災から実に4時間40分以上を経た11日夜7時半のことだった。
いったん命令が下りると、1時間50分後には「中特防」の先発要員が大宮駐屯地を出発している。放射能や有毒ガスを測定する装置を搭載した装甲車タイプの化学防護車など7両を連ねた車列には約50人の隊員が乗り込んでいた。
隊員たちが心おきなく任務にかかれるように、「心構え」をつくっておきたかったというのが狙いである。「派遣は長期になる見通しですから事前に家族に連絡しましょう」と意見具申を行ない、異例中の異例ともいうべき隊員への特別なはからいが実現したのだった。
彼らがこれから赴く場所が、被災地では被災地でも、「原発」という特別な場所だったことと無関係ではなかったはずである。
こういう場面で、自己完結の組織たる自衛隊は圧倒的な強みを発揮する。
人や機材の除染には大量の温水が必要だが、この点も2,000リットルの水を1時間のあいだに45℃の温水にすることが可能な加熱機の他、温水を使って時間当たり45人以上の人が除染できるシャワー設備をトラックに搭載して持ち込んでいた。
三号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、現場近くに到着したばかりの「中特防」の指揮官を含めた6人のうち4人が、爆風の衝撃や瓦礫が当たったりして負傷したのである。
なかでも2人については骨折しているらしかった。
傷の応急手当も急がなければからないが、まずは被曝のチェックと除染である。
タイベックスを脱がせ、裸にし、髪の毛からつま先まで全身隈なくシャワーで念入りに洗った。
防護服でカバーできていない目のまわりだけはヨウ素が残っていた。
結局、ヨウ素の反応が最後まで残った隊員は、8度目でようやくシャワーから解放された。
「われわれは『中特防』は、放射能を正しくこわがっていた集団だと思うんです」
派遣命令を受けた「中特防」が駐屯地を発つ前の段階で隊員の家族に部隊の行き先を、「原発関係」とあえて打ち明けたのも、彼らのプロとしての地震のあらわれだったのかもしれない。
少なくともその姿勢は、原発をめぐる当時の管政権や霞ヶ関、東京電力の情報発信の姿勢とは180度異なるものといえた。
大型輸送ヘリコプターCH47:チヌーク
木更津を飛び立ち、霞の目飛行場へ、宮城県内にあって唯一使用可能な飛行場だった。
ただ全長700mほどの滑走路は、利用できるのはヘリやセスナなどの小型機に限られていた。
「偵察用防護服」
何より驚かされたのはその重さである。
ずしりどころではない。約20キロ
重たいのは、中に鉛の板が仕込まれているからだった。
むろん、放射能を遮断するためである。
つまり全身にのしかかるその重さは、我が身に迫る脅威の大きさそのものだった。
大量の物資や大勢の人を一度に運ぶとなるとチヌークに勝るヘリはなかった。
ちなみにUH1がパイロットの他に11人の人員を収容できるのに対して、チヌークは55人。
燃料プールの水位が予想以上に下がっていて、燃料棒の一部が剥き出しになっていた場合、水を投下することで燃料が損傷し、飛散する可能性を指摘する専門家もいた。
といって現地に飛んでいって投下の予行演習をするわけにもいかない。
首相たる自分が自衛隊の最高指揮官であることを知らなかったと恥ずかしげもなく認めて・・・
一足先に3号機建屋の上空に達したUH60が放射線量を計測した結果、約30mで毎時250ミリシーベルトをカウントしたのである。一時間そこにとどまっているだけで、自衛隊が限度と定める被曝総量の年間の値を超えてしまうほどの、きわめて高いレベルの放射能を浴びることになる。このため投下任務の続行は無理と判断され、二機のチヌークにはただちに引き返すように命令が発せられた。
チヌークは仙台空港沖で長さ10mあまりのケーブルの先に吊り下げたバスケットを海中に入れ、掬うようにして取水を行った。バケットは、野戦消火器Ⅰ型、通称「バンビ」と呼ばれるもので、満タンで7.5トンの水が入る。
海水を汲んだチヌークは空港沖の海上で一度、放水試験を行っている。
自衛隊では、緊急時の任務で隊員が受ける被曝線量の上限を毎時100ミリシーベルト、平時の任務なら50ミリシーベルトが限界としていた。そこからすると、87.7という数値は、低いどころか、かなり高いレベルの値だったことになる。
「とにかく、うまく3号機に水をあてること、ピンポイントであてることばかり考えていましたので」
現地周辺は南西の風、風速は20ノット、毎秒10m以上の強い風が吹いていた。
チヌークに施したタングステンシート
チヌークは通常、時速250キロ前後で飛行するが、3号機上空への進入に際しては、「50キロ以下」まで速度を絞っていたという。
加藤隊長は、自分たちの乗ったチヌークがこの瞬間、30キロ以上離れた場所に設置されたNHKのテレビカメラで全国に生中継されていることも知らなかったし、チヌークの文字通り一挙手一投足を、人々が祈りをこめた熱い眼差しで見つめていたこともまったく知らなかった。
だが、その『恥辱』とされた自衛隊のヘリが被曝の危険を冒して原発に海水を投下する模様がHNKによって全国に生放送され、それを日本人の多くが見つめていたこの瞬間は、自衛隊が、はじめて圧倒的多数の国民から、日本人と日本を守ってくれる、最後の砦として認知され、心から頼りにされた瞬間だった。
震災後、ノーベル賞作家は、脱原発の旗手となった。
合計4度にわたる海水投下を終えたとく、時刻は午前10時を回っていた。
二機は途中、原発対処部隊の前線基地となっていたJヴィレッジにいったん着陸して放射線量の探知と除染を行なったあと、霞の目飛行場に帰投した。
9人のクルーズから検出された放射線量は全員1ミリシーベルト以下だった。
たとえば、F15の基地にいるファイヤーマンは、F15が国籍不明機発見の報せにスクランブル発進で飛び立つときには、深夜だろうと仮眠中のベッドから跳ね起きて消防車に乗り込み、無事基地に帰投したF15が、エプロンでエンジンを停止させるまで消防車の中で待機を続けている。F15が滑走路に姿をあらわすとき、必ず基地の端の車庫から消防車も姿をあらわし、その中で空自のファイヤーマンが待機に入っている。
一般の隊員以上に一日の課業が終わった後や昼休みを利用してのランニング、筋力トレーニングを自らに課している。
救難消防車Ⅱ型
自衛隊屈指の精鋭部隊・第一空挺団で行なわれる空挺レンジャーの訓練は輪をかけた苛酷さがつとに高く、たいていの陸上自衛隊の隊員なら空挺レンジャーと聞いただけで、背筋がさらにしゃんと伸びるくらい、思わず威儀を正してしまうような重みがこの言葉にはある。
落下傘をかたちどったバッジを戦闘服の胸もとに縫い付けた上に、さらに空挺レンジャー訓練終了を示す、ダイヤモンドと月桂樹をあしらったレンジャーバッジを飾っている隊員は文字通り精鋭の名にふさわしい。兵士中の兵士と言える。
しかし、第一空挺団は特殊なパラシュート部隊である。
ゲリラ攻撃や尖閣諸島が侵略されるといった非常時には、タスクフォースとして真っ先に出動の声がかかる。逆にいえば、第一空挺団にまでが派遣に及んだということはこの震災がいかに巨大で深刻で、未曾有のものであったかを物語っている。
どうやら飯舘い:イイタテ」は新聞やテレビでかなり報道されているらしかった。
「なんですぐ言ってくれなかったの?それでどうなの、大丈夫なの」
妻はすばらく口も聞いてくれず、夫婦の間には気まずい空気が流れた。
「仕事と私、どっちが大切なの?」
だが、何のためらいもなく即座に、仕事、と答えている。
おまけにこう言い切っている。
「家族より部下が大切だし、部下より国民が大切だ」
「おとうさんが死んで帰ってこなくても、おかあさんを助けて生きていくんだよ」
どの隊員にとっても、釘に刺されずにいられるかは運しだいというところがあった。
陸海空の派遣隊員は震災から1週間の段階ですでに10万人をこえていた。
文字通り「史上最大の作戦」である。