ヒロシマの原爆資料館と、被爆した校舎の残る本川小学校を訪ねました。
右側の写真は、1946年から47年に描かれた本川小学校の子ども達の作品です。
学用品に不自由をしていた児童に、アメリカからボールやマット、文房具が、贈られ、
そのお礼として送った子どもたちの絵や習字だそうです。
ここではPTAのお母さんが、ボランティアで説明をしてくださっています。
被爆の跡が残る暗い地下で、話をしてくださる若いお母さんの、母親が、
この小学校で原爆に遭い、生き残った2人のうちの1人であったこと、
話したがらないお母さんから少しずつ少しずつ聞いてゆき、今このことを伝えなければと、
この若いお母さんが平和の語り部になっていることを話してくださいました。
原爆は、終わったことではありません。
今も苦しむ人がいて、今も世界では戦争の惨禍にまきこまれている人々がいます。
ノーモア ヒロシマ ナガサキ
この声を、そして、ヒロシマの人たちがつなげていこうとしている努力を
私たちもつなげていかなければいけないと、あらためて思うことができたのは、
被爆地へ立ったからでした。
この思いを、日本中の子ども達と、江戸川の子ども達と、
共有していくために、私たちは何をしたらいいのでしょう。
それは、教え込むことではないと思います。
事実を知らせる。まずそのことこそが大切にするべきことと思います。
そのことで、子どもたちの知性と感性が、学びとっていけるように、
平和教育を組み立てていくことがもと求められているのではないでしょうか。
右側の写真は、1946年から47年に描かれた本川小学校の子ども達の作品です。
学用品に不自由をしていた児童に、アメリカからボールやマット、文房具が、贈られ、
そのお礼として送った子どもたちの絵や習字だそうです。
ここではPTAのお母さんが、ボランティアで説明をしてくださっています。
被爆の跡が残る暗い地下で、話をしてくださる若いお母さんの、母親が、
この小学校で原爆に遭い、生き残った2人のうちの1人であったこと、
話したがらないお母さんから少しずつ少しずつ聞いてゆき、今このことを伝えなければと、
この若いお母さんが平和の語り部になっていることを話してくださいました。
原爆は、終わったことではありません。
今も苦しむ人がいて、今も世界では戦争の惨禍にまきこまれている人々がいます。
ノーモア ヒロシマ ナガサキ
この声を、そして、ヒロシマの人たちがつなげていこうとしている努力を
私たちもつなげていかなければいけないと、あらためて思うことができたのは、
被爆地へ立ったからでした。
この思いを、日本中の子ども達と、江戸川の子ども達と、
共有していくために、私たちは何をしたらいいのでしょう。
それは、教え込むことではないと思います。
事実を知らせる。まずそのことこそが大切にするべきことと思います。
そのことで、子どもたちの知性と感性が、学びとっていけるように、
平和教育を組み立てていくことがもと求められているのではないでしょうか。
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