今年もイースターの時期がやってまいりましたーー
アワラチャルの曲がイースターのイベントにあまりそぐわないのでは・・という意見があるので、わたしが何故あえてあの曲を選んでるか・・ということをかいてみたいと思います。
合わないといえば、私達のグループがあそこで歌うということ自体合わない・・ともいえるかなーー
あそこで歌うグループは宣教師や伝道団体が派遣した人が信仰にもとずいてそれこそアレックスのいうクリスチャンになるの為の音楽としてゴスペルを歌っているグループが殆どです。
去年一緒にうたった横浜も牧師先生の作ったグループで、だから指揮をした女性は牧師夫人でもともと音楽とは縁のない人・・今年一緒に歌うはずだった亀有も参加できないのはその日にメンバーが洗礼(イエスを信じます・・と告白する儀式)を受けるから・・とのこと
もちろんメンバーの中にはそういうものを求めて入ったのではない人たちが殆どです。
でも歌う目的が主を賛美すること、クリスチャンになること、なのでそこに参加するメンバーは聖書に触れ、皆で祈り、歌っている意味を考える・・ということをワークショップの中でたくさんしています。そのなかで歌っていることの意味とのギャップで続けられなくなる人もいれば、スタイルとして割り切る人もいればクリスチャンでなくてもその恵はひしひしと感じる人・・様々だと思います。
うちらのグループはどうか、というと私はクリスチャンだけど伝道の為に音楽をやろうとは思っていません。もちろんゴスペルを歌っていく中でその言葉や歌にあふれる聖霊の働きからイエス様を信じる人がでてくればそれは本当に嬉しいですが、それは私を使って神様が働いてくださるのであってわたし自身が目指してることは歌う喜びの中から元気を得てほしい、新しい自分と出合ってほしい、そしてわたしが音楽を通して神様に出会ったようにみんなの心に種まきのひとつでもできればいい・・ということです。
アレックスがpraise the Lordといってもみんなあまり違和感感じないだろうけど、”主をほめよ”っていうとちょっと抵抗あったりするでしょ?
実はあのイースターの場で歌うということは”主をほめよ”と連呼する人達の中で主を誉めよと連呼するということなんです。
だから過去に歌った曲も最初の最初の年がJoyful joyfulやthis little light 次はYou got a friendとかもろに信仰を告白するような歌詞でないものも入れて選んでる。
I beleive in God とうたうよりI beleive in musicと歌うほうがこのグループらしいと感じます。
じゃあなんでゴスペル教えてるのさーーってかんじですが普段そういうスタイルでゴスペルをやっているだけにあのイースターの日だけ信仰告白ムンムンの歌を歌うというのは私にとっては自分の心を欺いているようでとてもつらい これがライブなどではまた別なんだけどイースターの場は信仰告白の場だからクリスチャンなだけにとってつけたようにそれを演じるのはできないんです。
それであればふだんのレッスンの場でそういう話もし、信仰について触れて・・とあるべきだな・・と思うし、
歌うみんなにとってはたいして変わらないのかもしれないけど、心の架け橋かける為に歌おう・・というのが今自分達がやってることだな、と思い、それは内輪なとこだけでなく、今回のようないろんな人が集まる場で、スタイルを真似るだけの歌でなく心から出てくる歌として歌いたい・・
これが理由のひとつ
もうひとつ何故ラテンリズムか・・というと言葉の成り立ちで日本人にラテンは肌になじむ・・
英語は主語が絶対必要な言葉・・だから自己主張の強い人間
日本語は主語をはぶいても会話が殆ど成り立つ ラテン語もそう・・逆につけない言語
どちらかというと柔らかいというか白黒はっきりつけないというか、とてもなじむんです。
音楽をするとき借り物で終わってしまうか、スタイルだけしか真似できないか、またはそこから何か自分達にしかできないものを創っていくか・・てときにラテンがより日本人になじむって発見があった。音楽を創る者としてじぶんらしさをだせない時、いずれ苦しくなって続けられなくなると思う。
イースターではゴスペルムードに浸っていたい・・それもすごくよくわかるよーー
みんなが映画やCDやコンサートで感動するようなねーー
でもこれが生粋ジャポネのごまなもので・・ちなみに今年のイースターはうちらのグループ以外は全部黒人の指導者だよーー
ここからしてもうちがっちゃうのだーー
だからこそのoriginalityでのキッズと選曲なんですーー
はー今回も反論、励まし、ひやかし、その他もろもろお待ちしていまーーす
アワラチャルの曲がイースターのイベントにあまりそぐわないのでは・・という意見があるので、わたしが何故あえてあの曲を選んでるか・・ということをかいてみたいと思います。
合わないといえば、私達のグループがあそこで歌うということ自体合わない・・ともいえるかなーー
あそこで歌うグループは宣教師や伝道団体が派遣した人が信仰にもとずいてそれこそアレックスのいうクリスチャンになるの為の音楽としてゴスペルを歌っているグループが殆どです。
去年一緒にうたった横浜も牧師先生の作ったグループで、だから指揮をした女性は牧師夫人でもともと音楽とは縁のない人・・今年一緒に歌うはずだった亀有も参加できないのはその日にメンバーが洗礼(イエスを信じます・・と告白する儀式)を受けるから・・とのこと
もちろんメンバーの中にはそういうものを求めて入ったのではない人たちが殆どです。
でも歌う目的が主を賛美すること、クリスチャンになること、なのでそこに参加するメンバーは聖書に触れ、皆で祈り、歌っている意味を考える・・ということをワークショップの中でたくさんしています。そのなかで歌っていることの意味とのギャップで続けられなくなる人もいれば、スタイルとして割り切る人もいればクリスチャンでなくてもその恵はひしひしと感じる人・・様々だと思います。
うちらのグループはどうか、というと私はクリスチャンだけど伝道の為に音楽をやろうとは思っていません。もちろんゴスペルを歌っていく中でその言葉や歌にあふれる聖霊の働きからイエス様を信じる人がでてくればそれは本当に嬉しいですが、それは私を使って神様が働いてくださるのであってわたし自身が目指してることは歌う喜びの中から元気を得てほしい、新しい自分と出合ってほしい、そしてわたしが音楽を通して神様に出会ったようにみんなの心に種まきのひとつでもできればいい・・ということです。
アレックスがpraise the Lordといってもみんなあまり違和感感じないだろうけど、”主をほめよ”っていうとちょっと抵抗あったりするでしょ?
実はあのイースターの場で歌うということは”主をほめよ”と連呼する人達の中で主を誉めよと連呼するということなんです。
だから過去に歌った曲も最初の最初の年がJoyful joyfulやthis little light 次はYou got a friendとかもろに信仰を告白するような歌詞でないものも入れて選んでる。
I beleive in God とうたうよりI beleive in musicと歌うほうがこのグループらしいと感じます。
じゃあなんでゴスペル教えてるのさーーってかんじですが普段そういうスタイルでゴスペルをやっているだけにあのイースターの日だけ信仰告白ムンムンの歌を歌うというのは私にとっては自分の心を欺いているようでとてもつらい これがライブなどではまた別なんだけどイースターの場は信仰告白の場だからクリスチャンなだけにとってつけたようにそれを演じるのはできないんです。
それであればふだんのレッスンの場でそういう話もし、信仰について触れて・・とあるべきだな・・と思うし、
歌うみんなにとってはたいして変わらないのかもしれないけど、心の架け橋かける為に歌おう・・というのが今自分達がやってることだな、と思い、それは内輪なとこだけでなく、今回のようないろんな人が集まる場で、スタイルを真似るだけの歌でなく心から出てくる歌として歌いたい・・
これが理由のひとつ
もうひとつ何故ラテンリズムか・・というと言葉の成り立ちで日本人にラテンは肌になじむ・・
英語は主語が絶対必要な言葉・・だから自己主張の強い人間
日本語は主語をはぶいても会話が殆ど成り立つ ラテン語もそう・・逆につけない言語
どちらかというと柔らかいというか白黒はっきりつけないというか、とてもなじむんです。
音楽をするとき借り物で終わってしまうか、スタイルだけしか真似できないか、またはそこから何か自分達にしかできないものを創っていくか・・てときにラテンがより日本人になじむって発見があった。音楽を創る者としてじぶんらしさをだせない時、いずれ苦しくなって続けられなくなると思う。
イースターではゴスペルムードに浸っていたい・・それもすごくよくわかるよーー
みんなが映画やCDやコンサートで感動するようなねーー
でもこれが生粋ジャポネのごまなもので・・ちなみに今年のイースターはうちらのグループ以外は全部黒人の指導者だよーー
ここからしてもうちがっちゃうのだーー
だからこそのoriginalityでのキッズと選曲なんですーー
はー今回も反論、励まし、ひやかし、その他もろもろお待ちしていまーーす
また感じることがあったら追加していくつもり。
イースターでは毎年、音楽の素晴らしさに感動するとともに、信仰の無い自分がその場にいるいたたまれなさでツライ思いをしています。
自分たちが歌っているモノが信者さんたちに受け入れてもらえるのかどうかと思うと、すごく緊張します。
そういう意味でもアワラチャは、何ていうかすごく勝負だなー…と感じましたね。
確かに、ごまちゃnが言うように、その時だけ信仰があるフリをしても仕方ないんだけど。
ラテンに関しては、歌ってて楽しいから、そういう曲もやりたい。けど最近特にちょっとラテン系が多いかなー(気のせい?)。
ゴスペルらしい曲は歌詞の内容も賛美が強かったりして選択しづらいっていうのは、わかりました。
でも、歌詞は別として(ゴスペルやっていながら言う事じゃないかもしれないけど)、ゴスペルらしいサウンドや響きやノリの曲をバリバリやりないなー。
力量無いと、かっこよく決まらないけど。
ふぅ、やっぱりうまくまとまらないけど、今回はとりあえずここまで。
あまりにテーマが重過ぎて、単にごすぺる歌いたーいっていって来てくれてるみんなにはいきなり何ってかんじでかたまるかなーーと思ってたんで、とりあえず口火を切ってくれたやぐさまに感謝です。
わたし、黒人の人達が一緒に歌いながらも、信仰は分かち合ってもブラックゴスペルはわかちあえないよっていってるメッセージをイースターに行くと感じるんです・・
これは俺達の領分でおまえらにはおまえらなりの表現があるだろ・・と問われるような思い・・
だから確かにやぐちゃんのいうようにある意味彼らにこれならどうよ??-認める?って
いう意味もあったりして・・
もっといつも自分がいってるように楽しんじゃえばいいのにねーーあーーアワラチャールしてないねーー
ラテンが多い・・すんませーーn
なにしろバンマスがラテンなもので私がめん譜かけるといいんだけどねーー
力量は倍増で要求されるけど私ももろゴスペル好きだよーーー
ラテンだと日本人でもある程度こなせるってのがラテンにかたむく要因だけど、これは実はみんなからの強い要望があれば黒人のキーボードとかを入れてブラックによりかたむかせるという方法はあるのよーー
ただ、リハ無しではできないからリハと本番に黒人入れると予算がかなりかかってしまう。
そーいう重いアレンジでやるにはやはりうちらの喉だと人数が倍必要だね
お客さんが満足して帰ってくれるのはやはり音楽的にバランスとれてるからで、重たい音楽ははすごーーい力量が要求されるのーー
そんな曲もいれつつ、と一応バランスとってるつもりではいるんだけどねーー
他でラテン調にゴスペルやるグループないから違和感あるんだろうね
つい、まだ未開拓の分野で活路を・・というめだとう精神があってね
いまだ折り合いはついてないですね。
ここに書いてあること、折に触れて先生言ってますよね。
それを思い出し、気持ちに抵抗はあっても、とりあえず頭で納得してその場に立ってるって感じかな。
えっと、ラテンについて。
私はゴスペルやってるけど、考えてみると、そんなに「ゴスペルが大好きです!!」ってこともないような…
曲によって大好きなのとそうでないのはあるけど、ラテンだから、もろゴスだから、っていうのとは関係ないかな。
「Fighting Temptation」でやってた曲、実は私あんまり好きじゃなかったりして。
(一緒にいったみんなはよかった~って言ってたから、言えなかったっす)
でも仮に、あの中の曲が Tears に持ってこられたら、「出会った曲」として大切にして、歌っていくうちに(程度の差こそうあれ)好きになっていくんだろうな。
「ラテン」についても、そんな感じです。
(え、言ってる意味がワカンナイって…??)/kaeru_shock2/}
こうしたかったの…↓
(え、言ってる意味がワカンナイって…??)
ふつーそーだと思います。
でも、過去に、足利の教会や日吉教会で歌った時、狭山クリスマスに招かれた時、深谷に応援に行った時、いずれも皆さんとても喜んでくれて、自分としては特に違和感感じることもなく、嬉しかった。
イースターでは、あきらかにちょっと違う空気が押し寄せてくる。なんで?
他と違うところといえば...
・大半が日本人じゃないから
・他のグループがみんなエグイから
・途中のメッセージが英語だから
..まあ、なんていうか、かなり気合入れてかないと圧倒されてしまう空気が満ち満ちているって感じかな。
去年なんて熊さんと二人で宙に浮きそうだったし..(変なたとえかもしれないけど、何が起きても驚かないくらいのエネルギーを感じたってことです。)
思い出したこと一つ。
以前、先生が言っていた...と思うんだけど、
今思えば、Tears前夜とも言える年、
その当時、先生自身、行く前にかなりの覚悟決めて、気合入れて、歯食いしばって(?)、行かないと場の空気に飲み込まれてしまいそうで、
そういうぷれっしゃーは自分が背負って、なんとかして自分達の存在をアピールするから、みんなは、異文化に触れるチャンスとして純粋に楽しんでねー
...みたいなこと。
Tearsの原点って、そんなところにあるんではなかったかな?
理由は単純で、折角のあの雰囲気、客層なのに、ややこしい異国語故、イマイチ乗り切れないもどかしさみたいな空気を客席から感じるからです。
熊がアドリブで初めて客席で聞いた聞いた時も正にそうでした。曲調にめちゃんこ扇動されながら、何いってんだかわかんなくて、煽られても一緒に歌えず一体化できずで、もんもんしちゃたもんもん。(^^;
ラテン・ゴスペルは珍しいし、既にうちらの個性になってるよな気がするので、それはそれで素晴らしい事なのではと思うな。
全部ラテンになっちゃったら、もっと黒っぽいのもやりたーいと思うかもだけど。
わたくしわ、信仰に関心はないっ。ゴスペルって形式で音楽を楽しんでいるのだっ。つー変な確信を持ってるからかも。
イースターへの感想は去年掲示板に書いたとおりだけど、あのように客席一体で盛り上げてくれるオーディエンス、雰囲気の中で歌えるなんて、なかなか出来ない体験をさせていただける超貴重な場と思うのね。それが宙に浮くほど楽しくて、ありがてーありがてー。なのですー。
ただし言葉のせいではないかも・・
だってきっとうちら日本人が歌う英語のほうが彼らには異国語に聴こえると思うよ
アメリカでハンバーガーの一言をわかってもらうのにマックで苦労した自分を思い出す・・
あの人達、想像力が欠如してるからすこしでも発音やインとネーション・・が違うとわかんないみたい
なんて冗談はさておき、いいんちょいうところの他の教会や信者さんの前で歌うのとは全く違う・・て、それはイースターでは信仰告白を賛美によってすることを聴衆が求めているからだと思うよ
やぐちゃんがつらいおもい・・というのも波ちゃんの違和感もそう
だから心の架け橋の為に歌おうって歌いたいって思って・・
こんなところに普段はけっして伺えないごまのA型気質が見え隠れしてる??
確かに「イースターでは信仰告白を賛美によってすることを聴衆が求めているからだと思うよ」って雰囲気は感じる。
熊は単純に黒人のおっちゃんやおばちゃん達が総立ちで腰をふりふり大口空けて一緒に歌い踊ってる姿に鳥肌たっちゃうのだが、波ちゃんやぐちゃん達は冷静に、あの人達をそうさせるのはわしらのパフォーマンスではなく、宗教的一体感、トランス状態みたいなもんなのだなー。お飾りのロザリオの裏には般若心経書いちゃってるしなー、やー申し訳ない。って感じちゃうって事かしらん。
なのでインサイダーでもあるごまちゃんせんせとしてはイン&アウトの架け橋を架けたいって事なんですね。
熊もインサイダーも否定しません。
だからもう少しここに居させて欲しいと思う。
だってゴスペルって純粋に音楽としてだけでも素晴らしいんだもん。
P.S.ごまちゃんせんせってA型なの?もっかい血液検査したのが良い鴨~(^o^;
再検査に一票!
熊さんって典型的B型って感じなんだけど・・ハズレ?
いいんちょはどう見てもA型・・
ちなみにあたいはO型だよ
(干支は・・・先生に「もしかして猪?」って言われた事あるけどワンちゃんだよ~)