□27『岡山の今昔』戦国時代の三国

2016-12-12 18:15:45 | Weblog

27『岡山(美作・備前・備中)の今昔』戦国時代の三国

 1496年(明応5年)、播磨、備前及び美作の三国守護・赤松政則が死去し、一族の義村が家督を継いだ。ところが、播磨の国揖保郡浦上荘(現在の兵庫県龍野市揖保町)の地頭から身を起こし、赤松氏の補佐をしていた浦上氏が、しだいに主家を凌ぐ力を誇示するようになる。1520年(永正17年)、赤松義村の軍勢は村上方の岩屋城を包囲するも、救援に向かった村上村宗の軍勢の攻撃を受けて大敗を喫す。村上氏は、その後、備前と美作の大半及び西播磨地方を支配下に置いていたが、傾き加減も甚だしい室町幕府管領(かんれい)の細川高国に与して中央政界に進出するものの、その高国は一族の内紛で細川晴元に敗れ、その目的を果たせなかった。浦上宗景が天神山城に移って間もない1532年(天文元年)になると、北の出雲国の守護代にあって、同国の能義郡富田(現在の島根県広瀬町)に本拠をおく尼子氏(あまこし)が美作に食指を動かし始めた。以後、美作の国衆の中に、尼子に与する豪族が増えていく。
 尼子氏は、金川城主の松田氏とも組んで、備前北部から備中、そして美作東部に勢力を伸長させつつ、浦上氏、赤松氏ともども互いに覇を争ってゆく。その後の戦国期の1552年(天文21年)において、尼子晴久(あまこはるひさ)が足利幕府の将軍足利義藤(のち義輝)に出雲、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)に加え、美作、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)の守護に任じられた。1554年(天文23年)、尼子氏はその余勢をかって、安芸(あき、現在の広島県東部)に積極果敢に進入して毛利勢と戦ったものの、かえって大敗を喫してしまう。続く1558年(永禄元年)頃になると、備中、さらに美作へと広がってゆく。
 ところで、この頃、津山盆地のやや北部に位置するところに中山神社という神社があった。この社は、707年(慶雲○年)の創建とされる。大和の朝廷から、備前国から北部6郡が『美作国』として分国の命令が下った。その時に、備中国の吉備中山のふもとに鎮座する吉備の総鎮守である吉備津神社より勧請したのが始まりといわれる。 中山神社という社名は、吉備中山に由来しているとのことだ。
 地の人々から久しく篤い信仰を受けていた神社であったが、1533年(天文2年)、尼子氏の美作攻略のとき兵火により社殿が焼失してしまう。天文年間(1532年から1555年)にかけて、尼子一族の支配に不満な百姓たちの土一揆が起きる。これを鎮圧すべく、尼子勢が百姓たちが根城にしていた社殿をめがけて攻撃した。その時、火の手が上がったものかもしれない。尼子氏が意図的に燃やしたとは断定できない。気がついたら燃えていたということも考えられなくもない。1559年(永禄2年)、出雲の富田城主の尼子晴久が「戦捷報賽」と称し、社殿を復興する。かねてから、尼子は先の火災の後味悪くして、再建の機会を狙っていたのかもしれない。建物の形式は、世に「中山造」(なかやまづくり)と称せられ、これが現在に至っている。棟梁は、伯耆の国の中尾藤左右衛門といい、完成までし18年かかったらしい。出雲大社を造った頃からの大工魂といおうか、その出雲からやってきた頭領たちが指揮して建てた本殿が奮っている。「入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪」というから、どっしりと威厳がある。ゆえに、1914年(大正3年)には国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財となっている。
 話は合戦に戻って、毛利氏(もうりし)と尼子氏の日常茶飯の勢力争いを繰り広げる。
1566年(永禄8年)頃には、毛利氏が尼子義久の本拠である富田月山城に攻め寄せ、ついに降伏を勝ち取り、かくて毛利氏は山陰、備後、備中を手中に収めることになった。
この影響から、備前の一部、みまさか地域への毛利氏の影響力も高まり、浦上宗景の勢力と踵を接するまでになっていた。やがて安土・桃山期に入る頃には、東からの織田氏の勢力範囲が姫路から西へと伸長してきたことから、西からの毛利勢と、織田氏と結んだ南の岡山からの宇喜多勢との間のせめぎ合いがこれらの地で激烈に繰り広げられてゆく。
 宇喜多氏は、もともと、邑久郡豊原荘(現在の邑久郡邑久町)のあたりを本拠地とする豪族であったのが、1543年(天文12年)頃の宇喜多直家は一時は毛利氏との戦略的提携をはかり、1568年(永禄10年)には毛利方の先方隊となって5千の兵で、備前にに攻め入った三村元親の2万の軍勢を蹴散らした、この戦いは「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ばれる激戦であったが、その勝利によって独立勢力としての力を持つに至った宇喜多氏は、その翌年の1569年(永禄11年)には松田氏が本拠地とする金川城の攻略に成功し、この地を橋頭堡に美作と備中をうかがうことで、今度は毛利氏と対抗するようになっていく。1571年(元亀2年)、宇喜多の将である荒神山城主の花房職秀は、毛利の将である杉山為国と戦う。宇喜多直家が片山左馬助を院庄城におく。
 その流れから、宇喜多直家は姫路の黒田官兵衛の調略で織田方に与することになり、本拠の岡山から美作へ北上してきた。その時、その地域の侍たちの多くも、宇喜多氏による支配を好まず、むしろ毛利の方に組み込まれるのを望んでいた。特に、平安期から美作の東部全体(本拠は現在の勝田郡奈義町)にかなりの影響力を持っていた「みまさか菅(すが)党」の大方は、宇喜多の勢力に圧迫を受けた形となっていたのではないか。
 このような宇喜多嫌いの風潮が根強くあったのには、宇喜多の宗教政策が強引なものであったことにも依るのではないか。『作陽誌』は、浄土宗誕生寺の受難につきこう述べている。
 「備前太守に宇喜多直家なる者あり。大いに日蓮宗にこり、諸宗をてん滅しおおいに日蓮宗を興さんと欲す。天正六年五月二五日、宗徒三百余人を率いてこの寺に寇(こう)し、仏像を切り僧徒を追い、寺をこわし経巻をもやすなど凶暴無状をこうむれり。
 まさに法然上人の肖像砕かんとしたとき、寺辺に匠あり潜んでこれを負い山中に逃れ隠す。」

(続く)

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□23『岡山の今昔』建武新政・室町時代の吉備(南北朝統一前)

2016-12-12 18:06:46 | Weblog

23『岡山(美作・備前・備中)の今昔』建武新政・室町時代の吉備(南北朝統一前)

 ところで、備前、備中、美作の武士の中には、児島高徳らのように論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝えている。
 「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。
 奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。
 この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)
 新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。
 そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。
 室町幕府ができても、政治情勢には盤石というものがまるでなかった。初代将軍の尊氏の息子ながら、父親の尊氏から疎外されていた足利直冬(あしかがなおふゆ)は、養父として自分を慈しんでくれた足利直義(あしかがなおよし)の仇打ちのためにも上洛を考える。中国地方でも周防(すぼう)と長門(ながと)の国に勢力を張る大内氏、山陰地方に勢力を張る山名氏が直冬を奉じて戦うと、直冬に申し出てくる。そしてこの頃の中国地方での直冬党には、美作の多くの武士が加勢に駆けつけている。1352年の秋、山名時氏が直冬党に属して、幕府に反旗を掲げる。彼は、前年の初めに直義の方についていて、幕府から丹波、若狭の守護職を没収されていたので、その回復を図る行動を含む。山名氏の根拠地は山陰にもあり、1352年の冬から翌1353年の春にかけて、山陰から中国山地を越え、美作そして備前に攻め込む。これを抑えるため、幕府からは、美作守護に任じられた赤松貞範などが応戦する。この段階で、赤松ら幕府勢は、美作東部を幕府方の支配下に組み入れることに成功したのに対し、山名を主力とする中国地方の直冬党は、加茂川以西を勢力下に置いて、相手側とにらみ合う構図となっている。
 幕府と直冬党の国を二分しての戦いは、その後も続いていく。今度の直冬は、降着状態の戦況打開のため、大博打を打つことにする。南朝に降伏して、足利尊氏討伐の綸旨を得たのだ。こうしておいてから、彼の直冬の軍勢は、1354年(文和3年)、山陽と山陰からの大軍を加えて京都へ向かう。これには、直義派の桃井直常(もものいただつね)や南朝の楠木正儀らも呼応して立ち上がる。幕府方も、これらを迎え撃つべく出撃する。1355年(文和4年)、二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が敵主力と目された直冬軍に備えるため播磨に出陣した隙をついて、直冬側についていた桃井直常ら北陸勢が手薄になった京都に侵入してくる。留守を守っていた尊氏はあわてて後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に脱出していく。一方、義詮が率いる幕府軍主力は播磨に孤立していて動けない。直冬の軍勢は、そんな義詮軍にはあえて挑まず別ルートを通って意気揚々と京都に入る。ところが、正月早早の桃井軍入京から一月もしないうちに、摂津神南の合戦で直冬軍は義詮に大敗を喫す。近江の尊氏軍も京都六条に進出し、直冬軍とほぼ2か月にわたり激しい市街戦を演じるうち、さしもの直冬軍も衆寡敵せず、散り散りになって命からがら京の都を脱出するのである。
 そして1358年(正平13年、延文3年)に尊氏が死ぬと、それからは、南朝勢力は幕府の度重なる攻勢の前にしだいにジリ貧になっていく。1360年(延文5年)、中国地方での幕府と直冬党の代理戦争の戦いが、山名らと赤松らによって繰り広げられていく。両軍、攻めたり攻められたり、失地を奪還したり又失ったりで双方入り乱れて戦ったようである。その結果、1362年(康安2年)夏には、山名が幕府勢に競り勝って美作の中心地である院庄に入り、そこからは備前と備中へも兵を進めるに至る。ここに山名氏は、従前からの伯耆、因幡に加え、美作、出雲そして隠岐を完全に掌握するとともに、石見、備中、備前、そして但馬(たじま)にも支配権を確立するに至ってゆく。美作が北朝の勢力下に入ったことを覗わせる仏門夫婦の供養塔が「新野保」(新野郷変じて、現在の津山市新野東)にあり、それには「康永2年」と北朝方の元号が刻まれている(勝北町編集「勝北町誌」)。

(続く)

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