□5『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷の支配下へ)

2016-12-14 22:46:36 | Weblog

5『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷の支配下へ)

 では、吉備国の政治的な位置関係はどうなっていたのであろうか。そして、どのように変化していったのであろうか。かつて吉備の国の勢力が及んでいたのは、現在の岡山県全域と広島県東部(備後)を含んだ肥沃な地帯である。古代の吉備の国の繁栄ぶりを物語るものに、濠を持つ広大な前方後円墳が遺されていて、その威容は大和の古墳群と似通っている。他の天皇陵と比べても見劣りしないだけの規模があるのが少なくとも2つある。他の地域と変わったところでは、畿内の箸墓古墳との関係があったのか、ここからは「弥生時代後期に吉備地方で発生し、葬送儀礼に使われた特殊器台と特殊壺が出土した」(小川町「小川町の歴史・通史、上巻」)と言われる。
 その他にも、大規模な陵墓がかなり高梁川下流部などに集中している。今までの発掘で、これらの古墳の被葬者の大半は判明していないようである。これまでの発掘でどのくらいの事実がわかっているのかも判然としない。それとも、発掘の時点で既に宝物もろとも盗掘されていたのか、それともどこかへ多くのものが移動されたのだろうか。
 吉備の中山の西麓(現在の総社市)には吉備津神社が建っている。そこでは、吉備津彦命(きびつひこのみこと)などを祀る。この人物の名は、『日本書紀』の「崇神天皇」の事績の中に登場している。
 「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」(『日本書紀』中の「巻第五御間城入彥五十瓊殖天皇崇神天皇」)
 ここでいわれる崇神大王が実在の人物であったならば3世紀初め(210年頃か、とも言われる)とも目されるものの、当時の倭(わ、やまと)は『魏志倭人伝』による邪馬台国連合の時代であり、実在の可能性が薄いとみざるをえない。
 また、この地の北方の山(現在の総社市)に大いなる「鬼ノ城」(きのじょう)と呼び慣わされた古代城趾がある。21世紀に入ってからの総社市や岡山県の発掘調査により、築造年代が7世紀の第4四半期に遡ること、石敷きの城門や土塁に守られた外郭線が張り巡らされていたことが明らかになってきた。この山城は、瀬戸内に沿った大和朝廷の防衛線の一つに位置づけられていたのではないか。その意義について、向井一雄氏は、こう述べておられる。
 「外寇の危険が去った後もしばらく瀬戸内の山城群が維持・改修されていた理由として、吉備地域勢力との政治的決着ー令制化推進があったとみたい。吉備中枢部に築かれた鬼ノ城は「有事籠城型」のプランを取りつつ、「視覚的効果」を狙った外郭線を持つ新時代型の山城として整備されており、上記施策の象徴的遺産といえよう。」(向井一雄「よみがえる古代山城」吉川弘文館、2017)
 この地に城が築かれるいきさつが、白村江(はくすきのえ)の戦いの敗北後の外敵に対する防衛ラインに、直接に結びつくものであるかどうかは、わからない。それでもこの城が築かれたのには、倭(倭)朝廷にとって吉備国(きびのくに)を監視する必要があったことを覗わせるものではないか。
 しかも、この地は米などの穀物のほか、たたら鉄や塩を作っていたことがわかっている。中でも鉄は、上代から美作や備中の山岳の麓・川沿い地帯を中心に手広くやられていたことが伝わる。『延喜式』の巻二十四、主計帳には、美作国の租庸調(そようちょう)のうち「調」の一つとして砂鉄が挙げられる。平安時代末期(1130年前後と推測される)に編纂された『今昔物語』にも「今昔、美作の国、○多軍鉄を採る山有り。阿倍の天皇の御世に、国の司○云う人、民十人を召て、彼の山に入れて鉄を令掘(ほらし)む」(巻十一~十四、本朝、仏法に付く)とある。
 実際には、川の流れを使って土砂の中から砂鉄を採取し、これを「たたら」と呼ばれる溶鉱炉に入れて精錬する。ここに砂鉄というのは、主に山砂鉄を用いることになっていた。それにはまず、砂鉄の含有量が多そうな場所を探す。山間には、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出している場所がある。もちろん、そこから手づかみで砂鉄を取り出すのではない。そこで、水洗いのための水利に恵まれた場所を選ぶ。そして鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設ける。それから、できれば川の流れに沿って上流に貯水池を設け、その水が山際に沿って走る水路をつくる。山を労働者がツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って下り、下手の選鉱場へ運ばれるという案配だ。この水路を「走り」と言う。下手の選鉱場(洗い場)は3~4か所の洗い池に分かれていて、そこに溜まった鉄分を採取することになっていた。この一連の作業の流れを「鉄穴流し」と呼んでいた。
 後半の工程としての精錬だが、まずは粘土で固く築いた箱型炉(たたら炉)の中に、原料の砂鉄と補助剤の木炭を交互に入れる。それから、木炭に火を点け、たたらふいご(天秤ふいご)を使って火力を上げる。具体的には、戸板状の踏み板を片方に3人ずつ、両方に分かれ、まるでシーソーのように交互に踏み込むことで送風する仕組みだ。昔からの力仕事の一つとされ、勢い余って、空足(からあし)を踏むことを「たたらを踏む」との例えがある。
 時間が経つとともに、砂鉄が溶けて還元(木炭を燃やすことで砂鉄に含まれる酸素が飛ぶ、奪われること)されていく。この作業は、通常約60時間も続けることになっていた。それが済んだら、今度は炉を破砕し、炉の底にたまった灼熱と化した「けら」と呼ばれるものが出来上がっている、それを取り出す。これを「けら出し」と呼ぶ。ところが、こうした一連の作業によって砂鉄の採取の現場には大量の土砂があふれ、炭を作るための山林伐採で付近の山は禿げ山になってしまう。地盤も弱くなって、総じて環境に重大な影響を及ぼすのである。とはいえ、それだけの代償に鉄製の武器や、備中鍬などの農具を作ることができ、黍の勢力拡大に大いに役立ったことであろう。歌にも、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(『古今集』)などとある。
 今は松風そよぐ吉備の古代路は埋もれた形だが、古墳時代の吉備地方には、単一の権力基盤ではなかったのかもしれない。畿内大和の地にある、古墳時代前期と見られる前方後円墳と吉備地方にある古墳群との関わりは、何かあるのだろうか。およそ3世紀後半より4世紀初頭に造営されたと見られる纏向(まきむく)型の前方後円墳の分布ということでは、寺沢薫氏の『王権発生』(2000年刊行)に纏向(まきむく)古墳群のうち石塚、・ホケノ山、東田大塚、矢塚を平均した大きさを1とする対比が載っている。そして吉備国には、この類型に属する四つの古墳があるという。西の方から数えると、まず楯○、これは纏向(まきむく)型の原型とされ、2世紀末の造営と見られる。宮山は三世紀中ごろで、規模は4分の1、庄内式に分類される。中山は1.2倍あり、矢藤治山は3分の1の規模となっている。
 これらのうち、最大規模のものが岡山市吉備津にある茶臼山中山古墳(ちゃうすやま中山こふん)であり、墳長は約120メートル、後円部の直径は約80メートル、後円部の高さ約12メートル、前方部の長さは約40メートルである。こちらは、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半にかけての造営とも云われる。ただし、岡山市のホームページにおいては、「本墳の時期を決めるのは、現状の資料だけからでは困難であるが、もし最古の前方後円墳でなかった場合、足守川流域では最古の前方後円墳が少なく、かつ貧弱だったということになる。
 弥生時代後期の足守川流域では、多くの集落遺跡や墳丘墓を築いており、一大勢力を形成していたと考えられる。最古の大形前方後円墳が存在しないとすれば、そこに大きな歴史的意味があるといえる」(2016年6月松現在)と述べられる。このことから、纏向(まきむく)古墳(現在の奈良県桜井市)に類する型の前方後円墳と決めてかかるのは時期尚早とも考えられる。現在も、大吉備津彦命(きびつひこのみこと)という伝説上の人物の墓ということから宮内庁の管理下にあり、立ち入ることができないことになっているとのことだ。しかしながら、倭(大和)朝廷の大王陵墓でないのなら、管理を岡山県に移してもよいのではないか。
 彼らは、これ以後の律令政治への展開の中にだんだんと組み込まれていく。後の日本になってからの『日本書紀』などに従えば、6世紀中頃の555年(欽明大王16年)、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)を置いた。翌556年(欽明大王17年)には、後の大和朝廷が大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがいなめ)を同地に派遣して、備前国児島郡に児島屯倉(こじまみやけ)を設けることを承諾させ、葛城山田直瑞子(かずらきのやまだのあたいみずこ)を田令として派遣した。ここに屯倉とは、「御」を表す「ミ」と、「宅」ないし「家」を表す「ヤケ」の組み合わせた直轄地のことで、地方豪族の所領の中にヤマト朝廷への貢納・奉仕の拠点と、これに附属する耕田を手に入れた。朝廷への貢納と奉仕を負わされた「部」の制度とともに、それからの民衆支配の根幹をなすものとして全国規模でおかれ、進行していった。この政策を朝廷(欽明大王の下)で推進した中心人物としては、蘇我稲目(そがいなめ、彼が政治の表舞台に登場するのは6世紀前半のことであり、没年は570年)が知られる。
 これらのことを踏まえてか、故郷の『津山高校百年史』(下巻)での筆者は、これらのことから「五世紀後半の吉備への大王家の対応を想像するならば、南部の中枢にいた大首長に対しては軍事的な圧力によって、周辺の中小首長に対しては吉備中枢に対する自立を促す形で積極的に大王家の官僚組織に取り込むことによって、大王家にとって脅威であった吉備というまとまりの分断、弱体化を謀っていったものと考えられる」(岡山県津山高等学校創立百周年記念事業実行委員会百年史編纂委員会『津山高校百年史』(下巻)1995年刊)との、大胆な見解が提出されている。
 一方、美作の久米・大庭・勝田(かつまだ)、江見の辺りを治めていた豪族達は、大友皇子(おおとものおうじ、天智大王の長男にして太政大臣)の進める中央集権化の政治に反発して、はやばや吉野方の大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に加勢した。美作の豪族、地侍たちは、当時吉備の国からも圧迫を受けていた。とすれば、吉野方に加勢すれば美作の国としての旗挙げができる、いまがその潮時だと意気込んだのかもしれない。

(続く)

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