82『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代)
さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。これより総社地区に入る。履く備前のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。現在のおよその行路はこのようなのだが、総社に入って最初に現れる川こそが、この戦国末期の戦いに際し、攻防に大きな影響を与えたとされる足守川(あしもりがわ)なのである。
この地この時、秀吉が黒田勘兵衛の入れ智慧でとったとされる戦術の名は、「水攻め」なのであった。この周りの線に従っては、当時毛利方の援軍四万がぐるりと楕円陣を北向きに構えていた。そのあたりから北に向かっては、丁度すり鉢のような地形になっていて、それをぐるりと鳴谷川、長良川、血吸川などの小さい川がその周りを取り囲むように経由して、やがて合流する足守川の方へと向かって流れている。地質学者の宗田克己氏による推理(「私考」)には、こうある。
「高松城は当時沼の城として、低湿地の城として、中央に築城されその要害を誇っていたのであるが、これが近くに足守川という天井川があってのもので、もしも堤防が決壊でもすれば、簡単に浸水することに気がつかなんだらしい。これは私考であるが、このあたりは50ミリの雨で水田が冠水するほどのところであるので、秀吉の攻め込んだ時ももう一帯が冠水していて、それに長雨をたたられ、秀吉にしてみれば手も足もでなくなっていたところ、ふと思いついたのがいっそのこと、もっと浸水させて城に水が乗るまでにしてやろうと、足守川の堤防を決壊して見ずを仕掛けたまでのことで、歴史に伝わるほど秀吉は大したことをしでかしたとは考えていなかったのであろうと思う。」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59)
たしかに、梅雨時ともなればこれらの川らかは水かさが増し、ただでさえ湿地帯になるというのがふさわしい地形ではある。その湿地帯の中心部にある城に向かって、北西方面から下ってきて、そこからは西から東へと流れているのが立田川であって、この川の丁度、現在の吉備津駅と備中高松駅とに位置する「蛭ケ鼻」を羽柴軍が堰き止めた。高いところでは「7メートル」とも言われる土塁でぐるり囲んだという。そうなると、降りしきる五月雨は湿地帯の真ん中につくられていたこの城の周囲に溜まるばかりであった。人が自由に身動きできない状況をつくり出したことにより、毛利の軍勢は孤立無援と化した高松城の援軍に駆けつけることができなくなってしまった。
その両軍にらみ合いの最中の本能寺の変により、主君の信長が殺されたのを知った秀吉は、急遽毛利と和睦した。その停戦協定には、「高梁川より西は毛利、東は宇喜多」の支配下に入ることが記されていた。美作ではその後も、宇喜多の支配を拒む勢力が反旗を翻したものの、すでに態勢は決まったも同然で、1584年(天正12年)秋までには美作全域が宇喜多に帰した。
このあたりを舞台にしての作り話ではに、『桃太郎伝説』が名高い。この話の主人公の桃太郎は、桃から生まれた。だから、そのような人間はいる筈がない。それでも人として振る舞い、また動物たちを家来に従えて旅する訳なので、そのことに例を借り、処世訓なり現世への戒めなりを印象深く人民大衆に訴えたものと考えられよう。いまこの話の原型ができたといわれる、室町時代の中盤から末期にかけてを振り返ると、「戦国時代」や「下克上」(げこくじょう)とも形容される、油断ならない状況であった。この政治的混沌の時期には、『かちかちやま』や「舌きり雀」などの寓話も作られた。私たちの『桃太郎』伝説も、この時期に出来上がったと考えられている。前者の物語からは、同時代の殺伐たる空気が読み取れる。
実は、2016年春から、吉備線の愛称というか、別名というか、それがJR西日本の提案で「桃太郎線」と呼ぶことになる。それにしても、「桃太郎線」が、なぜここに登場してくるのであろうか。それこそは、ミステリーであるのだが、確かなところは分からないのが現状だ。ともあれ、話はこの国の中世から近世までに遡る。結論から言うと、前に述べた吉備津彦命と鬼の戦いの伝説が、別にあるところの桃太郎の寓話(ぐうわ)と結びついて、その結果『桃太郎』伝説が生まれたのではないかと。この二つの話を結びつけた立役者としては、岡山市の彫塑(ちょうそ)・鋳金(ちゅうきん)家の難波金之助(1897~1973)であって、彼は先の大戦前から「桃太郎会」を結成して吉備津神社を参拝したりで、両者の結びつきを大いに宣伝したとのこと。戦後になると、「桃太郎知事」と呼ばれ三木行治が岡山国体(1962)のシンボルに採用、そのあたりから行政も入っての「おらが国の桃太郎話」が喧伝されるようになる(詳しくは、例えば2016年6月4日付け朝日新聞、「みちものがたり・吉備路(岡山県)」)。
だが、物事、馴れないところで具体的な選択肢を伝えるには、先ず話の筋道を整えることが大切であって、何よりもこの寓話に込められた「凄惨さ、残忍さ」をぬぐい去る仕掛けが必要であった。案の定、岡山人がこの寓話を導入する時には、そうはうまくならなかった経緯があるようだ。そのためか、吉備線のみならず、宇野線の名称においても、また地元の人たちに提案があった模様。提案を受け手の地元の反応は、前向きのものではなかった、とも言われる。その理由としては、桃太郎寓話と容易に結びつくのではなく、「唐突感」があったからではないか、勝手に想像するのだが。
それでは桃太郎話の未来を切り開くには、どうしたらよいのであうか。そのためには、例えば、あの勇ましく、軍隊調の歌をなんとかしなければなるまい。全部をご存知でない方もおられるかと、歌詞には、こうある。
「1.桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたキビダンゴ。一つわたしに、下さいな。
2.やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に。ついて行くなら やりましょう。
3.行きましょう、行きましょう。あなたについて、どこまでも。家来になって、行きましょう。
4.そりゃ進め、そりゃ進め。一度に攻めて攻めやぶり。つぶしてしまえ、鬼が島。
5.おもしろい、おもしろい。のこらず鬼を攻めふせて。分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや。
6.万万歳、万万歳。お伴の犬や猿キジは。勇んで車を、えんやらや。」(作詞:不祥、作曲:岡野貞一氏による歌詞)
この歌については、あたかも、ほのぼの、ほかほかとした、血の通った「鬼退治」として、前向きの印象を持たれる人が多いのかもしれない。ところが、中身は相当に異なっている。1~3番目は、違和感はあるものの、まあ、普通の範囲内だろう。だが、それの歌も4番目、5番目の歌詞へと進むにつれ、なんだか様子が怪しくなっていく。最後では、主観としては、何というか、ガチガチという位に固くなだ。だから、おしまいまで歌う気がなくなってしまうのだ。なにしろ、岡山県人にとっては、子供の頃からの、余りに身近な歌なものだから、多分にこれまで幾たび歌ったか、数え知れない。それでも、なんだか寂しい気がしてならない。
この作り話の由来は、万物を干支(えと)でもってあてはめようという、陰陽五行説と関わりがあるのかもしれない。江戸期までには、今日に知られる全体の構成が出来上がったらしい。この物語は、鬼門の「丑虎」(うしとら)に対して、従わない者と見立て、力をもって征伐を加える構成になっているのは、室町以来の伝統を非木津って居るのかもしれない。しかも、桃太郎一人で征伐したのではなくて、猿や鳥や犬を黍団子の半分ずつを与え、彼らのやる気を引き出したことになっている。一部には、この話の発祥を岡山の吉備の里に見立てる向きもあるものの、元々はそうでなかった。その種の話は、日本全国に散らばっているとみる方が道理にかなっているのではないか。あわせて、全国で新規まき直しの話の伝わっていた愛知・犬山や高松・女木島(めぎじま)の『鬼ヶ島』洞窟話とも
連携するなどして、12世紀を見据えた平和を愛する桃太郎話の構築に努めたが良いのだろう。
(続く)
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