57『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)
その頃までの明治政府の主要ポストは、薩長土肥の出身者がほぼ独占していた。そこでこれによる専制政治を批判するとともに、早期の国会開設、地租軽減、政治的自由の拡張
などを求めて国民的政治運動が持ち上がった。
ゆえに、1874年(明治7年)1月12日、板垣退助ら民選議員が、当時の左院(当時の立法機関)民選議員設立建白書を提出した。これに始まる国会開設を初めとする民主化要求を掲げた運動が全国的にひろがっていく。1880年(明治13年)には、国会期成同盟が成立した。当時の板垣(1881年には自由党を組織)らの念頭にあったのは、いわゆる豪農や豪商、元士族の富裕層を中心に構成される議会であった。元士族においては、1877年(明治10年)の西南戦争の敗北以来、その没落が決定的になっていった。この運動は、時を経るに従い、新興ブルジュアジー(産業資本家階級)や一般農民の一部を巻き込んで、大隈重信(1882年に立憲改進党を組織)らの自由主義的な運動にも発展していく。やがて1890年の国会開設に繋がるこうした一連の運動の流れを、「自由民権運動」と呼ぶ。
1876年(明治9年)、北条県は合併で岡山県となったものの、県知事の権限が強く、政府の法律や規則などに縛られ、国への政治参加も限られていた。全国の自由民権運動の高揚に伴って、人民の政治的権利と人々の生活向上の願いが聞き入れられない状況が露わとなるに従い、岡山でも早期国会開設請願の署名運動などが進められていく。その岡山での自由民権運動の盛り上がりを伝えるものに、大衆演説会があった。1880年(明治13)11月22日付け『岡山新聞』に、こうある。
「作州津山辺では、市中を巡航せらるる一本筋の巡査のうちに、(中略)市中にて国会開設のことや、新聞雑誌の話などをしている者があると、これこれ其の方共は今何を話していたか、けしからぬ。隠さずと申し上げよ、とて、其の話していた事柄を聞糾(ききただ)し、住所姓名までたづねて手帳にひかえらるる」(『津山市史』第六巻)。
続く1882年(15年)4月27日、津山の二階町で開かれた自由大親睦会という名目での集会が、時の集会条例に抵触するとして即刻解散の憂き目にあう。のみならず、これに参加していた自由党美作部の党員が警察に連行されたとある(4月30日付け『山陽新聞』)。
ともあれ、こうして岡山の地では自由を求める運動が、官憲の望外に遭いながらも続けられていった。そして迎えた1890年(明治23年)7月の第1回の衆議院選挙で、岡山は7つの選挙区に分かれていた。美作でいうと、第六区からは立石岐(たていしちまた)、第七区からは加藤平四郎が当選した。同選挙後の1890年9月、立憲自由党が結成された。その旗印としては、皇室尊栄・民権拡張・内政簡略・対等条約・政党内閣実現などであった。翌1891年(明治24年)、立憲自由党は、岐阜で運動中に狙撃された、あの「板垣死すとも自由は死なず」で有名な板垣退助を総理とし、自由党と改称するに至る。
1878年(明治11年)には、府県会規則が制定された。同時に、郡区町村編成法、地方税規則が制定された。これらにより選挙による地方議会が発足したのである。選挙のやり方は、記名投票にして、選挙権は満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者に与えられた。県議会議員選挙規則も定められ、その翌年に県議会の選挙が実施された。とはいえ、ここに女性の参政権はおろか、男性も一定以上の地租を定める者でなければ、政治に預かれない、次の仕組みとなっていた。
「一、議員は郡区ごとに選挙で決める。
一、選挙人は、満二〇歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上を納めている者
一 被選挙人は、満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を定め満三年以上居住し、その府県内で地租一〇円以上を納めている者」(出所は、津山市史編さん委員会「津山市史」第六巻、明治時代)
1900年(明治33年)、衆議院議員の選挙権はその後、1900年(明治33年)に「直接国税10円以上の納税者」に改正され、有権者数はそれまでのほぼ2倍の98万人(2.2%)に拡大されたのだ。
(続く)
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114『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備前岡山(江戸時代以前)
備前の中心地・岡山へ通じる入口としては、さしあたり東西方向と北からのルートが一般的であった。古代のこの地域の地図を広げると、間近に海が迫っている。なので、南からのルートという場合には、後々の干拓なりを考慮する必要がある。1582年(天正10年)当時の岡山平野の南部一帯は、概ね平野であって、しかも東から西へ吉井川、旭川、笹が瀬川、そして倉敷川の下流域としてあった。
なお、1669年(寛文9年)から1686年(貞享3年)にかけての洪水対策工事で、吉井川と旭川の間に百間川(ひゃっけんがわ)が開削されている。それゆえこのあたりは、これらの河川が上流から運んできた土砂が浅い海に堆積してできた湿地帯なのであって、その先の湾(現在の児島湾)の向こうには、児島(こじま、現在の児島半島)が見えていた筈だ。1946年(昭和21年)から、国家事業で南部の干拓と敷地整備がすすんだ。これにより、1963年(昭和38年)までに約55平方キロメートルの土地を造成して、対岸の児島はついに地続きとなった。
それから数十年経た現在の岡山平野は、どうなっているだろうか。飛行機からの航空写真を観ると、画像を東西に横切って線状の構築物が走っている。北から順に山陽自動車道、山陽新幹線、そして国道2号線となっている筈だ。ここに山陽道(さんようどう)のかなり多くの部分は、これら3つの主要幹線とは、重なるところもあれば、少しばかり異なるところを通っていたとも言えるのではないか。
思い起こせば、江戸期までの山陽道は、「五畿七道」の一つとしてあった。この国の畿内と大宰府(だざいふ)を瀬戸内海沿いに連絡する主要な街道であった。この道は、備前国と備中国を、大方は平坦な道を通過していく。船坂峠で備前国に入る。三石、伊部を経由して、吉井川を渡り、一路、森下町の総門へと向かうのであった。
ところで、宇喜多直家(うきたなおいえ)による築城以前のこのあたりは、「岡山・石山・天満三峰そばたち、南は海にのぞみ、東西は広野也。北にわづかの里民有て出石村也朝夕の煙たつばかり也」ともいい慣わされていた。当時はまだ辺鄙な田舎であった。この直家という人物は、元はこの地の豪族であった浦上氏の家来であった。上道郡浮田の亀山城に居たのだが、東国の北条早雲に似てなかなかの策士であったらしい。その知謀をめぐらして次第に勢力を得ていく。そして1573年(天正元年)、彼は、現在の岡山城趾、西の丸あたりに居城していた金光宗高を謀殺してこれを奪い、自らの居城とした。
やがて直家が没し、その跡を継いだ子の宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、豊臣秀吉の大いなる信認を得ていく。やがて、備前国、美作国、播磨国西半分と備中国東半分の57万4千石を与えられる。当時、直家の居城であった石山城の東となりの丘陵は、「岡山」と呼ばれていた。
秀家は、1594年(文禄3年)、その岡山の地に新しい城の本丸を構えることにし、以後8年間にわたって城の大改修を行う。この城づくりにおいて秀家が工夫したのは、多方面にわたっている。曰わく「秀家は本丸に高石垣を積んで天守を建て、直家の城下町を拡大して二の丸・三の曲輪(くるわ)として整備した。その普請工事は慶長2年(1597)に完成した」(木戸雅寿編集「城の楽しい歩き方」新人物往来社、2004)とある。どうやら秀家は、なかなかに土木と建築に長けた人物であったようである。
ところで、現在の岡山城下の地形的な特徴としては、旭川の小さな蛇行をはさんで、城と城郭、そして掘割が設けてある。その西と南の外側に城下町の中心があった。一説には、本丸の東の守りが手薄であるとして、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように付け替えた。つまり、交通の山陽道(西国往来)を旭川の流れの南に迂回させて岡山城下に引き入れたというのであった。この通説は、1991~99年にかけての岡山城の地質調査によって覆った格好となっていて、次のように訂正されるべきだという。
「本丸の縁を流れる旭河は、宇喜多秀家がはるか東方を流れていた旭川を付け替えた結果とされてきた。しかし、下の段南東部で高さ一六メートルと関ヶ原合戦以前では全国屈指の高さを誇る秀家期の石垣の基底を掘ると、石垣より古い一六世紀代の河道堆積層が見つかった。秀家以前から今とほぼ同じ位置に旭川がすでに流れていたのである。秀家が行ったのは、当時あったいくつかの河道のうち一つを選んで美顔を施し旭川を固定したこととみられる。」(木戸雅寿編集「城の楽しい歩き方」新人物往来社、2004)
もしこれが事実なら、秀家は既に在った旭川の分流の中から一つを選んで土手を積み上げ、大きな流れとなるように変更したのではないか。また一説には、旭川を城下北方で二流に分けて洪水に備えたのだとも言われているので、ここでの断定は避けたい。
この城普請の後は、東から来て岡山城下に入るには、備前(現在の備前市)の方から当時の山陽道をやって来る。現在の国道2号線(旧山陽道)を北東から南西に辿って歩いてくる。そのうちに旭川東岸にあった森下町にたどり着く。当時のそのあたりはまだ、城下町の外延部と言ったところか。
それから古京町へ移る。森下町の土地柄は、元はといえば備前の国上道郡国富村に属していた。それが、桃山時代の天正年間に、城下町の山陽道東入口として位置づけられたのだと考えられる。そこに相生橋が架けられてからは、旅人はその橋を渡って城下に入ることもできた。旅人がこの橋を渡ったところは現在の内山下(うちさんげ)地区である。そこには既に城下が展開している。
その頃、東の方からやって来て岡山を通り抜けようとする旅人のかなりは、むしろ森下町、古京町と旭川東岸を下って、門前屋敷町を通っていたのかもしれない。やがて旅人の視界に国清寺の大伽藍が入ってくる。その前を右折してからは直進して、旭川の長い中州に架かる京橋を西へと渡る。1847年(弘化)この橋が駆けられた時に描かれた木版画が残っている(岡山市立図書館蔵「国庫文庫の中の「京橋渡り初めの図」」として)。
そうして旭川を人びとが渡った先は、京橋南町、その北は西大寺町が展開していた。かけ彼らのそれからの進路であるが、山陽道をなお西へ進んでいく。一宮を経て西辛川で備中国に入る。板倉宿を過ぎて、備中国分寺を見る。それからは高梁川を渡り、川辺宿に到る。さらに古の国分寺の立っている吉備へと歩を進め、本陣の残る矢掛(やかげ)を過ぎ、井原(いはら)を過ぎて、さらに隣国の安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)へとつながっていく。
そこからの城造りは、関ヶ原の役で西軍に属し敗走した秀家に代わって、1601年(慶長六年)小早川秀秋が引き継ぐことになる。秀秋がつくったものに外堀がある。こちらは、西の丸及び二の丸の外周にある内堀、三の曲輪、さらに中堀、三の外曲輪とあって、それのさらに外側(西)にあった。秀秋と言う人は、城造りには長けていたらしい。というのも、彼はこの外堀を二十間(一間は約1.8メートル)に造成したと伝えられており、別名「二十日掘」とも言われてきた。その名残が、現在の市内中心部を南北に貫く柳川筋に残っている。ところが、その秀秋は岡山に入封するも、わずか二年で病没し、継嗣のいない小早川家はあえなく断絶となる。
替わって入城した池田光政の二男忠継が備前一国31万5石を江戸幕府から扶持されて入封した。その後の1632年(寛永9年)に鳥取から親戚筋の池田光政が入城すると、さらに城造りに磨きをかけていく。その最たるものが大名庭園であって、1686年(貞享3年)家臣津田永忠を奉行に任じて造らせる。それから14年後の1700年(元禄13年)に、一応の完成を見たと言われる。明治維新が来るまでは「茶屋屋敷」ないしは「後園」と呼ばれていたものが、1871年(明治4年)からは後楽園と称される。
第二次大戦後にかなりの城郭が再建されてからの、特に池を経て視界に岡山城天守を取り入れた借景には、全国でも第一級の風情があるのではないか。かつての支配者達が贅(ぜい)を凝らした造りをして栄華もしくは風雅等々を愉しんだとされる岡山城そして庭園も、今では庶民の憩いの場となってその美を受け継がれている。
(続く)
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61『岡山(美作・備前・備中)の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(米騒動)
1918(大正7)年7月、漁師の妻らが米の北海道への移送の中止を求めて、富山県の魚津港の米倉へ押し寄せた。これが発火点になり、富山県内の水橋や滑川を経て、全国規模に拡大した。この発端の事件を「越中(えっちゅう)女一揆」と呼ぶ。富山での、この事件の勃発から始まって、一両日の間に全国津々浦々に広がっていくスピードぶりであった。同年7月22日から9月17日までの間、全国において米騒動が発生したところは49市448町村あったうち、岡山県は1市、50町村、計51市町村に跨っていて、広島県、島根県などと並んで全国トップレベルの発生件数であった。
岡山市における米を巡っての騒擾(そうじょう)については、こんな報道がある。
「岡山精米会社の特等白米は、暴騰また暴騰ついに五十円七十銭(一石)となり、市民一般さんたんたる状態におちいりたる折柄、岡山市内山下・吉田石蔵(三八)、森下町・水沢三太郎(三六)らは十数名の若者と語らい隊を組みて、九日午前九時半岡山米穀取引所におしかけ、立会の終わるのを待伏せ、貧乏人の敵だ、たたき殺せとわめきたて、鉄拳をふるって仲買人らに喰ってかかり、客筋連はろうばいして逃げまよう騒ぎに、数百人の群衆、喧曄の渦にまきこまれ、口々に『仲買人は人類の敵だ』と絶叫し、アワヤ一大事に及ばんとしたり。急報に接し、岡山署にては各駐在巡査を召集し、署員また現場へかけつけ、ようやくにして取りしずめ、警察署へ連行した。」(1918年8月10日付け「大阪朝日新聞」)
美作においては、どんな様子であったのだろうか。その美作では1918年8月8日の深夜、落合町から騒動が始まり、翌9日には、津山町の南新座の米屋が春に一升25銭であった米の値段を同49銭に引き上げるとの知らせが入った。これに怒った人々は、10日になると、それぞれの役場前に集まって気勢を上げたり、米屋などに押しかけた。久世地方では、大勢の民衆が集結して輸送中のコメを襲撃した。騒動は美作一円に広がりつつあったものの、11日になって安い外米の買付け交渉が実り、神戸から千俵が入ったことで安売り放出するに至り、かろうじて役人と商人達は難を逃れることができた。なお、当時の津山町はま市制が敷かれていなかった。これが敷かれたのは後の1929年(昭和4年)のことで、津山町と西苫田村、二宮村、院庄村、福岡村の一町4か村が合併して、津山市が誕生した。同年、勝北郡と勝南郡とが合併して、勝田郡が誕生した。
さしもの政府も人民大衆の怒りを緩和するための対策に乗り出す。その一環として同年10月には、米穀輸入税減免令の措置がとられた。同年11月の休戦によって、日本経済は「反動不況」に入っていく。
(続く)
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