□47『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、倉敷騒動)

2016-12-22 18:37:49 | Weblog

47『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、倉敷騒動)

 倉敷浅尾騒動(くらしきあさおそうどう)というのは、1866年5月24日(慶応2年4月10日)、長州藩第二奇兵隊幹部の立石孫一郎に率いられた兵が備中に入って起こした事件のことである。これより前の同年旧暦4月5日夜、周防国(すおうのくに)熊毛郡大和町(2003年4月21日に徳山市、新南陽市、鹿野町と合併し、新たに周南市に組み入れられている)の石城山を本拠地とする第二奇兵隊(南奇兵隊)が突如動いた。立石孫一郎をリーダーとしたかれらは、同隊参謀楢崎剛十郎を殺害し一気に山を駆け下った。この部隊は、翌朝遠崎(山口県大畠町)より船で出帆、備中倉敷に入った。そこには、当時幕府代官所があった。これにおよそ100人で攻め入って代官所を焼払った。ここに倉敷代官所は、江戸幕府直轄の代官所であった。
 具体的には、この日の早暁に強雨の中襲撃が決行された。代官所襲撃の主目標は、代官の誅殺であった。しかし、代官の桜井久之介は、広島に出張中で不在であった。幕府側の上級武士はいち早く逃亡し、代官所に踏みとどまった9名が死亡した。襲撃後、立石ら襲撃部隊は総社に向い、宝福寺に宿営した。
 同4月13日暁、彼らは今度は浅尾藩陣屋に現れる。ここに浅尾藩というのは、1864年、禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに御門直近の警護をしていた藩である。襲撃部隊は、まず郡会所と観蔵寺に放火する。さらに藩士宅などに火をかけた。これで浅尾藩陣屋内は大混乱に陥り、浅尾藩は大砲3発を発射したものの、生存者の全員が陣屋から命からがら逃げ去った。
 この二つの陣屋を襲撃した後の彼らは、高梁川河口付近において休憩中に、広島から派遣された幕府軍の銃撃を受けて潰走していった。彼らの多くは、長州藩領へ逃げ帰っていった。立石孫一郎は隊士の助命嘆願工作中に潜伏先で殺害され、脱走隊士の多くが陣営から許可なく離脱したかどで、藩政府により捕縛、処刑された。
(続く)

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□59『岡山の今昔』明治時代の岡山(地租改正、1871~1875)

2016-12-22 18:24:02 | Weblog

59『岡山の今昔』明治時代の岡山(地租改正、1871~1875)

 さらに新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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