192の3の7『岡山の今昔』岡山人(19世紀、森下景端)
森下景端(諱(いみな)はもりしたけいたん、通称は森下立太郎(もりしたりゅうたろう)、1824-1891)は、岡山藩の武士にして、宗教家だ。
幼い頃から、覇気に富んでいたという。やがての1864年(元治元年)には、事情探索の藩命により長州ついで京都に赴き、諸藩の事情に通じるうち勤王論に傾いたという。1865年(慶応元年)に郡奉行(こおりぶぎょう)となるも、藩の事情で下士(かし)に落とされたと伝わる。
森下景端(諱(いみな)はもりしたけいたん、通称は森下立太郎(もりしたりゅうたろう)、1824-1891)は、岡山藩の武士にして、宗教家だ。
幼い頃から、覇気に富んでいたという。やがての1864年(元治元年)には、事情探索の藩命により長州ついで京都に赴き、諸藩の事情に通じるうち勤王論に傾いたという。1865年(慶応元年)に郡奉行(こおりぶぎょう)となるも、藩の事情で下士(かし)に落とされたと伝わる。
さて、同じくの郡奉行のとき、こんな話が伝わる。
「さて、しばしば登場する森下立太郎が郡奉行であったとき、軍事上の業務で児島郡内を巡訪したときに、同郡のある大庄屋組の農民から、急迫した時節がらを傍観することはしのびないからと約千両の献金の申し出をうけたことがある。このことに森下はたいへん感激して、やがて全藩内からの献金を二万五千両と見積もって、うち1万両を文武振興費に、一万五千両を勧農費にあてたらという意見を、貝太鼓奉行(軍監)牧野権三郎あてに上申した。
おそらくこの森下の献策がいれられたものと思われ、慶応二年三月に家老日置帯刀(ひきたてわき)が児島郡内を廻って、吹上村の大庄屋格荻野久兵衛、味の村の大庄屋野崎武左衛門、興除新田内尾の名主岩崎益治、大崎村の大庄屋三宅治三郎、上村の名主鎌田弥太郎の五人と密談をしたことかあるが、やがて上記五人は郡内で金七万両余を調達しており、同年七月に「御作廻御融通方新法」ができたとき、右の五人がこの融通方を中心として、農民からの献金ないしは借上げ金を運用することによって、赤字財政がある程度緩和されて兵制改革も促進されることになったのである。」(児島幸多、北島正元編「物語藩史6」1965に所収の谷口澄夫「岡山藩」より引用)
森下はまた、農兵の必要性を藩主に進言する。折しも、1866年(慶応2年)の倉敷では、長州第二奇兵隊の脱走浪士たちが倉敷代官所と蒔田氏(まきたし)の浅尾陣屋を襲って占拠する動きがあり、岡山藩は、浅尾藩からの要請と幕府からの指示に従い、池田隼人(いけだはやと)と森下を責任者として派兵するも、浪士たちの逃走を許してしまう。そのことで、藩は、池田、森下らを謹慎などの処分にした。
「さて、しばしば登場する森下立太郎が郡奉行であったとき、軍事上の業務で児島郡内を巡訪したときに、同郡のある大庄屋組の農民から、急迫した時節がらを傍観することはしのびないからと約千両の献金の申し出をうけたことがある。このことに森下はたいへん感激して、やがて全藩内からの献金を二万五千両と見積もって、うち1万両を文武振興費に、一万五千両を勧農費にあてたらという意見を、貝太鼓奉行(軍監)牧野権三郎あてに上申した。
おそらくこの森下の献策がいれられたものと思われ、慶応二年三月に家老日置帯刀(ひきたてわき)が児島郡内を廻って、吹上村の大庄屋格荻野久兵衛、味の村の大庄屋野崎武左衛門、興除新田内尾の名主岩崎益治、大崎村の大庄屋三宅治三郎、上村の名主鎌田弥太郎の五人と密談をしたことかあるが、やがて上記五人は郡内で金七万両余を調達しており、同年七月に「御作廻御融通方新法」ができたとき、右の五人がこの融通方を中心として、農民からの献金ないしは借上げ金を運用することによって、赤字財政がある程度緩和されて兵制改革も促進されることになったのである。」(児島幸多、北島正元編「物語藩史6」1965に所収の谷口澄夫「岡山藩」より引用)
森下はまた、農兵の必要性を藩主に進言する。折しも、1866年(慶応2年)の倉敷では、長州第二奇兵隊の脱走浪士たちが倉敷代官所と蒔田氏(まきたし)の浅尾陣屋を襲って占拠する動きがあり、岡山藩は、浅尾藩からの要請と幕府からの指示に従い、池田隼人(いけだはやと)と森下を責任者として派兵するも、浪士たちの逃走を許してしまう。そのことで、藩は、池田、森下らを謹慎などの処分にした。
これにに連なっての第二次の、幕府による「第二次長州征伐」においての岡山藩は、別でも触れたように、最終的には、備後境まで兵を動かして、そこで止め、表面的にのみ幕府に従う。
そしてこの征伐が失敗してからは、岡山藩は、俄然、幕府から距離をとるようになっていく。そこへ、かねてからの森下らの農民兵を取り立てが通って、森下らは藩命に従い耕戦隊(後に、遊奇隊)を組織し、岡山藩の軍事力の一翼を担っていく。
森下は、これを指揮して、戊辰(ぼしん)戦争に従軍する。その手柄により、150石を与えられ、上士格となる。
明治維新後に、権大参事の要職に就く。藩の参政の一翼を担うも、大参事の伊木忠済と張り合い。1873年(明治6年)には、大分県令になる。そして、公務の傍らであろうか、さらに、精励しての同県令であったのが、健康上の理由ということで同職をあっさりと辞任後は、かねてからの信仰を前面に出して生きていく。1876年(明治9年)に黒住教が別派独立を認可されてからは、黒住教(くろずみきょう)の副管長として布教にあたる。
(続く)
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(続く)
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