◻️177の1『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随と宇田川玄真)

2020-04-28 22:52:56 | Weblog

177の1『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随と宇田川玄真)

 

 宇田川玄随(うだがわげんずい、1755~1797)は、津山藩医、宇田川道紀の長男に生まれる。その家というのは、元々武蔵野国の出身であった。
 大人となっては、代々の漢方医を継ぐ。宝暦年間(1751~1764)に津山藩医を務める。

 しかし、桂川甫周(かつらがわほしゅう)や前野良沢(まえのりようたく)に西洋医学を学ぶうち、蘭方医に転じる。
 そんな中でも、オランダ語の習得が必要であったからとて、いわゆる横文字との格闘が伝わる。


 1792年(寛政4年)に同藩内で、解剖を行う。その場所というのは、あるいは旧兼田橋下の処刑場であったのだろうか。

 また、「西説内科撰要(せいせつないかせんよう)」を著わし、西洋内科を初めて体系的に日本に紹介する。

 なお、本人は、その刊行途中での死なのであって、万感迫るものがあったのではなかろうか、養子の宇田川玄真が遺志を引き継ぐ。
 珍しいところでは、その顔、表情が人物絵(岡山県立博物館)としても文字としても伝わっていて、大槻玄沢は「・・・是は御顔ふとり(過ぎ)申候、失礼ながら御目は市川荒五郎(団蔵の後)に似たり候。御鼻は荻野伊三郎(上村吉弥の後)に高麗や(松本幸四郎)を合たる気味合なり、色白く一体小づくり也、笑たまう時癖あり口伝」と評定している、また一説によると、「東海夫人」との渾名があるほどだ。

 顧みると、彼は津山、みまさかそして岡山はおろか、日本の西洋医学の大いなる草分けにして、いま少しの寿命があったなら、医学に支えし自らの人生を何かしら語ってもらいたかった。

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 宇田川玄随の養子に宇田川玄真(うだがわげんしん、1770~1834)がいる。そもそもは、伊勢の安岡家の生まれだ。その家は、「農家にて士族の家を継ぐこと能わず」(宇田川準一の手記より)とある。

 やがて、江戸に出る。そして、蘭学を学ぶ。さぞかし、昼に夜にと、勉強に勤しんだのであろうか。


 その後、杉田玄白の養子となるも、後に離縁となり、さらに玄髄の養子にいたったのだという。先ほどの引用の続きには、因て稲村三伯の弟分として宇田川家へ入籍したり」(宇田川準一の手記より)とある。


 親族や門人、それに官医の桂川甫周及び大槻玄沢らが合議して、これを認めたという。 


 そんな数奇な歩みの彼なのだが、学問の才に頭角を現していく。オランダ語などの語学に優れた。「遠西医範」(30巻)をものにし、またその要約本の「医範提要」(3巻、1805)、及びその付図としての「内象銅版画」を著わす。なお、「医範提要」は、解剖、生理及び病理学をわかり易くまとめたものだ。

 玄真の業績としてはそればかりでなく、時代の要請があったようなのだ。語学の才をかわれたのであろうか、幕府の命で天文方の高橋景保(たかはしかげやす、伊能忠敬の師匠)に協力し、「阿蘭陀書籍和解御用」を務める。その翻訳の力は、「蘭学中期の立役者」の名があるように、当世の中でも群を抜く程の評判であったと伝わる。

 

(続く)

 

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