46の1の1『岡山の今昔』版籍奉還(1869)
明治維新となって、内戦も終結し、世の中が落ちついてきての1869年(明治2年)、それまで幕府や各藩、貴族などがもっていた土地や人民などを、朝廷が手にするための最初の手続きが準備された。薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允(きどたかよし)が中心となり画策し、「薩摩、長州、土佐、肥前の四藩の藩主が連署し、次の上表文を朝廷、つまり天皇に提出する。
「薩長土肥四藩主連署し版籍奉還の表を上る、臣某等頓首再拝
謹て案ずるに、朝廷一日も失る可らざる者は大体なり。一日も仮す可らざる者は大権なり。天祖肇て国を開き基を建玉ひしより、皇統一系、万世無窮、普天率土、其の有に非ざるはなく、其臣に非ざるはなし。是れ大体とす。且つ与へ且つ奪ひ、爵禄以て下を維持し、尺土も私に有すること能はず、一民も私にはむこと能はず。
是れ大権とす。方今大政新に復し、万機之を親らす、実に千歳の一機、其名あつて其実なかる可らす、其実を挙るは大義を明にし名分を正すより先なるはなし。嚮に徳川氏に起こる、古家旧族天下に半す、依て家を興すもの亦多し、而して其土地人民、之を朝廷に受ると否とを問はす、因襲の久しき以て今日に至る。
世或は謂らく、是祖先鋒鏑の経始する所と、吁何そ兵を擁して官庫に入り、其貨を奪ひ、是死を犯して獲所のもの云に異ならんや、庫に入るものは人其賊たるを知る、土地人民を攘医奪するに至っては、天下これを怪します甚哉名義の紊攘する事。今也丕新の治を求む、宜しく大体の在る所、大権の繋る所、毫も仮すへからす。
抑臣等居る所は、即ち天子の土、臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安んそ私有すへけにや。今謹みて其版籍を収めて之を上る。願くは朝廷 其宜に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪ふべきはこれを奪ひ、凡列藩の封土、更に宜しく詔命を下し、これを改め定むへし。
而して制度典型、軍旅の政より戎腹器機の制に至るまて、悉く朝廷より出て、天下の事、大小となく皆一に帰せしむへし。然后に名実相得、始めて海外各国と並立へし。故に臣某等不肖○劣を顧みず、敢えて鄙衷を献す。天日の明、幸に照臨を賜へ。臣某等誠恐誠惶、頓首再拝、以表。
明治二年正月」
ちなみに、郷土の士族代表格の岡山藩主の池田章政(1836~1903)は、戊辰戦争では朝廷の命を受け、関東・東北・北海道方面にまで出陣する。
そしての4藩主の版籍奉還となるや、岡山藩でも、それからほぼ1か月後、版籍を奉還したいと申し出る。そうして、他藩とともに版籍奉還に列し、藩主の池田章政は、明治政府により岡山藩知事に任命される。同時に、それまでの藩主と家臣との主従関係は名目上は廃止となってしまう。ついては、藩主は華族、藩士は士族とされた。
続いての1871年(明治4年)の廃藩置県では、池田は藩知事を免職となり、東京に移住する。その後は、貴族院議員、第十五国立銀行頭取などを務め、羽振りが良かったのは疑いなかろう、1884年(明治17年)の華族令により、彼は侯爵を授けられる。
そして、備前、備中及び美作には、14県が置かれることになり、地域社会は大きな変動にさらされていく。これに対しては、各地で旧藩主引き留めの運動が起こる。そんな中から、岡山藩の例を以下に紹介しよう。
(続く)
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192の3の8『岡山の今昔』岡山人(19世紀、江見鋭馬)
1863年(文久3年)には、同藩の親戚筋の一条左大臣忠香(ただか)から、「朝旨によって薩摩や長州などの国事周旋が行われることになっている、ついては備前でも同様に国のために働いてほしい」との連絡が入る。そこで藩では、他の3人と共に、当時弓組士であった江見が、周旋方に任命される。以降、京都に出向き、全国からの勤王派や公家とも交わる。
江見鋭馬(えみえいま、通称は陽之進、1834~1871)は、岡山藩士、のち政治家。作家の江見水蔭の父でもある。
1863年(文久3年)には、同藩の親戚筋の一条左大臣忠香(ただか)から、「朝旨によって薩摩や長州などの国事周旋が行われることになっている、ついては備前でも同様に国のために働いてほしい」との連絡が入る。そこで藩では、他の3人と共に、当時弓組士であった江見が、周旋方に任命される。以降、京都に出向き、全国からの勤王派や公家とも交わる。
それからしばらくして、藩主の池田慶政(いけだよしまさ)は、かねてから健康上の理由に引退したいと考えており、できれば然るべき婿養子(養嗣子)に迎えたい。だが、藩論はもめて、なかなかまとまらなかったという。
そんな中にて、水戸藩主の徳川斉昭(とくがわにりあき)の九男である九朗磨(のちの池田茂政(いけだもちまさ))を取り持とうと、周旋方の江見陽之進が、「岡山藩の尊皇攘夷の旗印を明らかにすべし」と説いてまわり、軍監を務めていた牧野権三郎も加勢するに及んで、ついに藩論がまとまり、茂政は藩是(はんぜ)を定めるため岡山に入国する。
そして、禁門の変の変で「朝敵(ちょうてき)」となった長州藩に対する寛大な措置を求めて運動するも、十分には果たせなかった。また、藩命にて幕府の15代将軍となっての徳川慶善(とくがわよしのぶ)に会い、兵庫開港の不可を進言するも、慶善は同意せず、兵庫開港の勅許を得る。
そしての明治維新後は、藩政府顧問兼外交方頭取、ついで岡山藩権大参事を務めるも、長らくの無理のためであろうか、38歳で力が尽きたという。思うに、時代の大きな変わり目ということでは、諸事情の流れはともすれば急迫にして、それゆえに彼のような切磋琢磨の人を必要としたのかもしれない。
(続く)
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そんな中にて、水戸藩主の徳川斉昭(とくがわにりあき)の九男である九朗磨(のちの池田茂政(いけだもちまさ))を取り持とうと、周旋方の江見陽之進が、「岡山藩の尊皇攘夷の旗印を明らかにすべし」と説いてまわり、軍監を務めていた牧野権三郎も加勢するに及んで、ついに藩論がまとまり、茂政は藩是(はんぜ)を定めるため岡山に入国する。
そして、禁門の変の変で「朝敵(ちょうてき)」となった長州藩に対する寛大な措置を求めて運動するも、十分には果たせなかった。また、藩命にて幕府の15代将軍となっての徳川慶善(とくがわよしのぶ)に会い、兵庫開港の不可を進言するも、慶善は同意せず、兵庫開港の勅許を得る。
そしての明治維新後は、藩政府顧問兼外交方頭取、ついで岡山藩権大参事を務めるも、長らくの無理のためであろうか、38歳で力が尽きたという。思うに、時代の大きな変わり目ということでは、諸事情の流れはともすれば急迫にして、それゆえに彼のような切磋琢磨の人を必要としたのかもしれない。
(続く)
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