◻️192の19『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、香川英五郎)

2020-04-03 21:34:11 | Weblog

192の19『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、香川英五郎)

 香川英五郎(かがわえいごろう、後に「香川真一」の名前を用いる、1835~1920)は岡山藩士、後に実業家さらに政治家である。岡山藩士の岡長左衛門の次男として生まれる。1848年(嘉永元年)には、父に随って江戸藩邸住みとなる。やがて、藩命で西洋流砲術を学ぶ。
 28歳で岡山藩士、香川七太夫の養嗣子となる。そして翌年、同藩士青山陽三の娘好子と所帯を持つ。香川家は、藩主池田家が三河国にいた頃からの譜代家来で150石を給されていた。
 1864年(元治元年)には、大砲御用掛となって兵制改革論を建白する。岡山藩が受けもった房総海岸の防備につき、野田久之助らとともに、新流大砲術の修業者が中心となって、江戸深川や武蔵国川口の鋳物師に依頼して大砲を作らせ、房総の台場で新式大砲の試射を行い、成功させる。
 1866年(慶応2年)には、邑久郡・和気郡を管轄する郡奉行となる。そうして、香川は政治面でも、力を蓄えていく。
 維新後の岡山藩では、追々、それまでの家臣団の等級や格席は縮小、全廃されていく。その流れに乗って、彼や森下立太郎のような下級武士が台頭していく。
 1869年(明治2年)、香川は、権大参事になる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に先立つ半年前に第1回欧米視察団に選ばれ、津田弘道らとともに欧米を視察する。
 翌年に帰国後は、伊万里県参事、静岡県参事、工部省勤工助、製作権頭を務めていく。そしての1876年(明治9年)には、大分県権令に就任する。1878年(明治11年)には、県令となる。同年、大分県民会仮規則を布告し、大分県民会の開設に漕ぎ着ける。

 1879年(明治12年)になると、同県令を退任し、岡山県に戻る。それからは、第二十二国立銀行、岡山紡績、岡山製紙の取締役、岡山殖産協会会頭、岡山商業会議所会頭など幅広く役員を務める。さらに、1887年(明治20年)には、岡山県会議員に当選し、1891年(明治24年)には議長となる。1903年(明治36年)から1917年(大正6年)まで牛窓町長を務める。
 これらをもって香川自身、おそらくは、「波乱万丈」というべきか、その人生の大方が、外見的には「疲れ知らず」ながらも、その実にしてひたすらな旅路であったのではないだろうか。


(続く)

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